第12話

    八 蒸気車

 どこかで天使が鳴いていた。環にはその響きは美しく清浄に聞こえ、思わず涙ぐんでしまったほどだった。しかし郷子は言う。

「ちっ。苛立っているわ。天使は鳥目だから、今私たちが倒した忍者の血の匂いを嗅いでいるのに食べに行けなくて気に入らないのよ」

 気付かれないように、馬は水車からかなり離れた所で乗り捨てていた。環と郷子は足音を忍ばせて水車へと近付いていた。水車に隣接して高さ二間(約三六四センチ)もある土塀に囲まれた敷地がある。薄い雲を透かした月明かりはあるが、塀に阻まれて中の様子は見えない。建物は高くない。塀の向こうに少しだけ屋根が覗いている。平屋かせいぜい二階建だ。郷子が聞く。

「中の様子は判らないのね」

 環が頷く。

「はい。水車も家も八年前にはありませんでした」

 環を物陰に潜ませ、郷子は水車と塀の周囲をぐるりと回ってみた。水車は大きいが水車小屋に類する建物がない。どうやら水車の力は地中に導かれ、そこで何かの仕事をしているらしかった。建物と水車は地中で繋がっていると考えるべきだろう。塀には、広い道に面したやけに大きな正門の他に小さな裏門があった。外側には明りが灯されていないが、耳を澄ますと薪が燃えて爆ぜるような音がした。塀の内側には篝火が焚かれているのだろう。門番や見張とおぼしき人影はない。迎え撃たせた忍者たちを信頼しているのか、罠なのかは郷子にも判らない。

 裏門の近くに環を呼び寄せて背負子を預け周囲を見張らせると、郷子は助走を付けて土塀を駆け上がった。片瀬城の地下道でやったのと同じ要領である。塀の上まで駆け上がるのに充分な勢いがあったが、郷子は頂近くに握三日月剣を突き立てて両手でぶら下がった。身体を引き上げて塀の上を見ると郷子が予想した通り小さな刃物が沢山刃を上にして埋め込まれていた。郷子は刃物を避けて塀の縁に足を掛けると、一気に飛び越えた。郷子は易々と侵入を完了した。音もしなければ姿を見られる事もなかった。しかし匂いは消せなかった。郷子の倍も体重がありそうな犬が五頭、唸りながら駆け寄って来た。郷子は睨み付け、短く「邪魔をするな」と無声音で言った。人間と違い、犬は郷子の小柄さに誤魔化されずその恐ろしさを悟ったようだった。五頭の大型犬はひどく怯え腰を抜かして小便を漏らした。閂を外して環を招き入れた。環はいったん塀の内側に入ってから裏門から顔を出し、手を口に当てて梟の声で、ほうと鳴いた。遠くからほうと返事があった。

「家来たちを呼んでも良いでしょうか」

 環が聞くと郷子は黙って頷いた。環は今度は、ほうほうと二回鳴いた。手順は綺麗だったが侍たちが駆け寄って来る気配は郷子には丸判りだった。警備が厳しければ呼ばせない所だ。六人は塀の中に入って様子を窺った。武家屋敷風の作りだが、庭が狭く小ぢんまりしている割には柱が太く壁が厚い。水瓶がやたらと多いのは火を射かけられた時の用心だろう。住居に見せ掛けているが、陣屋、城の出丸として使用する事を目的としているのではないかと思われた。不釣り合いに大きな正門も何か戦闘のための目的がありそうだった。

 人の気配を感じ、郷子たちはそれぞれ背の低い庭木の陰に屈み込んだ。建物の角を曲がって二人の侍が歩いて来た。警固の巡回であろう。庭木は小さく、郷子一人ならともかく、環の家来たちはすぐに見付かるだろう。郷子は動いた。警固の侍たちは仰天した。郷子は完璧に気配を絶っていたので、出し抜けに宙から涌き出したように見えたのだ。しかし侍たちが驚きの声をあげる前に郷子の両掌が二人の胸を同時に打った。二人は何が起こったか判らぬまま絶命した。郷子は倒れ掛かる死体を音がせぬようにそっと横たえた。

 一周した訳ではないが、見た所建物の雨戸は全て閉じられているようだった。郷子一人なら如何様にも忍び込めるが騒々しい連れがいるので玄関から入る事にした。環たちを連れて表に回ると郷子は玄関の木戸に貫手を叩き込んだ。手首までずぶりと突き込まれた。大きな穴が開いたが、ばりっという小さな音がしただけだった。手探りで内側の掛け金を外すと、建て付けの良い戸は音もなくすっと開いた。郷子と並んで先頭を歩いていた環は三和土で草履を脱ごうとし、郷子に「馬鹿ね」と言われて赤面した。皆土足のままつかつかと屋内に入った。

 寒い。寒い。寒い。寒い。

 途切れていた映美の鬼神通が郷子に伝わって来た。しかし微かだ。鬼神通の通りにくい場所にいるせいもあるが、映美が弱っているせいでもあるようだった。しかし取り敢えずは生きている。郷子はほっと息を吐いた。環の後ろを歩く家来が何かを蹴飛ばしてごとりと音をさせた。環がびくりとして立ち止まったが郷子は平然としている。内心ではほくそ笑んでいた。誰も音を立てなかったら自分がたてようと思っていたのである。奥の方が騒がしくなり、ばたばたと人が集まって来た。がらりと襖が開いた。眠晃の刀が一閃して、襖を開いた侍の喉を切り裂いた。後ろの侍が悲鳴をあげた。

「曲者じゃっ」

 刀を抜き、振りかぶった。鴨居に斬り込んで抜けなくなった。そこを環の家来に腹を裂かれた。身なりこそ雑兵ではなく武士だが、大した敵ではない。郷子は環たちに任せる事にした。郷子は現れた侍たちの横を駆け抜けた。

「待てっ」

「きさまっ」

「どこへ行くっ」

 二十人も集まっただろうか。次々に郷子めがけて刀が振り降ろされ、薙ぎ払われ、突き込まれたが、郷子はひょいひょいと身体を反らし、身を屈めて躱しながら一度も立ち止まる事なく駆けて行った。全て躱して更に奥へ走って行くと最後尾の侍が踵を返して郷子を追おうとした。その背中を環が切り裂いた。

 郷子は下へ降りる道を探していた。階段か、梯子か。映美の鬼神通は地下から伝わって来た。廊下を走っていると足音の変わる場所があった。一旦行き過ぎてから駆け戻る。隠し扉を探す手間も惜しんで掌底を叩き込んだ。床板が砕け散って地下への階段が現れた。駆け降りる。その先は広い板の間になっており、左側に二人の男が居る。壁から四本の木の棒が突き出しており、棒の根元に溝が彫られた構造を見ると、この棒は何かの機関を操作するための引き手であろうと想像が付いた。映美の鬼神通は突き当たりの壁から漏れて来る。

 かたんと天井の一部が四角く開いて、金物の筒が顔を出した。郷子は階段へと跳び戻った。しっゅという大きな音がして郷子がたった今まで立っていた所に大きな棒状の手裏剣のような物が突き刺さった。映美と鬼神通で通じている郷子にはそれが射剣筒の一種である事が判る。身を屈めて見上げると、天井に開いた穴の奥に筒へと圧縮空気を送る管が見えた。真直ぐに飛ぶ手裏剣や矢では郷子の位置から突く事は難しい。しかし郷子の忍法自翔剣は自在に変化して飛んだ。たちまち管は切り裂かれ、高圧の空気が吹き出して部屋の中を渦巻いた。

 男の一人が出て来た。着ている物は上で出会った侍と変わらない羽織袴だが、身のこなしがまるで違った。武芸に秀でた者である。太刀ではなく脇差を抜いた。狭い場所なので短い刀を選んだのではない。男の得意は剣ではなく拳なのだと郷子には見当が付いた。もう一人の男が大きな音を立てて転倒した。逃げ出そうとしたらしかったが袴の裾が握三日月剣で床に縫い付けられていた。格好こそ侍風だがこっちの男は武芸のたしなみはないと郷子には判る。おそらく、ここにある機関を操り管理するための職人であろう。侍の方が刀を正眼に構えた。

「ひゅっ」

 口笛そっくりの気合いと共に刀が突き込まれた。しかしそれが誘いである事を郷子は見切っていた。男の後ろ回し蹴りが空を切り、郷子に後ろに回り込まれた。男はすかさず背後に刀を振る。郷子が跳んで避ける。刀を振り上げながら男が振り返る瞬間に僅かな隙ができた。郷子は前にすうっと滑り出た。右掌底が男の顎を狙った。頭上に上げた刀は間に合わないと見て男は腕を十字に組んでこれを受けた。鈍い音がして男の右腕の骨が砕けた。郷子は「むう」と唸った。この体勢で郷子の技を急所以外の場所で受け止められるとは思っていなかったのである。思った以上の手練であった。郷子は更に一歩踏み込み、男の脛を蹴り折ると落ちて来た頭めがけて手刀を振った。今度はそれを受ける術もなく、男はこめかみを打たれて横に飛んだ。床に落ちて一度跳ね返り、壁にぶつかって落ちた。

「ひいっ」

 機関職人が悲鳴をあげた。男の強さを知っていたのだろう。郷子を見て怯えていた。床の上でじたばたと不様に暴れ回り、びりっと音をさせて袴を破り自由になると立ち上がって駆け出そうとした。目の前に郷子がいた。

「ぎゃあ」

 郷子は手も触れていないが弾かれたように跳び下がり尻餅を突いた。足を蹴って後退りながら、うわあ、うひゃあ、来るな、来るなあ、と泣き叫んでいた。突然右腕が引っ張られて男はかくんと肘を突いた。見ると今度は袖が床に縫い止められていた。郷子が一歩前に出た。

「たた、たっ、たたたたたたたた、助けて。助けてください。私は職人なんです。お侍じゃない。だから、たす、助けて、助けて」

 郷子は膝を突いて男に顔を寄せた。男の目の前に両の人差指を出した。指先と指先の間を青白い電光が走った。

「鬼界衆」

 男は叫ぶと、だらしなく口を開け身体から力が抜けて弛緩したようになった。袴の股間に染みが広がっていった。郷子は微笑んだ。

「仲間がこの壁の向こうに閉じ込められておろ」

 声の調子は優しかった。男はがくがくと首を左右に振った。

「知らない」

 郷子は微笑みを絶やさない。

「死にたいのかえ。私は中が冬山のように冷たい事も知っておるのだえ」

 男は目を左右に泳がせた。郷子は続ける。

「言うと罰を受けるのだの。殺されるのかえ。しかし言わぬとここで死ぬ事になるえ」

 郷子は微笑んだまますぐ横で死んでいる男を目で示した。男はがくがくと今度は縦に首を振った。泣いていた。

「そうだ。本当は知っている。居る。中に居る。あなたの言う通りだ。中は寒い。寒いどころではない。氷漬けにするための牢だ」

「仲間を助けてたも」

「できない。そんな事をしたら殿様に殺される」

「ではここで死ぬのだの」

 郷子は何か細長い物を手に取ってかりかりと噛んだ。口の端に血が溢れた。男は自分の右手の小指がない事に気付いた。

「ひいいいーっ」女のような悲鳴をあげた。「判った。助ける。今助けるから殺さないでくれ」

 男は袖を引き千切って壁の棒に取り付くと何か操作をした。郷子の足下の床ががたんと音を立てて四角く口を開いた。男が振り返るとそこに郷子の姿はなかった。

「馬鹿め。俺を侮るとこうなるのだ」

 男は穴の縁まで行って屈み込むと中を覗き込んだ。定石通り落とし穴の底には斜めに削った竹が立ててある。鬼界衆の女は串刺しになっている筈だった。男はけげんな顔になった。女の姿がない。良く見ようと頭を下げる。穴の端に女の小さな指が掛かっている事に気付いたのはその時だった。穴の中から手が伸びて男の襟首を掴んで引いた。一瞬で身体が入れ替わっていた。郷子は穴の縁に屈み、男は郷子に後ろ襟を掴まれて穴の中にぶら下がっていた。郷子は足音の変化で床下に空洞がある事には気付いて用心していたのだった。男は情けない悲鳴をあげながら手足をばたつかせた。

「暴れると落ちるぞえ」

 郷子が言うと男はぴたりと止まった。

「男の身体は重いの。手が痺れて来たぞえ」

「悪かった。私が悪かった。言う事を聞く。今度は本当に言う事を聞く」

 郷子は男を引き上げ、顔を寄せた。変わらぬ笑顔が男には却って不気味である。

「仲間を助けておくれかえ」

「助ける。すぐに助ける」

 油汗を流しながら何度も頷いた。

「すまぬの。お前様だけが頼りじゃによってなあ」

 にんまりと笑った。男は震え上がった。郷子は男の身体を穴から引き摺り出し、そのまま後ろ襟を掴んで引き手のある壁まで床の上を引いて行った。男が操作すると奥の壁がするすると上がって行った。目の前が真っ白になった。向こう側から物凄い寒気が溢れ出し、暖かい空気に触れて濃い霧を生じさせたのだ。男はこの隙に逃げ出そうとしたが、郷子に足を掛けられて転倒した。鬼神眼には丸見えだった。

「環姫!」

 郷子が大声で呼んだ。

「鬼川様。どちらです」

「地下よ。階段があるでしょう」

 すぐに環たちが降りて来た。敵は全て倒したのだろう。環たちが手子摺るような相手ではなかった。霧を掻き分けるようにして郷子に近付く。

「何ですかこの霧は。それにこの寒さは」

「説明は後よ。この男を見張ってて」

 霧を割って牢の中に入ると映美と新之輔はすぐに見付かった。

「お邪魔だったかしら」

 裸で抱き合っている二人を見て郷子はそう言った。

「かっ。はっ。くっ。たっ。うー、わわわわわわわわ」

 映美は何か言い返そうとするが口が凍ってしまっていた。郷子は眉をひそめて後ろから付いて来た環に言う。

「上に行ってお布団を探して来て。沢山よ。なかったら着物でも何でも良い、身体を包んで温める布を。えみちゃんはともかく新之輔さんは危険な状態だわ」

 環が頷いて駆け出す。郷子は袴を脱ぎ着物の前を開けると後ろから新之輔に抱き付いた。すぐに環たちが見付けて来た布団で三人は幾重にも包まれて団子にされた。郷子が環を呼び、環は頬を寄せ合っている郷子と映美と新之輔に顔を寄せた。映美の顔には赤味が戻りつつあったが新之輔は意識がなく、顔は青白く唇が紫色だった。環は可哀想だと思うと同時に、映美と郷子に抱かれている新之輔が妬ましくもあった。映美も郷子も美人ではなかったが、環は死にかけている一人の男を救おうとしている二人の裏鬼界が美しいと思った。神々しいような光を発しているように見えた。どこかで天使が鳴いていた。天使は凶暴な生き物だが、知性を持たずひたすらに肉を求める生き方はそれなりに潔くも思える。

 天使は美しい。鬼界衆も美しい。人間だけが醜かった。欲望に際限がなく、妬み、憎み、騙す。環の目には眠晃に良く似た虚無的で厭世的な表情が浮かんでいた。今意識を失っている新之輔が、普段は何も心配事がなさそうな妙にさばさばした顔をしているこの男が良く似た人間観を持っていると知ったら、環はどう思うであろうか。郷子が環に言う。

「人がぶつかった音で判ったのだけど、あっち側の」郷子は目で環に方向を示す「壁の向こうに大きな空洞があるわ。どうなっているか調べてちょうだい。捕まえた職人が知っていると思うわ」

 環が頷いて下がると、郷子の背後で職人の悲鳴が聞こえた。環は顔に似合わない手荒な事をしているようだ。郷子は目の前の男の顔に目を移す。身体に温か味が戻らない。呼吸と脈も乱れている。

「えみちゃん、雷精灸をやってみましょうか」

 映美が頷いた。こちらはもうすっかり凍えが去っていた。雷精灸とは身体の壷の電気刺激による血行や代謝の促進の事である。二人で新之輔に電気刺激を与え続けると、やがて顔に赤味が差して来た。

「もう、だいじょぶだの」

 映美が言うと郷子も頷き、二人は布団から抜け出し、その布団に新之輔を寝かせると郷子は着物を正し、映美は薄い掛布の一枚を身体に巻いた。振り返ると、職人が操作をして、引き手の付いた壁の向かい側の壁が下がって行く所だった。向こう側に現れたのは部屋と言うよりは大きな空間だった。床は映美たちが今いる部屋よりも下に深く掘り下げられ、天井はずっと高い位置にある。床は土、周囲の壁は石組みだが、上の方は羽目板になっている。どうやらその辺りは地上に出ているらしい。つまり、地下から地上まで、三階層分ほども吹き抜けになっている。広さもそれ相応だ。ちょっとした庭くらいの広さはある。一角に俵が積み上げてあり、その前に炭を入れた箱があるので炭俵であろうと判る。しかしこれは炭蔵ではない。

 中央に据えられている物が異様だった。黒い大きな箱のような物だ。大きさから言うと箱と言うより小屋である。家と呼んでも差し支えない。実際これより小さな家に住んでいる百姓は多い。箱の周囲に組んである手入れのためらしい足場も建設中の家を連想させた。ただし窓らしき物がない。全体が黒く、沢山の鋲が打ち付けられている。黒い色は鉄板で覆われているためらしい。箱の上に大きな竹筒のような物が四つ筒先を正面に向けて横に並べてある。底と地面の間に大きな隙間がある。隙間の高さは二尺(約六十センチ)ほどもあろうか。箱を地面から持ち上げ、支えているのは柱ではない。正面からでは判りにくいが、少し横に回って見るとそれが判る。箱の左右に四つずつ、郷子の背丈ほども径がある鉄の車輪が巨大な箱を支えていた。

「これは乗り物なのだな」

 郷子が職人に聞いた。職人は頷いた。

「どのようにして動かす。馬や牛では牽けまい」

 職人は俯いて黙っている。郷子は男の小指のなくなった右手を優しく撫でさすった。男はすぐに喋り出す。

「ひっ。あ、あの後ろの方に大きな筒が立っておりましょう」

 男が指差す方を皆が見ると、横に並んだ細長い筒とは別に、やはり鉄らしい金物でできた長さは短いが太さは一抱えもある大きな筒が筒先を上に向けて立っている。郷子が目を見開いた。

「煙突。あれは蒸気水車で動くのか」

 蒸気水車とは、最近西の原で利用され始めた動力で、蒸気圧で羽根車のような物を回して力を得る原動機、すなわち蒸気タービンである。水蒸気は気体であるから機能的には水車というよりは風車に近いが、この時代の一般的な感覚ではその形態が水車のような印象を与えるので、この名となっている。郷子は頷いた。

「ははあ。あれは動く城のような物だな」

 映美も頷く。

「前向えだ筒は射剣筒だの」

「射剣筒?」

 それを見た事がない環が聞くと郷子が答える。

「押し縮めた空気の力で刃物などの武器を撃ち出す機関よ」

「手強そうですね。壊しておきましょうか」

「どうやって」

 言われて環ははっとした。刀や槍では歯が立ちそうもなかった。

「ほれより、見付がる前に逃げるべ」

 そう言うと映美は大きなくしゃみをした。倒した敵の着物を奪った映美が新之輔を背負い、捕えた職人を環の家来の一人が背負って屋敷を抜け出した。最初、職人は郷子が背負おうとしたのだが、ひどく怯えるので環の家来が代わったのである。映美たちは商家らしい家の離れの蔵に忍び込んで腰を落ち着けた。蔵と言っても土蔵ではなく、板張りの簡素な納屋のような物で、納められている品も少なくがらんとしていた。

「市が終わったばかりなのかしらね」

 屋敷から奪って来た焼き米、干し肉などで人心地付いた郷子がそう言った。戦国の時代、町その物が安定しないため店舗商業を営む者は殆どなく、商人は定期不定期に開かれる市へ商品を持って回る形態が主である。

「商売、下手なんでねの」

 寒さの攻め牢から生還した映美はいつもに倍する食欲でまだ食べ続けており、口をもぐもぐさせながら言った。

 映美たちは車座になって座り、捕えられた職人が縛られ、猿轡を噛まされているのは良いとして、その隣に新之輔も同様の姿で転がされていた。新之輔は意識が戻ると、冷え切った身体に血行が戻っていくむず痒さに悶え苦しみ、七転八倒して大騒ぎをするので、気配を隠すために縛り上げられたのである。

「鬼川様、してこれからいかがいたしましょう」

 環はすっかり郷子に懐いている。

「私たちはまず子供が捕らえられている場所を知りたいの」

「鬼神通は通じないのですか」

 郷子は頷いた。

「考えられる事は三つあるわ。一つは鬼神通の通じにくい場所、地下牢やえみちゃんが入れられていたような分厚い石組みの牢に入れられている事。二つ目は気を失っているか雷精を使い果たしていて鬼神通を使えない。三つ目は考えたくない事だけど十慶城には子供は居ないか既に死んでいる。いずれにせよ確認しなくちゃ」

「居ないという事はございますまい。我等の間者と鬼界衆からの報せが両方とも間違っているとは思えませぬ」

「別の場所に移したという事は」

 これには映美が首を左右に振った。

「江泰晴が鬼界衆ば警戒すで呼び寄しぇだのでねだば(なかったら)、天使おるごど説明付がねべ。鬼界衆、捕えでねだば(捕えていないなら)、ほだな警戒、必要ね」

 郷子が頷く。

「そうね。十慶城に地下室はある?」

 環は首を左右に振った。

「ございませぬ。新たに掘った形跡もございませぬ。しかし、間者の報せによると、四年ほど前に石垣に使うような石を多量に城へと運び上げた事がございます。一部は天人鳥の飛翔路を作るのに使ったのが判っておりますが、それだけではない量の石が持ち込まれた由にございます」

「天人鳥というのは大きな凧で空を飛ぶ葉州忍法ね。私たちも見たわ。飛翔路というのは?」

「はい。天人鳥が飛び立つには、ある程度の長さを走るか、高い所から落ちる事が必要なのでございます。余程強い風が吹いていない限り立ち止まった状態からは飛び上がれないのです。飛び立つための走路が飛翔路でございます」

 飛翔路とはつまり滑走路の事である。郷子は首を傾げた。

「残りの石はどうしたのかしら」

「間者にも判らぬそうですが、石を降ろした様子はないとの事」

「消えてなくなるはずはないから今も城の何処かにあるという事ね。建物の中に牢を作ったのかしらね」

 話に夢中になっていて環は気付かなかったが、新之輔が這い寄って来ていた。環の尻を鼻先で突いた。環は、きゃっと言って跳ね立つと足下に転がっている新之輔を真っ赤な顔で睨み付けた。

「無礼者。幼馴染とは言え不埒な事をいたすと許さぬぞ」

 脇に置いた太刀を拾い上げ柄に手を掛けた。

「ちょっと、静かにしてよ。私たちは身を隠してるのだから」

 郷子が顔をしかめた。環がはっとして口を押さえる。映美が笑った。

「新之輔さは悪さすようどすだ(しようとした)のではね。何が喋りだいんだの」

 映美が寄って行って縛めを解いてやる。手足を縛られ猿轡を噛まされた新之輔が注意を引くためにした事だと気付いて環は謝ろうとした。新之輔は手でそれを制する。環はそれでも何か言いたそうに口を開いたが新之輔は短く「良いのです」と言った。

「姫の尻を触りたかったのも本当ですから」

 環と映美が左右から同時に新之輔の頭を張り飛ばした。映美は気付いていて新之輔に調子を合わせたのだが、新之輔が環に気を遣わせないためにそう言ったのだと環が気付くのはずっと後になってからである。郷子が笑って言う。

「むず痒いのはもう治ったの」

「ちくちくする感じはなくなりました。まだあちこち痒いですけど。霜焼けになったみたいだ。真珠さんは良く平気ですね」

「えみちゃんは鍛え方が違うわ。元々雪深い角州の生まれだし。それで何」

「石牢があるとすればおそらく本丸の中ほどでしょう。間者の目に付かぬように作事(建築工事)できるのはそこくらいです」

 環が頷いた。新之輔は捕えた職人を見た。職人は頷きかけ、次いで激しく左右に首を振った。新之輔は苦笑した。

「あの人は当てになりませんね」

 郷子が頷いた。

「役に立たないのなら殺してしまいましょう」

 職人は目を見開き、油汗を流しながら今度は縦に何度も首を振った。

「どうやら本丸で間違いなさそうですね」

「郭(建物)の配置は変わっていないかしら」

「十慶城は元々優れた作りですから基本的な所は変わっていないと思いますよ」

 環がまた頷き、懐から油紙に包んだ図面を出した。山頂の城には平城の片瀬城のような高い天守は必要なく、本丸も二階建で最も高い郭は物見櫓である。山頂や斜面を削って作った敷地には充分な広さがないため、城主や家臣の住む館は城下にあり、城は純粋な戦闘と防御のための施設である。また急な斜面では馬が使えないため、厩も山裾にある。山頂に武器蔵を兼ねた本丸があり、その周囲に各種の蔵や詰め所が配置され、それらを取り囲んで兵舎を兼ねた二の丸、三の丸が防御していた。環が言う。

「間者からの報せでも郭や塀の位置は変わっていません。城番兵の番所の位置も変わらぬでしょうが、その人数や見回りの間隔は判りませぬ。これはその職人も知らぬでしょう。他にお知りになりたい事は」

「炭と油の仕舞い場所だの」

 と映美が言うと郷子も頷いた。

「書物置場も」

 環も頷く。

「火を放つのですね」

 環は懐から炭の欠けらを取り出すと、図面上の蔵の二つにそれぞれ「炭」「油」と書き込み、更に本丸と二の丸の一郭に「台所」「書院」と書き加えた。図面を取り上げ、職人の目の前に持って行った。

「今もこの配置に相違ないな」

 職人はがくがくと頷いた。次に侵入経路を検討した。山の北側に雑木林があった。侵入者が姿を隠し易いので荻の時代から伐り払いたいと思われていたが、北側は斜面が急で木の根が張っていないと崩れる危険があった。当然警戒が厳しく、各種の罠も多い。原始的だが最も危険なのは数多く放たれている蝮である。残りの三方には城への接近を困難にする空壕や柵が数多く配置されていた。

「難攻不落どそう(言う)だげのごどはあるの」

 映美が腕を組んだ。映美と郷子でも唸るくらいだから、環とその家来たちに侵入は不可能に思えた。新之輔が図面の一箇所を指で押さえた。

「ここなら比較的安全に取り付けるのじゃないですか」

 環が首を左右に振った。

「石垣の下までは行ける。しかしこの石垣は登れぬ。傾斜が急な上に忍者返しが何重にも仕掛けられておる。裏鬼界のお二人なら登り切れるかも知れぬが、かなり難しいであろう。ましてや我等には登る事はできぬ」

「城内から縄を降ろして貰えば登れるでしょう」

 環が見下したように新之輔を見た。

「うつけめ。その城内への侵入方法がないのではないか。間者は女人でそのような仕事はできぬ。そもそも今夜中に知らせる手段がないわ」

「抜け穴があるじゃないですか」

「あっ」

「姫が僕に掘らせたのです」

「覚えておらぬ」

 環は赤くなって横を向いた。新之輔はなぜか映美の顔を見て頷いた。

「女の人は皆ああ言うのです」

 環は赤い顔のまま、話を逸らそうとするように言う。

「しかし、あれは子供の遊びじゃ。しっかり固めなかったから、あの後何度も穴は崩れた」

「その度に姫はご自分で掘り直しました。良く生き埋めにならなかった物です」

「そうじゃ。そのため穴は段々に狭くなった。今の私では通り抜けられまい。子供か、余程身体の小さい」

 そこまで言って環ははっとした。その場にいる全員が郷子を見た。

「生き埋めにならないと良いわねえ」

 他人事のように郷子は言った。

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