第11話

    七 郷子と環

 郷子たちは十慶城下を目指して進んだが、真直ぐには進まず敵に発見されないように用心した。環が郷子に怯えを見せて以来、人間たちに対する郷子の態度は明らかに硬い。笑わなくなり、必要な事しか喋らなくなった。環は己の失策に舌を噛み切ってしまいたい気分だった。父の口癖を思い出していた。信頼を失うのは一瞬だが取り戻すには百年かかる。ましてや環はまだ郷子の信頼を得る所にまで行っていなかったのである。取り返しの付かない失敗と言って良かった。環は俯いて六人の最後尾をとぼとぼと歩いた。話をする気力も出ない。郷子も口を閉ざしているので重苦しい雰囲気になる。眠晃が何とかとりなそうと話し掛けるが、世を拗ねたような虚無的な顔の通りの性格で、とうてい話し上手とは言えず、会話はすぐに途切れた。他の三人の武士は更に不調法だった。眠晃は、自分は元々荻家の家臣で、たまたま軍略の打ち合わせに行っていた片瀬城で郷子たちの襲撃に遭い映美に右腕を切り落とされた事などを話したが、郷子は僅かに頷いただけで声も出さなかった。眠晃もそれ以上話題を思い付かず、沈黙が訪れた。六人の気まずい行進が続いた。

 正直な事を言えば環は本当に郷子が恐ろしかった。最初に映美と郷子を見た時には鬼界衆は凶暴だという噂とは異なり親しみやすい感じの人たちだと思った。しかし、二人の荒ぶる魔神のごとき戦いぶりを見て恐怖した。外見との落差が更に恐怖を増大させるようだった。やはり鬼界衆なのだと思った。彼らは人間よりも悪神妖魔に近しい者なのだ。しかし、彼らの信頼を得て充分に協力して貰うためには恐怖を隠し、平然と、可能ならば親しく接しなければならない、と環は自分に言い聞かせていた。

 郷子はしばしば環たち五人の足を止め、一人で周囲を探ってからまた前進を指示する。充分に気配を消せていない侍たちは忍者に見付かり易い。しかし、敵の捜索部隊はそれほど多くはなさそうだった。百人を超えるような大部隊も最初に遭遇した一つだけらしい。主立った部隊は出陣し、今十慶城にいるのは留守居の部隊だから当然かも知れない。森と町の堺、里山に出る。雑木林の中から町の様子を窺う。郷子にも敵の気配は感じられないが、何の備えもしていないはずはない。敵は既に森の中で郷子たちに遭遇しているのだ。日が落ちるのを待つ事にし、郷子は一人町に忍んで行って裕福そうな商家から着物を盗んで来た。夜になれば気温が下がる。濡れた着物では風邪を引くし、身体に纏い付いて動きにくい。

 盗んで来た着物を手渡す時、郷子の手が環の手に触れ、環はびくっとして手を引っ込めてしまった。またやってしまった、と環は思った。郷子は環から凶暴で野蛮な生き物として侮蔑されているように感じただろう。また、事実それに近い感情がある。隠さなければと思うほど表面に出てしまうような気がした。心の中で自分を罵った。俯いていた視線を上げて恐る恐る郷子の顔を見た。環はそこに怒りや反発を予想していたが、意外な事に郷子はひどく悲しそうな顔をしていた。悲しい表情は一瞬で、環の視線に気付くとすぐに感情のない能面のような顔になったが、環の心には郷子の悲しみが深く刻み付けられた。郷子は環が考えたように人間から鬼界衆が凶暴だと思われる事にこだわっていたのではなかった。ただ、知り合った一人の若い娘に怖れられ嫌悪された事が悲しかったのだ。環は悪い事をしたと思った。ひどい事をしたと思った。と同時に、軍略上の都合により計算ずくで鬼界衆の信頼を得ようとした自分の行為がひどく薄汚く醜い物に思われた。背中を向けようとする郷子の右手を環は両手で掴み、頭を下げて押し戴いた。

「かたじけのうござります。無理を言って付いて来た我等にこのような…」

「良い」

 郷子は環の手を振り払って背中を向けた。堅く閉ざされていた口元がほんの一瞬嬉しそうに緩んだのは、もちろん環には見えない。環には誤解があった。郷子は普段なら誰に嫌われようが怖れられようがはたまた侮蔑されようが全く意に介さない。どう思われようと知った事ではないのだ。にもかかわらず、環に嫌われるのは切なかった。郷子は環の中に子供を見ていたのである。環はもうすぐ十九になる。この時代では立派な成人女性である。十五で嫁に行く娘も珍しくない。しかし、環の中にはどこか成熟し切れない幼児性が残っており、それが鬼界衆である郷子の保護本能を刺激したのであった。荻景連は武芸や学問を娘に厳しく教えたが、それ以外の部分ではやはり領主の姫として甘やかされた所があったのかも知れない。郷子が環に怖れられて傷付いたのは、保護すべき子供に拒絶されたからである。しかし環は、郷子は優しい心を押し殺して、種族の子供を守るために心ならずも残虐に振る舞っているのだと思い込んだ。そこに神話の英雄物語のような甘い感傷を含む情緒を感じ取って勝手に郷子に憧れた。

 日が暮れるまでの半刻(約一時間)ほどを体力温存のため里山に隠れて休息する事にすると、木の根元に腰を降ろした郷子の横に身を寄せて環も座った。郷子はちょっとけげんな顔で環をちらりと見たが、嫌がる素振りは見せなかった。郷子の顔色を窺っていた環は嬉しそうに笑った。郷子は表情を変えなかったが、内心では溢れそうになる笑みを必死で押え込んでいた。

「しまった」

 郷子が耳元でそう叫ぶのを聞いて環は目を覚ました。気が付くと郷子の腕を抱え込むようにして眠っていた。もうすっかり日が暮れ、星が出ていた。

「いかがいたしました」

「えみちゃんが敵に捕まったわ」

 郷子は鬼神通で映美が捕えられた事を知ったのである。環が慌てた声を出す。

「いかがいたしましょう」

「ちょっと黙ってて」

 郷子は切れ長の目を細めて考え込んだ。環は救出方法を考えているのだと思ったが、そうではない。映美の居場所は鬼神通で判っている。助け出すなら細かい事を決めずに臨機応変にやるしかない。郷子が考えているのはそれ以前の問題、映美を救うか見捨てるかである。映美と郷子はお互いに任務遂行すなわち子供を助けるためなら仲間を犠牲にしてもかまわないと申し合わせてあった。郷子は、映美を助け出すのに予想される危険と映美を失う事によって任務に生じる危険を比べて、どちらを取るかと考えているのであった。裏鬼界は冷徹で環の考えるような浪漫的存在ではなかった。やがて郷子は組んでいた腕を解くと小さく「良し」と呟いた。

「私はえみちゃんを助けに行くわ。あなたたちはどうする」

「共に参ります」

 環は即答した。

「勝手にしなさい」

 言い終わらない内に郷子は走り出している。環とその家来たちが後に続いた。映美の鬼神通が途絶えた。気を失ったらしい。町に入り広い通りを幾らも走らない内に、前方から一頭の騎馬を取り囲んで十数人が土煙を上げてこちらに向かって駆けて来るのが見えた。皆忍者装束である。郷子は立ち止まり敵の様子を見ると同時に周囲の気配に気を配った。忍者は身を隠す者である。見えている他に、道の左右の家屋にも敵が潜んでいると考えるべきだった。忍者たちは郷子たちから四間(約七二八センチ)ほどの間を置いて立ち止まった。郷子はそっと背負子を降ろした。馬上の忍者が言った。

「仲間を救いに来ると思っていた、裏鬼界」

 あの忍者の頭だった。頭を残して忍者たちが一斉に襲い掛かり、たちまち激しい斬り合いになった。忍者の数は頭を含めて十八人。郷子たちの三倍だが、見晴らしの良い広い通りでは忍者の力は半減する。郷子の変化掌も冴えを見せたが環たちも良く戦い、三倍の数の敵を押し返して行った。

 何か大きな物が倒れるような、がたーんという音がした。同時に斬り合っていた忍者たちがさっと退いた。通りに面した家の屋根の向こうから何かの塊が飛び出し、次いで水を撒いたような、ざあっという音がして郷子たちの目前の空中で塊は大きな網となってぱっと広がった。忍者たちがわざわざ自分たちの不得手な場所で戦いを挑んだのは罠に誘い込むためであったのだ。網の向こうで忍者の頭が会心の笑みを浮かべていた。しかしその顔は次の瞬間驚愕にこわばる事になる。落ちて来る網に郷子が伸ばした手が触れた瞬間、網は炎を上げて燃え上がったのだ。郷子が大量の雷精を流し、金属製の網は電熱線となって付着している粘着物を燃え上がらせ、網自体も熱と炎で脆くなってぼろぼろと崩れた。今度は郷子が会心の笑みを浮かべる番である。

「葉州忍法巣配打、破れたり。裏鬼界に同じ術は通用せぬ」

「馬鹿な。お前がこの術を見るのは初めての筈」

「鬼界衆の心は一つなのだ」

「ちっ、鬼神通で教えたか」

 馬上の頭は郷子に向けて何かを投げた。しかしそれは郷子に届く遥か手前の空中で握三日月剣と衝突し、砕け散って白い目潰し粉を舞わせた。郷子は飛び戻って来た三日月剣を掴んで言う。

「同じ術は通用せぬと言ったであろ」

 短い忍者刀を構える忍者たちの中へ郷子はつかつかと歩み寄って行った。何気ない動きに見えるが隙は全くない。身軽さを身上とする忍者としては例外的に大きな男がこれを迎えて前に出る。背は一間(約一八二センチ)ほどもあったが痩身だ。しかしもちろんひ弱さはなく、並の武士以上の鍛錬を積んでいる事は身のこなしを見れば明白である。間合いに入った途端、長身の忍者は左手に持った忍者刀を郷子の首めがけて片手斬りに振り下ろした。無造作に見えるが鋭い太刀である。しかし、ぶんっと唸りをあげて剣は空を切った。刀の刃に肌が触れるほどの間合いで、郷子が忍者の背後にするりと回り込んでいた。忍者ははっとなり、右の後ろ回し蹴りを放った。間を置かぬ、ほとんど反射的な動きであったがそれも空振りした。郷子は忍者の周囲をぐるりと一周して正面に戻っていた。忍者は短く鋭い気合いを発し、やはり左手だけで刀を郷子の胸に突き込もうとした。忍者には郷子がどのように動いたのか判らなかったが、刀は郷子の身体の右横を通り抜け上方に弾き飛ばされた。と同時に郷子の左掌底が忍者の脾腹にめり込んでいた。

「ごふっ」

 咳き込むような声を出し忍者は身体をくの字に曲げて血を吐いた。郷子は忍者の傾いた上半身の肩を掴むと身体を引き上げるようにしながら跳躍し、二階建家屋の庇に飛び乗り、間髪入れずに屋根の端を掴んで再び舞い上がり、屋根の上にひらりと着地して膝を突いた。屋根の上には四人の忍者がいた。建物の向こう側から現れたのだ。巣配打を投擲する機関を操作していた者たちに違いなかった。地上の環たちに手裏剣を打つ。環たちは転がって避け、死角になる忍者たちの足下へと転がり込んだ。通りを挟んで対面の建物にも忍者を潜ませておけば死角はなくなった筈だが、江の忍者たちは巣配打に絶対の自信を持っていたのだろう。向かい側の建物に忍者はいなかった。郷子が屋根の上の忍者に向かって歩を進めると、忍者たちは一斉に飛び退いて郷子を正面から弧を描いて取り囲むようにした。上からの攻撃の心配がなくなったと見て環たちが軒下から飛び出し、地上でも再び激しい斬り合いが始まった。

 郷子の右前方の忍者が、ひゅうと息の漏れるような気合いを発した。左手には一尺(約三十センチ)ほどの細長い木の葉のような形をした忍者独特の両刃の刃物、苦無(くない)を持っているが、構えは北西派と呼ばれる西の原北方の拳法のそれである。手技よりも足技を多く使い、身体を強く硬く鍛え剛を持って敵を打つ事が特徴だ。力を込めて激しく打つばかりでなく、歩幅が広く、大きく前進後退して跳躍技を多分に含む。

 対する郷子の変化掌は手技が中心で足技が少なく、筋肉を緊張させずに柔らかくして技を行う。また、手を握った拳技よりも、開いた掌技を多く使うので拳ではなく掌の名がある。歩幅は狭い、と言うより大きく動き回る事をあまりしない。先程敵の周囲を回って見せたような円を描くように動く足捌きを特徴とする。見た目は北西拳法の方が躍動的で力強く見えるが、変化掌のような柔の武術は剛の技も柔らかく受ける事で衝撃を小さくし、僅かの力で大の力を散らし受け流す事ができる。攻撃する時は合力(ごうりき)と言って、全身を同時に動かす。一つ一つの筋肉の力は小さくても、それが全て同時に動き一点に集約されると強力な打撃となる。瞬間的に全身を使い爆発的な打撃とする合力を発勁と呼び、多くの柔の武術では秘伝とされている。尤も、郷子も郷子の師も変化掌の発勁法を秘とはせず、乞われれば誰にでも教えた。教えてできた者は一人も居ない。郷子が最後の継承者と名乗る由縁である。郷子が出会った中では、武芸百般に通じると豪語する映美だけが、後十年も鍛錬すれば会得できるかも知れないと思われた。

 変化掌は一度習得してしまえば無敵とも思える強さを発揮するが、習得する事は非常に困難な武術であると言われていた。技の一つ一つが武術と言うよりも芸術と呼ぶべき精妙さで、再現するのが難しいという事もある。しかしそれ以上に、身体の動かし方、動きの組み立て方が奇妙で、一般の武術的常識に合致しないので感覚的に受け入れる事が困難なのだ。しかし、郷子はこれを理解するのが難しいと思った事は一度もない。構えず、踏ん張らず、力を溜めず、勢いを付けない。全身を同時に動かして、一で全てを完了する。その技の実戦と理論はすんなりと郷子に染み透った。理解できないと言う方が不思議だった。郷子には水が高きから低きへ流れるような当然の理(ことわり)に思われた。今は亡き師は郷子に「お前は間もなく私を超えるであろう」と言った。その域神に迫ると称された達人の言葉である。映美の剣術も当代十指に入ると言われる優れた物だが郷子は桁違いであった。滅多に世に現れぬ者を不世出と言う。郷子はまさに不世出の天才だったのである。

 郷子は四人の忍者と睨み合いながら、緊張を感じさせない柔らかい姿勢で立ち、攻撃が加えられるまでぴくりとも動かなかった。左右の端の二人が同時に飛び掛かって来た。郷子を二人で押え込み、北西拳法の忍者が飛び蹴りを仕掛ける積りらしい。郷子には相手の意図までが明瞭に見えていた。忍者たちの指先が郷子の羽織に触れた。郷子の姿が消えた。飛び掛かった二人には消えたとしか思えなかった。目の前に自分に向かって突っ込んで来る仲間の顔があった。自分同様全く押さえる事をしない全力の突進だった。止めるには勢いが付き過ぎていた。石がぶつかり合うような、がちんという音と同時に短い悲鳴が二つ、郷子の背後で血反吐と共に吐き出された。

 しまった、と思った時には北西拳法の忍者は跳んでしまっていた。郷子は頭を下げてその下をくぐる。郷子の前に一人残った忍者も郷子を見失っていた。突然目の前に郷子が現れて驚愕した。郷子の頭上を飛び越えた忍者は倒れている仲間の身体を踏み越えて向こう側に立った。振り返ると郷子目掛けて再び跳躍した。郷子は身体をすっと横に躱すと同時に前に居る忍者の腰の辺りの着物を掴んで手前に引いた。忍者は風にあおられるようによろめいて一歩前に出た。今まで郷子が立っていた位置にその忍者は立っていた。そこへもう一人の忍者の飛び蹴りが真直ぐに伸びて来た。右足底が胸の中央を見事に打った。蹴られた忍者は後方に勢い良く飛び、屋根を転がって通りとは反対側に落ちて行った。標的が一瞬の内に味方と入れ替わっていた事を知って慌てながら着地しようとした忍者の右脇腹に郷子の掌が密着した。叩いたようには見えなかった。掌でゆるりと押すような動作だった。しかし、そこでは凄まじい力が一度に爆発していた。忍者はおびただしい鮮血を鼻と口から噴出させた。郷子は既に絶息している忍者の襟首を掴み、腰の下に右膝を入れると、倒れようとする力を利用して放り投げた。忍者の死体は宙を舞い、通りで馬上から手裏剣で環を狙っていた忍者の頭に抱き付くようにして落馬させた。その後を追うようにして郷子も屋根を蹴り、激しい斬り合いの中央に躍り込んで行った。

 落下しながら地上に居た忍者の一人のこめかみを蹴って首の骨を折った。着地の瞬間を狙って左から郷子に斬り込んで来た。郷子は身体を反らして躱す。敵もそれは予想していたらしく、慌てずに郷子の脇を駆け抜け、間合いを取って振り返った。その忍者にしてみれば充分に距離を取った積りだった。しかし振り返った時郷子は殆ど忍者に密着する位置にいた。緩やかに左の掌底が忍者の顎に向かった。忍者は仰け反った。顎の骨が砕けていた。郷子は向きを変え踵を忍者の股間に叩き込んだが、既に忍者の意識はなく、これは無用な一撃だった。

 環とその家来たちも良く戦っていた。人数に勝る忍者たちに一人が取り囲まれぬよう、互いに死角を補うように位置を取っている。しかし、環が前に出過ぎていた。環は右手にいる四人の忍者の中央を電光の如く擦り抜け、擦れ違いざまに左右の敵の肋骨の中ほどを切り裂いている。見事な剣技だったが背中ががら空きになった。三人の忍者がその背中に飛び掛かろうとしたが、魔法のように郷子が現れ、環と背中を合わせるようにして立っていた。

 三人の忍者が同時に郷子に襲い掛かった。一人は低く刀を振って足を薙ぎ払おうとし、一人は胸を狙って突いて来た。もう一人はやはり北西拳法の遣い手で飛び蹴りを仕掛けて来た。郷子は向かって来る敵に身体の右側面を向け、お辞儀をするように身体をくの字に曲げながら横っ跳びに跳んで行った。郷子の足を薙ごうとした刀と胸を突こうとした刀の間を郷子の胴が見事に通過した。刀と身体にできた隙間はそれぞれ一寸(約三センチ)ほどしかない。胸を狙った敵は郷子の掌底で人相が判らないほど顔を潰され、足を薙ごうとした敵は郷子の左脛に肋を四本ほど粉砕された。折れた肋骨は肺を貫き心臓を傷付けている。

 飛び蹴りを仕掛けた敵の判断は見事だった。空中で飛び蹴りを中断し、倒れ込む仲間の背中を踏み台にして右へと逃げた。郷子の右手がこの夜初めて空を切った。郷子は敵を追わず、環の背中を守れる位置で待つ。その忍者は猿のように甲高く叫ぶと後ろ回し蹴りを繰り出して来た。動きは速く、角度も完璧だった。そのまま当たれば郷子の細い肋骨は蹴り砕けてしまっただろう。しかし郷子の動きはその忍者よりも更に速く弧を描いて移動していた。

 足を後ろに蹴り上げたために忍者の上半身は反対側に傾いた。下げた頭の先に郷子の顔があった。郷子は両手でひょいと忍者の頭を掴んだ。骨の外れる鈍い嫌な音がした。忍者は白目を剥き、振り回していた足の勢いで地面に投げ出されるようにして転がったが既に死んでいた。形勢不利と見た忍者の頭が再び馬に飛び乗ろうとしていた。郷子の握三日月剣が飛んで背後からその首に突き刺さった。頭は鞍から手を離して地面に落ちた。郷子が周囲を見ると敵の忍者は全て地に倒れていた。郷子は背負子を拾い上げると頭が残した馬に飛び乗った。鞍に跨がると鐙に足が届かない。馬上から地上に立つ環たちに言う。

「場所は山裾の三連水車だ。後から来い」

 走り出そうとするが環が駆け寄って郷子に向けて手を伸ばした。その顔があまりにも必死なのでつい手を取って引き上げてしまった。環は郷子の後ろに跨がりしがみ付いた。郷子は馬の腹を蹴って駆け出した。

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