第10話

    六 葉州忍法釣り天狗

 映美たちと別れた後、郷子と環と隻腕の武将は逃げながらも、わざと敵を引き離さなかった。時には追い付くのを待つ事さえした。注意を引き付け、闘えない新之輔を連れた映美を逃がすためである。半刻(約一時間)近くもそうしてから、もう良いだろうと引き離そうとした途端、行く手に別働隊が現れて挟み撃ちにされた。これには苦戦したがどうやら逃げ切って休憩する事ができた。環は仰向けに寝転がって荒い息を繰り返し、武将もどっかと座り込んでしまったが、郷子は独特の呼吸法で三度ほども深呼吸をすると息を整えてしまった。武将にくるりと背を向けると、背負子を降ろし、胸の所がずたずたに裂けてしまった灰紫色の着物を脱いだ。女性らしい丸みを帯びた曲面で構成された郷子の美しい身体に武将ばかりでなく女の環も見蕩れた。肉の動きは突きたての餅のようで郷子の恐るべき武術を想像させる物は何もない。腕を上げると真後ろからでも乳房の丸みが腋からはみ出して見えるのが艶めかしかった。裏返しに着ると着物は墨染めとなった。

 頭上で笛の音のような美しい音がした。紫色の翼を広げた大きな鳥が白い腹を見せて郷子たちの上空を通過して行った。鳥ではなかった。翼を持ったその身体は人間の女の形をしていた。一羽ではない。最初に通過した大きな天使の後を小型の天使が何羽も追って行った。その美しさに環がうっとりとした表情で飛び去った方を見送った。郷子が言う。

「血の匂いを嗅ぎ付けたな。私たちが倒した敵を食らいに行くのだ」

 環は一転して顔をしかめた。武将が呻くように言う。

「天使……。どうしてこんな所に」

 鬼神通で映美と通じ合っている郷子はその理由を知っていたが黙っていた。天使を呼び寄せる方法を人間に教える気はなかった。

 環も武将も動くのは大儀そうだったので、郷子が一人で身を隠す場所を探しに行った。近くに手ごろな炭焼き小屋を発見したが、中に居たのは炭焼きではなかった。郷子が戸に手を掛けるよりも早く小屋の戸が内側から開かれた。狭い小屋の中に五人もの男が剣を構えて立っていた。藍染めの着物にたっつけ袴という浪人風の出で立ちだ。郷子が一歩引くと背後から声がする。

「何者だ。ここで何をしている」

 振り返ると同じような浪人姿が森の中からぞろぞろと二十人ほど現れた。郷子は頭を下げた。

「ご覧の通り旅の尼僧でございます。しばし休息できる所を探しております」

「黙れ。騙されんぞ」

 最も屈強そうな男が前に出て郷子の顔に拳を呉れた。郷子はあえて避けずに顔で受けた。あくまで尼僧で通す積りなのだ。面倒を起こして時間を取られたくなかった。後ろに跳ね飛ばされ、肩から落ちると地面の上で後方に一回転した。郷子は鼻と口から血を流しながらゆっくり立ち上がったが、男たちは疑いを解かなかった。一人が低い声で言う。

「殺せ」

 郷子に最も近い男が剣を振り被った。ここで殺される訳にはいかないので、こうなっては郷子も手向かいしない訳にはいかない。郷子の強さを知らない男が無造作に一歩前に出た。男は自分の命が風前の燈火だと気付いていなかった。

「お待ちなさい!」

 鋭く甲高い声が静止した。男たちが振り返った。

「環姫……」

 男たちは環の配下だったのである。

「その方は裏鬼界です」

 男たちは皆驚愕して郷子を振り返った。子供のように小さな女は手甲で鼻血を拭っていた。

「殴られ損だわ」

 男たちはまだ半信半疑である。無理もなかった。鬼界衆の噂は恐ろしげな物ばかりだった。目の前にいる小猿のような女は少しも恐ろしそうではない。身体が小さいばかりではなく、鼻の小さなやや扁平な顔にも少しも威圧感はなく、吊り上がった切れ長の目にも深みは感じられず、庶民的を通り越して劣弱にすら見えた。

「このちびが本当に裏鬼界なので」

 男の一人が環に言うと郷子は男を睨んだ。

「ちびって言うな」

 環の後ろから隻腕の武将が現れた。

「鬼川郷子の名を聞いた事があるか」

「まさか、幻の鬼界武術変化掌最後の継承者がこのちび助……」

 皆まで言い終えずに男はどうと仰向けに倒れた。郷子が足を払ったのだ。男は郷子が何時間合いを詰めたのか判らなかった。郷子は倒れている男に右手の人差指を突き付けた。

「良いか、三度は申さぬぞ。ちびって言うな」

 さほど怒っている表情ではなかったが笑ってもいなかった。冗談ではなく不快に思っているのだろう。

 男たちがまだ信じられないような顔をしているので、郷子は左右の人差指を顔の前に出した。指先と指先の間は五寸(約十五センチ)ほど離れている。周囲を見回して男たちが自分を注目しているのを確認した。ばしっと音がして左右の指の間を青白い電光が走った。男たちは漸く納得して頷いた。雷精を操る者鬼界衆に違いなかった。先程郷子を殴り飛ばした男が頭を掻きながら進み出て来た。

「知らぬ事とはいえ申し訳ござらぬ」

 郷子はにっこり笑った。

「良いのよ」

 右手を出した。男もつられて右手を出した。握手という習慣は葉州では余り一般的ではないが、更に南西の地域では親しさを伝える最も頻繁に使われる手段であるという事は誰でも知っていた。郷子の手では握り切れないようなごつごつした大きな手だった。その手に郷子の手が触れた次の瞬間には男の身体は宙を舞っていた。郷子の頭を飛び越え郷子の背後にあった炭焼き小屋に叩き付けられて地面に落ちた。郷子は笑顔を崩していない。

「これで勘弁してあげるわ」

 振り返りもしなかった。

 翌朝日の出と共に裏鬼界と時を同じくして十慶城を攻めるという計略を伝えるため、環の家来の三人が、こちらに向けて進軍中の荻軍本隊へ向けて伝令に走った。複数に分けたのは途中で敵に妨害されても誰か一人が辿り着くためである。郷子たちは今後の手順を話し合った。郷子は今夜夜陰に紛れて十慶城内に忍び込み、身を隠して日の出を待つ積りだった。それを知ると、環も数人の配下と共に行動を共にしたいと言い出した。明朝になっても環の部隊は父の本隊に合流させず、敵が本隊に気を取られている内に密かに山城に近付かせ、内側から守りを破って導き入れたいと言うのである。悪くない計略だが、郷子は気が進まなかった。人数が多くなれば発見され易くなるからである。更に、環が荻軍には優れた忍び働きがいないと言った通り、皆武術剣術には秀でていたが、忍びとしては一流とは言えなかった。足の運びを見ただけで郷子にはそれが判った。このような者たちと共に侵入の任務をする事はできないと思った。映美が恋しかった。忍びの仕事に限って言えば映美一人は百万の味方に勝ると思った。思った通りを言うと、環は恨めしそうな目で郷子を見た。郷子は笑った。

「勝手に付いて来るのは止めないわ。私も勝手にやるから付いて来られる所まで付いていらっしゃい。忍びの足は速いから引き離されないようにするのは大変よ。それと」郷子は笑顔を消した。「危なくなっても助けないわよ。それどころか邪魔だと思ったら殺すかも知れない。それでも良ければいらっしゃい」

 環はぱっと花のような笑顔になった。

「はいっ。かたじけのうござります」

 嫌んなっちゃうなあ美人で、と郷子は思った。環の傍では自分は相当見劣りするだろう。映美が恋しかった。

 話が纏まると環はさっそく身が軽く持久力もある家来を四人選び出し、自分と隻腕の武将、眠晃(みんこう)を加えた六人を郷子と行動する別働隊とした。環の家来たちは深夜を待って街に侵入し、城山の裏手から城に近付き、先に侵入していた環たちが搦め手門を開放するのを待って突入する手筈となった。郷子と別働隊の六人は環の家来たちから離れ、水を補給するため谷川に下った。七人というのは遊撃小隊として大きい物ではないが、いつも映美と二人だけで任務をこなしている郷子にとっては大所帯に過ぎた。忍びの心得のない武士たちは森の中を騒々しい音を立てて移動し、郷子を苛立たせた。最初は、街に入る前にまいてしまおうと算段していたが、本人たちには教えずに上手く騙して陽動に使う方法も検討し始めていた。

 谷川の水は澄んでいたが、川幅は広く、石ころだらけの河原も広かった。草は少なく大きな岩もないので見晴らしが良かった。郷子は顔をしかめた。忍者は身の隠せない場所を本能的に嫌う。菅笠を被り着流しを尻っぱしょりにした釣り人が五人いた。三間(約五四六センチ)ほどもある長い竿を一本ずつ手に持っている他に、一人数本ずつの竿を何か道具を使って河原の地面から立てていた。郷子たちはしばらく森の中から様子を窺っていたが、やがてゆっくりと河原へ出て来た。それぞれ水を飲み、竹の水筒を持って釣り人たちよりも少し上流で水を汲んだ。

 環は最初から釣り人たちを警戒していた。無害な百姓に見えるが、環が敵の指揮官であったとしても水を汲める場所に網を張るだろう。しかし、攻撃は釣り人たちとは反対の方向から襲い掛かった。突然、環は郷子に突き飛ばされて転倒し、川の中に倒れ込んで派手に水飛沫を上げた。その水飛沫の中を何かが走り抜けるのを環は視界の隅に捕えた。何だあれは。宙を飛んでいたぞ。飛び道具か。環は滴を垂らしながら立ち上がり周囲を見回した。あった。何か、黒い皿のような物だ。平たくて円い。環の頭ほどの高さを遠ざかって行く方向に飛んでいたその皿が、弧を描くように方向を変えて再び自分に迫って来るのを見て環は仰天した。飛び込むように水の中に身を伏せる。その頭上を皿はまた通過して行った。首をねじって上を見ていたので今度は良く見えた。その径は一尺(約三十センチ)ほど。全体が黒く塗られているが円い縁の一寸(約三センチ)ほどは銀色に輝いていた。鋭い刃が付いているのに違いなかった。皿は地に落ちる事なく、生ある物のように自在に宙を駆けて環たちに襲い掛かった。

 やはり釣り人たちは敵であったのだ。環には細過ぎて糸は見えず、襲って来る皿に対応するのに手一杯で釣り人の方を見る事もできないが、皿は釣り糸で吊られて操られているのに違いなかった。宙を駆ける皿は十枚もあった。五人の釣り人が両手に一本ずつ、二本の竿を持って動かしているのである。糸で吊られている十枚の皿は環たち七人の動きを封じるように周囲を飛び、次々に襲い掛かりながら糸が絡まる事もない恐るべき連繋を見せた。環たちはただ飛んで来る皿を避け、刀で払いながら右往左往するしかなかった。飛んで来るのを見て避ける事ができるくらいだから、速度はそれほどでもない。しかし膝まで浸かった川の中では水の抵抗と冷たさも手伝って体力は意外な程早く消耗する。環は皿が低く飛んできた所を狙って跳び下がって避けながら刀でその上を薙いでみた。吊ってある糸を切ろうと考えたのである。しかし、糸は風にたわんでいるようで皿から真直ぐ上に伸びておらず、剣は虚しく空を切った。ついに皿を避け損ねた環の家来の一人が腹を切り裂かれて悲鳴をあげ水に浮いた。味方の数が減り、十枚の皿の攻撃はいよいよ熾烈となった。このままでは全滅する。環は焦ったが、次の攻撃を避ける以外に何もできなかった。釣り人、いや江の忍者の笑いを含んだ声が聞こえる。

「これぞ葉州忍法釣り天狗じゃ」

 環が川底の石を踏んで姿勢を崩した所に皿が飛来した。黒い円盤が自分の首を目掛けて飛んで来るのを見て環は死を覚悟した。しかし、何かやはり薄い板のような小さな物が皿の横から回転しながら飛んで来て皿に激突し弾き飛ばした。金属同士がぶつかる甲高い澄んだ音がした。それだけでも環は呆然としたが、次に起こった出来事に環は口をあんぐりと開けた。弾き飛ばされ方向を変えた皿が、再び攻撃に移るべく姿勢を直しながら宙を巡って行くのを横から飛んで来た回転する板が追い掛け始めたのである。皿は慌てたように方向を変えて逃げようとしたが板の方が圧倒的に速く、何度も方向を変えて逃げようとする皿を執拗に追い詰め、ついにもう一度激突した。その衝撃で糸が切れたらしく、皿は突然自由を失ってひらひらと川に落ちて行き小さな水飛沫を上げると川底に沈んで行った。皿に体当たりした方の小さな板も飛ぶ力を失って落ちようとしたが、川面に触れる前に、しの字を描いて再び宙に舞い上がると今度は一直線に飛んで行き、郷子の小さな手の中に収まった。

 それが郷子の忍法だと知ると、敵の忍者たちは皿の攻撃を郷子に集中させた。皿は一枚落とされたがすぐに竿を持ち替えたらしく飛んで来る皿の数は相変わらず十枚である。しかし、郷子を目掛けて飛んで行った皿は全て郷子の身体に触れる前に弾き飛ばされ、その幾つかはまた糸を切って川の中に没した。速すぎて目には止まらないが郷子の周囲には数枚の握三日月剣が飛び巡っているのである。皿を吊っている糸は細さの余り郷子の鬼神眼にも映らないが、皿自体は死角なく背後から来る皿までも正確に察知して三日月剣が弾いた。

 郷子は竿を持った忍者たちに向かい水を蹴立てて走り出した。忍法釣り天狗はあまり距離が近いと使えないらしく、郷子が三間まで距離を詰めると忍者たちは立てていた竿を横にして槍のように構え、細く尖った竿の先をしなわせて鞭のようにして郷子を打とうとした。しかし竿の先はあまりにも細く、全て郷子の周囲を巡る三日月剣で粉々に切り飛ばされてしまう。これは忍者たちも予想していたらしく、彼らは少しも慌てず手に残った太い部分で突いて来た。この時には皿の攻撃がなくなったので環たちも郷子を追って駆け出している。

 忍者の一人が郷子の足を狙って竿を突き込む。郷子は宙に飛んでこれを避ける。竿の先が川底に突き込まれる。忍者はすぐに引き抜こうとするが急に竿が重くなって動かす事ができない。郷子が竿に飛び乗り、竿の上を走って自分に向かって来るのだ。すぐに竿を捨て別の武器を持って迎え撃たなければならないのだが、想像もしなかった事態に忍者は一瞬自失した。その一瞬の間に郷子は目前に来ていた。郷子の掌底が忍者の顎を叩き割った。忍者は仰け反って倒れ、郷子は忍者の手から離れた竿を踏んで川の中に立つ。郷子に加勢しようと環たちが追い付いて来たが、その前に残り四人の忍者も水の中に倒れ伏し、水の流れに赤い物が混ざっていった。郷子が手を伸ばすと水中から四枚の握三日月剣が飛び出して来て郷子の手に掴み取られた。

 環はそれを見て青ざめた顔で目を見開き、口に両の拳を当てて後退った。背後に立っていた隻腕の武将、眠晃に背をぶつけて立ち止まった。眠晃が支えるように一つしかない手を環の肩に添える。その掌に環の震えが伝わって来る。郷子はゆっくりと環に顔を向けた。

「私が恐ろしいか」

 環ははっとして川底に跪いた。ざぶりと大きな音がした。

「ご無礼をいたしました。お許しください」

「良い。怖れられる事は兵法者の誇りであろ」

 表情のない顔でそう言うと郷子は環に背を向け、岸へと上がって行った。環は川底に手を突きがっくりと頭を垂れていた。水面に額が付いていた。唇を噛んで悔やんでいた。失策であった。裏鬼界は心を閉ざしてしまった。信頼を得なければならなかったのに。

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