第9話

    五 八寒地獄牢

 夕刻、映美と新之輔は小高い丘の上から城下を見下ろしていた。雑木が立ち並び下草が茂ってはいるが最早森と言うより里山である。森の中とは違い街や田畑に住む人々が立ち入り木の実や薪を拾っているであろう事が感じられる。竹を伐り、下草を刈り、薮を払って森が人里に侵入して来ないように手入れをされているのは明らかだ。新之輔は映美が斬り倒した忍者から血に濡れていない物を選んで脱がせた着物とたっつけ袴に着替えている。血に汚れていない羽織はなかったので諦めた。腰に太刀を差しているが、これは映美が使うための物だ。映美が扮している尼僧は武器を持ち歩かない。映美は街の様子を熱心に観察しているが、新之輔は赤く染まりつつある空を見上げて言う。

「真珠さん、世界は美しいと思いませんか」

 映美は何を呑気な事をと思って顔をしかめ新之輔に視線を向けたが、その顔が余りにも邪気のないすがすがしい表情だったので一瞬見蕩れて声を失った。

「暑いですか」

「えっ」

「顔が赤いですよ」

 映美は俯いて首を左右に振った。益々赤くなっている事は自分でも判っていた。夕日の赤がそれを誤魔化してくれる事を祈った。

「ま、街の様子、どげだ(どうだ)。何が変わだごど、ねが」

 そう言われて漸く新之輔が街へ顔を向ける。二人が今居る丘よりも高い山の山頂に十慶城は聳え、その裾野に城下町が広がっている。新之輔は首を傾げた。

「そうですね。八年前とはずいぶん様子が変わっています。江泰晴が作り替えたのでしょう。曲がりくねっていた道が真直ぐになり道幅も広くなっています。おかしいですね。普通、城下町は敵に一挙に攻め入られないように道を曲げておく物ですが。江の性格からいっても、戦の支度よりも商い流通を優先させるとは思えない。何か罠が仕掛けてあるのかも知れません」

 映美が頷く。新之輔が続ける。

「それから、あの川にある大きな水車も前はありませんでした」

 城下町の中央を南から北、正確に言うと僅かに南西から北東に傾いた方向に流れる川があり、城のある山を迂回するよう蛇行していた。その城山に近い岸に直径が一丈(約三メートル)以上もありそうな大きな水車が三つ回っていた。何のために使われているかは新之輔にも映美にも判らなかった。街の北から西に広がる田畑からは城山を挟んで反対側にあり、粉を挽いているのではなさそうだった。

 日が落ちるのを待って映美と新之輔は街へと侵入した。城山に近い町の中心部は賑やかなのだろうが、里山に隣接した周辺部であるこの辺りは、宵の口でも人影は疎らだった。忍者である映美には身を隠せる狭い露地が少なく広い道ばかりである事が気に入らなかった。

 街に入って幾らも歩かない内である。二人の頭上で何かが倒れるような、がたーんという大きな音がしたと思う間もなく間髪入れずに水を撒いたようなざあっという音が鳴った。暗くて新之輔には良く見えなかったが、映美の鬼神眼には二人の頭上で大きな網が広がっていくのがはっきり見えた。最初の何かが倒れるような音は網を投げる投石機のような機関の音、水を撒くような音は空中で広がる網が発する音だった。

 映美は新之輔の腰から太刀を引き抜くと網を切り裂こうと一閃させた。しかし網の紐は何かの金属の糸を撚り合わせて作られていて、映美の剣技を持ってしても空中では切る事ができず刀に絡み付いた。網はそのまま二人にふわりと被さって来た。網には何かべた付いた粘着性の物が塗られていて、振り解こうと動くほど身体に纏い付き、二人の動きを封じ込めた。このようにべたついた網が空中で綺麗に広がるのが不思議だった。射出されるまで何かの液体に浸されており、空気に触れるとべた付き始めるのだろうと新之輔には予想が付いたが、判った所でどうしようもなく、身体にくっつく網に絡め取られて、映美を後ろから新之輔が抱きかかえるような格好で、映美の背中と新之輔の腹を密着させて二人は道に転がった。広い街路に面した二階建の家の屋根の向こう側から忍者装束の一団が姿を現した。忍者の一人が言う。

「葉州忍法巣配打(すぱいだ)、覚えたか」

 片瀬城で共に闘った、あの忍者の頭だった。映美と新之輔は身動きならぬまま馬の背に乗せられて運ばれた。馬の背に揺られながら、映美は首をねじって背後の新之輔の顔を睨み付けた。

「ごめんなさい」

 新之輔は心底申し訳なさそうな顔をして謝った。新之輔の腰は映美の尻に押し付けられた状態であり、馬に揺られている内に新之輔の股間の物が屹立してきたのが映美に判ったのだ。新之輔は善良でも正直でもなかったが、しばらく一緒にいる内に新之輔の陰湿さのないさばさばした性格は映美にも判っていたので、そのすまなそうな表情に嘘はないと思うと、映美は何だか可哀想なような滑稽なような気分になって微笑んだ。

「まあええ。おら、ええへなご(良い女)ださげ、すがだね(仕方ない)の」

「本当にごめんなさい」

 新之輔は消え入りたいような顔をしてもう一度謝った。それを可愛いと思ったら映美も妙な気になり出した。

 目的地は映美と新之輔が丘の上で見たあの水車の前だった。三人の忍者が映美と新之輔の身体に手を掛けて馬から降ろそうとした。持ち上げようとした瞬間ばちっと大きな音がして三人の忍者が弾け飛んだ。金属製の網に映美が雷精を流したのだ。忍者も倒れたが新之輔も目から火花を飛ばして失神し痙攣した。感電した馬が驚いて棹立ちになり、映美と新之輔の体は放り出されて地面に落ちた。映美は駆け寄って来た忍者の頭に蹴り飛ばされたが、その時には既に気を失っていた。

 気が付くと映美は裸で冷たい石の上に転がされていた。鬼神眼は見えるが目は見えない。真の闇である。一糸纏わぬ全裸であった。猥褻な目的ではなく武装解除であろう。両手は後ろ手に縛られ、両足首も束ねて縛られている。鬼神眼で探るとすぐ横に新之輔も横たわっていた。やはり全裸で縛り上げられている。意識はないが息はしていた。周囲を見まわす。四畳半ほどの広さか。壁も床も天井も石でできた四角い部屋だ。大きな石が石垣のように組み合わされているが、よほど腕の良い職人が作ったらしく石同士がぴったりと合わさって、剃刀が入るほどの隙間もない。天井は低いが立って頭がつかえるほどではない。天井の中央に四角い穴が四つ開いて田の字を作っている。空気を取り入れるための物か。子供なら腕が入るかも知れない、という程度の大きさだ。

 手足を動かしてみる。忍者らしい念入りな縛り方だった。肩と肘の関節を外し、腕を前に回してみるが口を使っても解くのは難しそうだった。映美は、うえっとえずくと手の中に大人の小指ほどの棒を吐き出した。胃液に塗れたそれの一方の端を手に持ち、もう一方の端を口に咥えて引くと鞘の中から小さな刃物が抜き出された。口に咥えて手首の縄を切り、足首の縄も切る。新之輔の手足も解放してやる。活を入れて目を覚まさせる。身じろぎして小さく呻いた。新之輔は何も見えない筈なので肩に手を置いて安心させてやる。

「気ぇ付えだが? おらがえる(居る)さげ、安心すろ」

「真珠さん。ここはどこですか。何も見えません」

 新之輔は不安そうな顔で肩に置かれた映美の手を両手で押さえた。

「石で囲まっだ部屋だ。窓がねさげ真っ暗だの。江泰晴の牢屋でろ」

「良かった。僕の目が見えなくなったのかと思った。あれ、裸だ」

「武器、隠しぇねように脱がさっだんだの。おらも裸だじえ」

 新之輔の股間の物が頭を擡げかけてゆらりと動いたのが映美には見えたが、新之輔自身は気付いていないようだった。映美は新之輔が恐慌に陥るようなら邪魔になるのでもう一度気を失わせる積りだったが、どうやら心に余裕があるようだ。映美は新之輔に言う。

「なすで(どうして)すぐに殺さねんだ」

「死ぬと腐りますから」

「何だ」

 映美は意味が判らず聞き返した。

「腑分け(解剖)する積りでしょう。それまで腐らないようにできるだけ生かしておくのです」

「新之輔さは鬼界衆でねじえ」

「そんな事は敵は知らないし、言っても信用しません。腑分けして気付くんですよ。あ、人間だった」

 新之輔が愉快そうな笑顔になるのを見て映美は不思議そうな顔になったが、もちろん新之輔には見えない。

「死ぬの、恐ろすぐねのが」

「はい。どういう訳か僕は子供の頃から死ぬのが怖くありませんでした。痛いのは怖いですけど。痛いのは本当に怖くて、想像するとおしっこが漏れそうになる」

 見る見る縮んでいく男性器が新之輔の恐怖を言葉より雄弁に物語っていた。映美はまた新之輔を可愛いと思う。

「気付いたようだな鬼界衆」天井から大きな男の声がした。「お前たちは荻景連と通じておろう。とぼけても無駄だぞ、森の中でお前たちと荻の娘が一緒にいる所を見た者が居るのだ。どのような計略じゃ。教えてくれれば命を助けてやらぬ物でもないぞ」

「しゃね(知らない)」

 と言ったきり映美は黙った。計略と言っても時間を示し合わせただけだが、もちろんそれも教える気はない。譬え映美がここで死んでも郷子が子供を助け出して呉れるはずだった。郷子の不利になる事は一切言う積りはなかった。映美は新之輔が喋る事を警戒していた。口を開きそうになったら気絶させる積りだった。場合によっては殺すのも仕方がなかった。素手であっても映美が新之輔を殺すのはた易い事だった。意外な事に新之輔は全く口を開かず、迷うような素振りすら見せなかった。天井の声が言う。

「言わぬか、ならばここで死ね」

「殺すと腐りますよ」

 と新之輔が言うと声は高らかに笑った。

「ところがそうはならぬのだ」

 そう言って声の気配は消え、石に囲まれた暗闇に静寂が訪れた。映美が小さな声で言う。

「良ぐ喋らねがだの」

 新之輔は笑った。

「言わなければ江の忍者に殺されるかも知れませんが、言えば真珠さんに殺されます」

 映美も笑った。

「ほだの(そうだね)」

 冷たい石に裸の尻を着けてしゃがみ、二人は笑い合った。と、天井の穴から猛烈な冷気が吹き込み始めた。新之輔はずいぶん北方も高山も旅したがこれほどの寒さ冷たさを経験した事はなかった。寒いとか冷たいというより痛かった。身を切る寒さという表現があるが、それは全く比喩ではなかった。肌に手を触れてみて血を流していないのが不思議だった。新之輔は両腕で膝を抱えて小さく丸くなったが、そんな事をしても全く効果がなかった。手の指は足の間に挟み込んでいるが、足の指と耳が千切れそうに痛かった。尻を着けている石の床も冷え切って鋭い牙で下から食らい付いて来るようだった。轟々と音を立てて吹き付ける冷気は吸い出すようにして新之輔の体から温もりを奪っていった。映美の歯ががちがちとなる音が聞こえて来た。

 男の声が殺しても腐らないと言った理由が映美と新之輔にも判った。氷漬けにする積りなのである。冷却の仕組み自体はそれほど難しい物ではない。空気を漏れない容器に入れて押し縮めると元の温度よりも熱くなる。新之輔はこれを疎らに散っていた「暖かさ」が押し縮められる事で寄せ集められるためだろうと考えていたが、こうして熱くなった空気を風や水などで冷まし、もう一度元の大きさに広げると、空気は最初の時よりも冷たくなっている。冷ます過程で「暖かさ」が奪われるためである。次にはこうして作った冷気で押し縮めた空気を冷ませば、更に冷たい冷気を作り出せた。今、映美と新之輔を凍えさせている冷気は、その操作を何段階も繰り返して作られた物であり、三つの水車が空気を押し縮める作業をしているのに違いなかった。流れる川の水は空気を冷ますのにも利用されるのだろう。

 新之輔の喉は硬くこわばって最早悲鳴もあげられないが、寒さは全身を貫く千本の刃物となって暴れ回り、新之輔に声にならない絶叫を繰り返させた。痛いのが恐ろしいと言ったのは嘘ではない。新之輔は苦痛に耐える能力が全くなかった。新之輔は死を願った。願いが神霊に届いたのか、新之輔の苦痛はやがて和らぎ始めた。感覚が麻痺し始め、全身がぴりぴりと痺れたようになり、自分の物ではないようで思うように動かなかったが、痛みが減ったのはありがたかった。不意に新之輔の身体が柔らかい物に包まれた。柔らかく弾力があり、張りもあって表面は滑らかだった。それが映美の身体だと気が付くまで少しかかった。感覚の麻痺した新之輔にはその暖かさが感じ取れなかったのである。体力があると言ってもやはり学者で、新之輔は既にぐったりしてしまっているが、鍛え抜かれた忍びである映美は震えながらもまだ動く事ができたのだ。新之輔の身体を抱きかかえ、震える声で映美は言う。

「めじょけね(可哀想に)の。おらだぢど関だばがりに」

 裏鬼界の映美は何時でも死ぬ覚悟はできていたが新之輔が哀れだった。

「いえ。近付いたのは僕の方ですから」新之輔は最早囁くような声しか出ない。「もう、あんまり痛くないし、こんなに素敵な女の人の胸で死ぬのなら、そんなに悪い死に方でも、な、い…か」

 声が途切れた。気が遠くなったようだった。映美にはこれ以上何もしてやる事はできない。鬼雷砲を使えば壁を壊す事ができるかも知れないが後が続かない。そして、こんな狭い場所で鬼雷砲を使えば新之輔は確実に死ぬ。映美は新之輔を抱き締めて死を待った。よく、死ぬ前には走馬灯のように自分の一生が脳裏に蘇るなどと言うが、映美は何も思い出さなかった。体温を奪われ感覚が麻痺していき、抱き締めている男の身体の存在が徐々に感じ取れなくなっていくのを見詰めるように意識し続けていた。ついに映美の意識も薄れてきたのか視界が突然真っ白になり、その向こうに郷子の影がぼんやり見えた。幻だろうか。

「お邪魔だったかしら」

 と郷子は言った。

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