第7話
三 天使
敵の扮装はひざ丈の着物に胴丸、篭手、脛当てで鎧った雑兵姿で良く訓練されてはいたが、それは開けた戦場での総力戦を想定した物で、遮蔽物の多い森の中では忍者である裏鬼界の独壇場だった。また、武将の言った通り環の剣技はなかなか優れた物で、武将自身も右腕を失ったばかりとは思えぬ戦いをした。新之輔は両腕を挙げて頭を守り、泣き声をあげながら殆ど目を瞑るようにして駆け、ただ映美の姿を見失わないようにしていた。映美たちはたちまち敵の包囲を突破し、打ち合わせ通り二手に別れて走った。
追いすがって来る敵を映美の剣が斬り倒し斬り倒し、刃こぼれした刀を捨て敵の剣を奪う事三本目にして漸く敵を引き離し、映美と新之輔は足を止めて一息吐く事ができたのだった。映美は立ったまま呼吸も乱していないが、新之輔は座り込んで荒い息を吐いていた。血に濡れた顔を手拭いで拭っている映美を見て新之輔は言う。
「せっかくの変装も役に立ちませんでしたね」
姿を敵に見られてしまった事を言っているのだ。映美はにやりと笑い「ほうでもね(そうでもない)」と言うと新之輔に背中を向け、背負子を降ろして血を吸った着物を脱いだ。滑らかな白い肌が新之輔の目に眩しかった。しなやかな痩身だが、痩せた者がしばしばそうであるような肩甲骨の飛び出しはなく、鍛えた者に特有の発達した筋肉が骨の周りに集まっていた。新之輔はその肉の美しい動きに見蕩れた。映美は着物を裏返しに着て新之輔に向き直った。衣は墨染めとなっていた。更に映美は長い髪を頭の上で丸めて笄で止めると、その上から布を被って被衣(かずき)とした。正確に言うと、尼がこのような扮装をする宗派はないが、ぱっと見には瞑火(めいか)教系宗派の尼僧に見えた。墨染めなので血の染みも目立たない。新之輔は感心した。
「忍びというのは用意が良い物ですね」
「おめ様も姿見らっだじえ(見られたぞ)」
「僕の着物は単衣ですから裏返しても柄は変わりませんよ」
映美は微苦笑した。
「ほだの(そうだね)。城下さ出だら着物、手に入れるべ。どれ、ちんど(少し)様子見で来る。こごで待でろ」
映美は森の中に姿を消した。深い呼吸をゆっくりと繰り返していると、新之輔の動悸も修まって来た。そしてある事に気が付いた。江の配下に顔を見られたという事は、自分も敵と見なされるという事だ。一人で放り出されたら危険で仕方がない。江の領地を出るまでは映美たちと行動を共にするしかないという事だった。新之輔は情けない顔で呟く。
「だから来るのは嫌だったんだ」
がさりと音がして新之輔はぎくりとそちらを振り向く。二間(約三六四センチ)ほど離れた所に肩から菫色の衣を掛けただけの裸の女が立っていた。一瞬映美かと思った。先程見た美しい背中の印象は強烈だった。映美ではなかった。映美よりもずっと美人だった。環も八年の間に美しく成長していたが、環のような若い鹿を連想させる清冽な美しさではなく、熟れ切った女の妖艶な美しさだった。映美のしなやかな背中とは違って、たっぷりとした柔らかそうな肉付きだった。重たげな膨らみの大きな乳房の先に桜ん坊のような赤い乳首が立っている。腹から腰、太股の皮膚も丸みを帯びているが崩れた緩みは感じられず弾力を持って張っていた。柔らかそうな陰毛を恥じる様子もなく曝していた。骨がないような身体だった。女は首を傾げて新之輔に微笑み掛けた。平常なら、色香の匂うとでも形容する所だが、衣の前を開けた裸なので匂うどころではない。新之輔は若く見えるがもう三十を過ぎている。しかしもちろん女の欲しくない年齢ではない。ずいぶん女を抱いていなかった。新之輔の股間の物が屹立してくるのは致し方のない事だった。新之輔は立ち上がり、二歩ばかり女に歩み寄った。
「どうしました。こんな所で、そんな姿で」
声が掠れていた。女は微笑んだまま新之輔に頷き掛けた。新之輔は引き寄せられるように更に近付こうとした。背後で映美が叫ぶ。
「危ねっ!」
新之輔の頬を掠めるようにして剣が飛び、女の右目に突き刺さった。女は笛のような美しい音色で、ぴぃーっと鳴いた。大きく開けた口の中に明らかに人間とは違う四本の牙が見えた。仰け反って肩に掛けた衣をぱっと左右に大きく開いた。それは衣ではなかった。薄紫色をした鳥のような二枚の翼だった。女の両肩からは腕ではなく羽が生えていたのである。
「天使!」
新之輔は仰天してそう叫ぶと慌てて地に伏せた。女の額が火花を発して、たった今まで新之輔がいた所を青白い光がじぐざくに走った。光は新之輔の後ろの地面に落ち、焦げ臭い匂いを発した。映美が新之輔の身体を飛び越えて女の右目に突き刺さった刀の柄を掴んだ。引き抜いてもう一太刀浴びせようとしたが、その前に女は羽ばたいて舞い上がった。下草に隠れて見えなかった足先が浮き上がる。人間とは全く違った形をしていた。足首から先は黄色い鱗のようになった硬そうな皮膚で、その指はある種の鳥のように前後に二本ずつ向かい合って開き、物が掴めるようになっていた。猛禽類に酷似した凶悪な印象の湾曲した長い爪が生えていた。宙に舞った女を見上げて映美が叫ぶ。
「餓舞裏得(がぶりえる)! なすでこだなどごさ(どうしてこんな所に)」
女の背後から沢山の鳥が一斉に飛び立った。鴉ほどの物も居れば大きな鷲ほどの物も居る。小柄な人間ほどの物も数羽居るようだった。皆菫色の翼をしていた。鳥ではなかった。皆女と同じ姿をしていた。人間の女の身体に鳥の翼である。大きさは最初に現れた女よりもずっと小さいが、体型は全く同じで、幼さの感じられない成熟した女のそれだ。それがそのまま小さい。
人形のようなそれらが映美に殺到した。映美は積み重なった薄紫色の翼に覆われてその姿を隠してしまう。ばちっと大きな音がして、小さな羽の生えた女たちが弾き飛ばされた。映美が小雷を発したのだ。更に刀を振って空飛ぶ女を次々に斬り落とし振り払った。右目から鮮血を流しながら最初の女が空中から映美に襲いかかる。離れている時には新之輔には判らなかったが、こうして映美と比べると女は思ったよりもずっと大きかった。背丈は一間(約一八二センチ)以上ありそうな大女である。足の長く鋭い爪で映美の胸を掻き毟ろうとする。映美の刀が閃いて鳥のような足の指が二本斬り落とされた。女はまた笛の音色でぴぃーっと鳴いた。その音はあまりに澄んで美しく、歌うような響きは典雅ですらあり、人の耳には苦痛の声とは聞こえないが、空中で身体を仰け反らせて震え、羽ばたきを乱した女の様子は明らかに激しい痛みを表していた。その顔にも苦痛の表情はない。全く感情のない、どこか遠くを見るような顔をして凍り付いたように変化しなかった。それを見て、翼の女の表情は内面の感情とは無関係なのだと新之輔は知った。先程新之輔に微笑み掛けたのもおそらく微笑んだのではないのだろう。新之輔は危うくおびき寄せられて殺される所だったのである。女の額から青白い光が飛ぶのと映美が右に跳躍するのが同時だった。たった今まで映美がいた所に光が飛び落ちて下草が燃え上がった。映美の鬼雷砲と同種の物と思われた。すなわち強力な放電である。敵わぬと見たか、翼の女たちは何処へかと飛び去って行った。新之輔は地面に落ちている小さな女の死体を一つ拾い上げてしげしげと眺めた。
「これが天使か。初めて見た」
雷精、すなわち電気を操るもう一つの生物種である。雷鳥(かみなりどり)とも呼ばれる。体内に発電器官と蓄電器官を持つが鬼界衆のように電波で交信したり磁気を発したりする事はできず、電撃を放つだけである。ただしその電撃は非常に強力で、これで獲物を倒して捕食する肉食性の動物である。その姿は人間の女性に酷似しており、多くの場合人間の基準で美女である。乳房には乳首まで付いているがこれは授乳器官ではない。その姿は人間の雄をおびき寄せて捕食するための擬態であろうと思われた。天使の肩には腕がなく、その代わりに鳥のような翼が付いている。両胸の盛り上がりはこれを羽ばたかせるための筋肉である。完全雌雄同体で一個体が卵巣と精巣の両方を合わせ持つ。股間の性器は陰毛に覆われて一見人間の女性器のように見えるが内部構造は全く異なっている。生殖器には陰茎と膣に相当する器官が隣接していて、交尾に相当する行為は、二個体が相互に陰茎を膣に挿入し合って精子を交換する。卵生だが親が卵を温める事はせず、地中に生み付けて地熱で孵化する。孵化時は全長一尺(約三十センチ)ほどで、寸法こそ小さいが親と全く同じ体型、すなわち人間や鬼界衆の成人女性に鳥の翼を生やした姿で生まれて来る。充分な栄養さえあれば際限なく生長し、大きな物では全長一間(約一八二センチ)以上、翼を広げた長さは三丈(約九メートル)以上にもなる。妙なる笛の音のごとき非常に美しい声で鳴く。知能は低く非常に凶暴である。
人間を含む大型の哺乳類を好んで捕食するが、鬼界衆同様体内で電導物質を合成するために鬼精を必要とし、そのため鬼界衆を特に好んで捕食する。鬼界衆の天敵とされる。鬼界衆同様成長に時間がかかるため、ほとんどは三尺(約九十センチ)以下の小型で、一羽では鬼界衆の敵ではない。そのため群をなして鬼界衆を襲う性質を持つ。また、体内に鬼精を持つため、鬼界衆の妊婦も天使を食らう。大型の物は滅多にいないが、この時代に五羽、全長一間を超える物が知られており、それぞれ観禍得(みかえる)、餓舞裏得(がぶりえる)、裸腐亜得(らふあえる)、熟裏得(うりえる)、流死腐得(るしふえる)と呼ばれる。その電撃は特に強力で一撃で熊も仕留めるとも言われていた。
天使は実質的には人間にとって鬼界衆よりも危険であるが、その姿や声の美しさと、鬼界衆のような知性を持たないため、鬼界衆のように人間を脅かす脅威とは考えれない傾向があり、多くの場合人間は天使よりも鬼界衆を怖れる。鬼界衆を退治するため鷹匠のように飼い馴らそうとする試みが人間によって時折行われるが成功した例はなく、多くの場合試みた人間が食われる結果に終わっている。
新之輔が小さな女の股間をじっくり見ていると、その手から天使を映美が引ったくった。
「えげつね(嫌らしい)の」
顔をしかめてそう言った。新之輔は必ずしも猥褻な興味だけで性器を見ていた訳ではなかったが、言い訳はしなかった。その意図もあったのである。映美は天使の死体を集め、穴を掘ってその中に埋めていた。土を被せ、二本の枝を草で縛って十字に組合せた物をその上に突き刺した。
「何をしているのです。お墓ですか」
映美は苦笑した。
「天使に墓こしゃでける(作ってあげる)鬼界衆はえね(居ない)の。こうすでおぐど、後で仲間が取りに来るんだ。天使の身体には鬼精が多いさげ、お腹に胎児(やや)おるががちゃ(お母さん)が食うんだの」
「天使は中の大山地に棲んでいるのじゃありませんか」
「ほだ(そうだ)。この辺りでは見だごどねがだ(なかった)。なすで(どうして)こだなどごさ、おるのが、わがらない」
「江泰晴が集めたのではありませんか。仲間を取り戻しに来る鬼界衆を撃退するために」
「集める? どげに(どのように)すで。天使は人に懐がねじえ。肉食で凶暴ださげ、捕まえるのも難す」
映美が首を傾げた。
「天使の好物は何ですか」
「あっ」
「人間が鬼界衆の子供を捕える時、親は殺される事が多いと言いましたね。死体は研究のため腑分け(解剖)をするのだと思いますが、その後の肉を…」
映美がうーっと唸った。目尻の吊り上がった険しい顔をしていた。食い縛った歯の鳴るぎりぎりという音が聞こえそうだった。
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