第6話

    二 環姫

 三人が、やはり山賊の物であった馬に荷物を乗せてじさまの待つ破れ寺に戻ると、既に一頭の驢馬が用意されていた。その夜は寺でゆっくりと休み、翌朝出発する事になった。映美と郷子はじさまが炊いておいてくれた風呂に入って身体や髪にこびりついた血や泥を洗い流し、血に濡れた着物を清潔な浴衣に着替えると、囲炉裏を前にして座り、やはりじさまが作ってくれた食事を取った。良く運動した二人は今夜も食欲旺盛で、二人と交替で風呂に入った新之輔が上がって来る頃には鹿肉の鍋はあらかたなくなり、じさまが新たな具を足し入れている所だった。新之輔も椀を持って囲炉裏の前に座ったが、映美も郷子もまだ食べる積りらしく、椀を持ったまま次の具が煮えるのを待っている。郷子が映美に話しかける。

「ねええみちゃん、私たちが子供を救い出しても救い出しても、人間は次から次へと子供をさらうわ。辛い目に遭う子供を少なくするには、こんな風に一人ずつ子供を救い出すのじゃなくて、何て言うか、子供がさらわれないような世の中にする方が近道なのじゃないかしら」

 映美はゆっくり首を左右に振った。

「人間は鬼界衆、嫌ぇなんだ。ずっどずっど昔がら、人間は鬼界衆、いじめできだ。それも当然だの」映美はちらりと新之輔を見た。「人間は人間同士でも年がら年中、戦すでえる。ますで(まして)種族の違う鬼界衆ど仲良ぐでぎねべした」

 郷子はまだ自分の考えに未練があるようだった。

「でも、人間は敵であった国同士でも、それは一時の事かも知れないけれど、同盟を結んだりする事があるじゃないの。仲良くはなれないかも知れないけど、話し合いができない相手じゃないと思うの。辛い目に遭う子供をなくせないまでも減らす事はできないかしら」

「ほだの。さとちゃんのそう(言う)ごど、正すがもしゃね(正しいかも知れない)の。んだども(そうではあるけれども)今のおらだちに、ほれはでぎね」

「そうね」

 と言って郷子は頷いた。この夜初めて新之輔が口を開いた。

「どうしてできないのです」

 郷子が少し困ったような、自嘲するような妙な笑い方をして新之輔を見た。

「私たちには、今この時に辛い目に遭っている子供が居るって判っているのを放っておいて、人間と交渉をしたりする事はできないのよ。長い目で見ればその方が沢山の子供を助ける事になると理屈の上では判っていてもね。子供の泣き声が聞こえちゃったらもうどうしようもないの。気が付いたら走り出しているのよ」

 映美が頷く。

「おらだぢ鬼界の者はの、わらすご(子供)泣えでえるど(いると)しぇづねぐでしぇづねぐで(切なくて切なくて)、えでも(居ても)立でもえられねようになるの。わらすごのどご(所)さ駆げで行で、悲すごど取り除えでけで(取り除いてあげて)、抱ぎすめで、もう泣がねでええじえ、っでそうで(言って)けらねば気ぇ済まねもんなあ。わらすご泣がす大人えるど、そりゃあもう、ごしゃげでごしゃげで(腹が立って腹が立って)目の前、真っ白んなるぐれ頭さ血ぃ上る。訳判んねぐなっで、気ぇ付いだ時には、そ奴ば、ぶぢのめすでえるんだあ。まなぐ(眼)つぶれば、わらすごの姿見えねぐなる。耳塞げば、わらすごの泣ぎ声聞ごえねぐなる。んだども、おらだぢの鬼神通は塞ぐこどでぎねの。壁も岩も森も何もねえように通り抜げで伝わでけるもんなあ。んださげ(そうだから)おらだぢは、えづも(いつも)駆げでる。わらすご抱ぎすめで、もう泣がねでええじえっで、そうでける(言ってあげる)ためにの」映美は視線を新之輔から郷子に戻した。「おらだぢが年取だり、怪我すだりすで、裏鬼界の仕事でぎねよになだら(できないようになったら)、も一度考えるべ」

 郷子は頷いた。

「そうね。……その時まで生きていればね」

 裏鬼界は長生きができにくい仕事であった。新之輔は黙っていたが、鬼界衆が迫害されない方法が一つだけあると考えていた。人間を滅ぼす事である。

 翌日はまだ夜が明けぬ内に、昨夜の鍋の汁に山賊から奪った米で雑炊を煮て食べ、じさまに握り飯を作って貰い、武器や食料を積んだ驢馬を連れて三人は出発した。街道にはほとんど出ず、森の中の獣道や沢を行き、時には下草や薮を掻き分けて進んだ。始めの内は学者の新之輔に配慮して映美と郷子にとってはゆっくりとした歩調で歩いたが、捕えられている子供の事を考えると気が急いてきて知らず知らずの内に二人とも足早になった。意外にも新之輔は忍びの足に良く付いて来た。

「案外頑張るわね」

 休憩の時、郷子がそう言うと、流石に息は荒かったが新之輔は無理なく微笑んだ。

「大陸中を巡り歩いて調べ物をしていますからね」

「新之輔さんはどうやって暮しを立てているの」

 呼び方が何時の間にか岩崎様から新之輔さんに変わっている。

「主に、武士や豊かな町人百姓に諸国で見聞した事や考えた事を話してお金を貰ったりしています。書いた物を本屋に売ったりもしますが、これはあまりお金になりません」新之輔が本屋というのは書店ではなく版元の事だが、この時代、まだ印税という仕組みはなく原稿は売った切りである。ついでに言えばこの世界には活字もまだなく、版木を彫った物で印刷をしている。「他には、余所の土地で知った新しい畑作の工夫や自分で考えた遣り方を百姓に教えたり、時には武将と戦の遣り方を考えたりもします。僕は世渡りが下手なので山菜や木の実で餓えを凌ぐ事もありますよ」

「機関(からくり)は作らないの」

 と郷子が聞くと新之輔は苦笑して首を左右に振った。

「僕は手先が不器用なので自分では機関を作りません。でも、機関職人と話し合って新しい機関を工夫するのは楽しいですね」

 特別に可愛がるという事もないのだが、驢馬は映美や郷子よりも新之輔に懐いた。驢馬は我慢強い代わりに頑固な動物である。気が進まないと梃子でも動かなくなる事があったが、新之輔が宥めるように説得すると不思議と言う事を聞いた。三人は一日で十五里(約六十キロ)以上を踏破して、その晩は天幕を張って野営した。翌日の昼近くには十慶城が見える所まで来ていた。

 十慶城は片瀬城と違い険しい山頂にある。これを設計したのは前の城主荻景連である。長期の籠城に堪えられるよう、米蔵、武器蔵、貯水場などを設け、山頂の見張櫓の上に立つと一望千里、何処から何者がやって来ようがすぐ発見できるという文字通りの要害であった。江泰晴はこの城を落とすのに大変な苦労をした。当時、荻の所領は僅かに四万石ほどで、総兵力は二千人に満たなかった。地元の百姓を呼び集めても千人ほどが増えるばかりである。片や江は二五五万石の領主で城攻めに差し向けた兵力は一万八千人。江は簡単に攻め落とせると考えていた。しかし荻は麓の城下町をすっかり占領されても少しも慌てず山城に閉じ籠って貝が蓋を閉じるがごとくに身を鎧い、少しでも相手の隙を見付けると、すぐに出撃してさんざん駆け悩ませた。江泰晴が十慶城を落とすまで何と二年の歳月を要したのである。

 持って来た食料を食べ尽くしてしまうと、映美と郷子は荷を驢馬から降ろした。郷子は新之輔に「着替えるからあっち向いてて」と言った。もう良いと言われて新之輔が振り向くと、映美と郷子は灰紫色の極端に簡素な着物を着ていた。筒袖で帯はなく、羽織のように縫い付けられた紐で前を合わせていた。手足には白麻の手甲と脚絆、首から黒い頭陀袋を提げ、背中にも背負子を背負っている。映美は右手に三尺五寸(約百五センチ)ほどの白木の杖を持っている。着物はゆったりとしていて女性らしい身体の線を隠している。そして、手には先程まで物入れとして使っていた竹で編んだ筒状の籠のような物を持っていた。新之輔はそれが頭に被る天蓋だと今になって漸く気が付いた。虚空教と呼ばれる宗教の僧の装束である。映美と郷子は江の忍者に顔を知られているので顔を隠せるように工夫したのだろう。映美と郷子は今脱いだ着物と残りの荷物を野営に使った天幕に包んで土に埋めた。不要になった驢馬は尻を叩いて森の奥に追いやる。驢馬は一度振り返り名残惜しそうに嘶いたが、新之輔が頷くと、とことこと去って行った。映美と郷子が天蓋を被ろうとしたその時である。

「漸く見付けたぞ裏鬼界」

 森の中から出て来たのは身体の大きな男だった。背が高いばかりでなく首太く胸厚く肩の筋肉が盛り上がっているのが袖なし羽織の上からでも判る。堂々たる体躯だが着物の右袖は中身がなく風に揺れている。腕を抜いているのではなく肩から先がないのであった。身体つきは屈強な印象だが表情には闊達さが感じられず、皮肉で厭世的な性格が感じられる顔をしていた。片瀬城の天守で映美に右腕を斬られたあの武将だった。腕を斬られてまだ日が浅く傷も塞がっていない筈だが、疲れも痛痒も感じさせない身のこなしで森の中から現れた。新之輔は初めて見る顔だが、映美はもちろん、映美と感覚を共有している郷子も彼を覚えていた。しかし、郷子は武将を睨んで頓珍漢な事を言う。

「あなた、着替えを覗いたわね」

 武将の背後からまだ幼い印象の女の声が言う。

「ごめんなさい。何だか声を掛けるきっかけを失ってしまって」

 その周囲だけぼうと光っているように見える美少女だった。まだ十代であろう。燦々たる黒い瞳は野生の獣にも似て、純粋無垢でありながら活発無比の俊敏さが精気となって輝き出しているのであった。美しい黒髪を長く伸ばし、背中で纏めていた。萌葱色の小袖に鳶色の袴を着け、腰に小刀を差している。

「おめ様は誰だ」

 と映美が聞いた。

「隣国領主、荻景連の娘、環です」

 映美が新之輔を振り返った。

「本物が?」

 黙って頷く新之輔を見て環は目を見開いた。

「岩崎新之輔、生きて居ったか」

「久しぶりですね、姫」

 環は新之輔を睨み付けた。

「生きて居ったのなら、なぜすぐに我等の元に戻らなかったのだ」

「荻のお殿様に召し抱えられていたのは父で僕でありません。落城の際に父は死んでしまいましたから戻る気はなくなりました」

「父も私もお前の知恵深く工夫に巧みな事を買っておった。良い扶持で召し抱えた物を」

「環姫がいじめるので逃げ出したのです」

 新之輔が笑ってそう言うと環は赤くなりぷいと横を向いた。

「いじめてなどおらぬ」

 新之輔は映美に顔を向けて真顔で言う。

「女の人はみんなああ言うのです」

 郷子が割って入る。

「お取り込み中申し訳ないけど私たちに何の御用かしら。先を急ぐので手短にお願い」

 環が頷いた。

「あなた方が趙仁徳を殺したので片瀬城はもちろん趙の領内は大変な混乱に陥っています。何しろ趙仁徳の三人の息子の誰が後を継ぐかもまだ決まっていない上に、息子たちは皆幼く、後ろ楯を巡っても家臣の間で意が揃っていないようなのです。隣国の包玄白と江泰晴はこの機に乗じて攻め込むべく準備を進めています。江の手勢の一部は既に片瀬城に向けて出立いたしました。趙が滅びれば同盟関係にある我が国も風前の灯です。我が父は先手を打って趙の国を攻めている隙を突き、十慶城を江泰晴から奪い返す所存です。あなた方は、十慶城に捕えられている鬼界衆を助け出しに行くのでしょう。それを予想して街道や森をお捜ししておりました。我等の敵は一つです。我等と協力し、機を同じくして十慶城を攻めて戴きたく、お願いに参上したしだいでございます。あなた方にとっても有利な話でござりましょう。この願い、どうかお聞き届け戴きたく」

 環と武将は膝を突いて頭を下げた。郷子はそれには応えずに聞く。

「どうして十慶城に鬼界衆が捕えられて居ると判ったの」

 山賊退治で派手に暴れたから映美と郷子が旅支度をしていたのは噂で判ったかも知れないが目的までなぜ判ったのであろうと郷子は思った。環は頭を下げたまま応える。

「十慶城には間者を送ってござりますれば」

 郷子はゆっくりと首を左右に振った。

「だから人間は信用できないのよ」

 環は土に額をこすり付けた。

「ではございましょうが、そこを何とぞ、何とぞ」

 郷子はふんと鼻を鳴らした。

「あなたたちの手勢は」

「はい。父の率います本隊がおよそ二千五百、既に出陣し、明朝には十慶城下に到着する予定でございます。それとは別に私の率います部隊がおよそ六百、この森に潜ませてございます」

「十慶城は難攻不落よ。主立った部隊が片瀬城攻めに出払っていると言ってもそれだけの兵力で落とすのは難しいでしょう」

「はい。ですからお力をお借りしたいのでございます。父の造りましたる城なれば、攻めるに難い事は重々承知いたしております。しかし、十慶城は城内に敵が入ると意外に脆いのでございます。八年前、父が破れましたのも忍びに侵入されたためでございます。残念ながら、我が軍には優れた忍び働きが居りませぬ。どうか、どうかお力を」

 郷子は鬼神通で映美に相談する。

「どうする。確かに悪い話じゃないけど」

 映美は郷子に頷きかけると環に顔を向けた。

「おらだぢは、おめだぢ信用すね。んだども利害、一致すでえる。おらだぢの手の内、明がすごど、でぎねげんど、時刻だげ、申し合わすべ」

 郷子が頷いた。

「それでは明朝日の出と共に機を同じくして攻める、というのはどう」

「はいっ。ありがとうございます」

「私たちの目的は仲間を助ける事だから、それを遂げたら後は戦わずに逃げるわよ」

「はいっ。それで充分でございます。十慶城は元々我等の城なれば、中の作りは熟知しております。僅かの兵であっても中に入り込めさえすれば充分な勝機となりまする。感謝いたします。感謝いたします」

 環は這いつくばったまま礼を述べ続けようとしたが、不意に郷子が顔を上げて周囲を見回した。次いで映美が、そして隻腕の武将が周囲に注意を向けた。

「どうしたのです」

 と新之輔が聞いた。環も漸く皆の様子がおかしいのに気付いて顔を上げた。郷子が言う。

「囲まれたわ。物取りの類じゃないわよ。良く訓練された兵よ」

「江泰晴の手の者でしょうか」

「まず、間違いなく」

 郷子が新之輔に頷くと環がうろたえた。

「そんな。どうしてここが」

 小規模な巡回警備隊のような物ではない、何十人、もしかしたら何百もの兵の気配がしていた。

「間者居るのは江泰晴だげでね、ちゅうごどだの」

 環は信じられないと言う顔をして呆然としていた。家来の忠誠を信じていたのだろう。唐突に新之輔が環に言う。

「范文丈(はんぶんじょう)様はお元気ですか」

 范は荻家代々に仕える重臣の一人である。新之輔がなぜそんな事を聞くのか判らないまま環は頷いた。

「文丈殿は既に隠居なされ、息子の文夏(ぶんか)殿が後を継がれたが親子共々お元気です」

「八年前、十慶城に敵の忍びを導き入れたのは范様ですよ」

「なんと! それが真ならなぜ教えて呉れなかった」

「だって、姫も殿様も僕より范様を信用していたじゃないですか」

 環には返す言葉がない。二人の会話を余所に映美と郷子と武将が打ち合わせている。

「東の方が手薄ね」

 郷子が言うと武将が頷く。

「突破して二手に別れよう」

「姫様は闘える?」

「あなた方には及びも付かないが、並の槍働きよりは剣の腕は立つ。腕力はないが持久力もある」

「じゃあ、あなたと姫様と私で敵を引き付けましょう。新之輔さんは闘えないし、持久力はあるけど足は遅いみたいだから、えみちゃん守って逃げて」

 映美は頷いて言う。

「明朝日の出の時、十慶城で」

 武将と郷子は頷いた。次の瞬間には映美は新之輔の、郷子は環の手を掴んで走り出していた。新之輔を従えて走りながら、映美が杖の両端を持って引くと、杖に仕込まれた刀が姿を現して白銀の煌きを放った。郷子は既に両手に握三日月剣を握っている。武将と環もそれぞれの得物を手にしていた。四人は目前に現れた大勢の敵の中へと飛び込んで行き、悲鳴をあげながら新之輔がそれを追った。

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