第4話
五 自翔剣輪舞
横穴の角を折れて少し広くなった場所に出ると、映美たちの前にばらばらと侍たちが現れて立ちはだかった。数々の仕掛けに人数を減らし、傷付き疲弊した所を取り囲んで斬り捨てようという手順なのであろう。事実、江配下の忍者たちは三人になり、皆火傷を負っている。しかし、現れた侍たちの中に文哲の姿はない。郷子が叫ぶ。
「えみちゃん、文哲が子供を連れて逃げようとしているわ。急がないと」
郷子は鬼神通で捕えられている鬼界衆の子供と連絡を取り合っているのである。距離は近くなっているのだが子供が弱っているので鬼神通も微かで、やや感度の低い映美には感じ取る事ができないのであった。
映美は黙って頷き、刀を構えて前に出た。郷子も侍たちに向かってすすっと身体を前に出す。郷子の正面の侍の構えは奇妙だった。上段でも下段でも正眼でもない。三尺の長剣の柄頭を臍の辺りに当て、刀身が地面と水平になるように切っ先を前に向けて構えていたのである。郷子の知らぬ流派だが、技は突きであろうと見当が付いた。郷子は両足を肩幅に開き両手をだらりと下げている。左手に三日月剣を持っているが右手は素手であった。僅かに膝を曲げて腰を落としているようだが、注意して見なければ棒立ちに突っ立っているようにしか見えない。変化掌は構えるという事をしない。構えは次の動きを予測させるからである。また、多数の敵を相手にする時には、視線の焦点を合わせないようにする。こうすると一点に対する集中度は落ちるが、視野全体が良く見えるようになるのだ。多数を同時に相手にするには一人一人を見るよりも、全体の動きの流れ、うねりのような、あるいは音曲の拍子のごとき物を知る事が重要なのであった。刀を構えた侍たちに囲まれて、郷子は目の焦点の合わない、ぼんやりしたようにも見える顔で、無防備に立ち尽くしているように見えた。郷子の予想した通り、正面の侍は強く踏み込みながら突いて来た。やや低い位置からの突きで上半身は隙だらけだったが、突きの速さと重さはそれを補って余りあった。しかし郷子も突きと同じ速さで後ろに跳び下がっていた。侍の身体が伸び切った所で郷子は切っ先を右に躱し、何を思ったか刀身をひょいと掴んだ。
「馬鹿め」
侍は呟くように言いながら、突いたのと同じ鋭さで刀を引いた。刀を掴んだ郷子の指はこれで落ちるだろう。そこへ再び胸を狙ってもう一突きする積りだった。しかし郷子は刀を握ったまま、刀が戻るのと同じ速さで一緒に付いて来た。あっと思う間もなく、郷子は侍の懐に飛び込んでいた。刀を放した郷子の右手は薄皮一枚切れてはいなかった。その掌底が侍の顎を打った。子供のように小さな郷子がさして力を入れたようにも見えなかったが侍は後ろに弾け飛んだ。足を跳ね上げるようにして仰け反らせた後頭部から地面に落ちたが、身体が宙にある内に死んでいた。
映美が相手にしているのは鎖鎌を持った小柄な侍だった。本来、鎖鎌はこのような狭い場所での乱戦に使用する物ではなかったが、その侍の技は巧みだった。仲間の侍に映美の周囲を囲ませて逃げ場をなくしておき、映美の眉間を狙って鎖の先の分銅を宙に走らせた。身を躱せば取り囲んだ侍に隙を見せる事になるので、映美は刀でその分銅を払った。すると鎖は蛇のようにくるくると映美の刀に巻き付いた。小柄な侍はにやりと笑った。勝ったと思ったのであろう。如何に映美の剣術が優れていても刀の動きを封じられては闘う事はできない。侍はできる事なら刀を絡め取ってしまおうと鎖を引こうとした。
侍には何が起こったか判らなかった。太い木の枝が折れるような、ばしっという大きな音がして目の前に青白い火花が飛ぶのが見えた。左右の腕から肩にかけて、鉄棒で打ち据えられたような衝撃を感じて弾き飛ばされ仰向けに転がってしまった。見ると、両腕が自分の意思とは関係なく、釣り上げられた魚のように地面の上でばたばたと跳ね回り、のたうっていた。鎖鎌は放り出してしまっている。侍は雷精の何たるかを知らなかった。鎖鎌の鎖は鉄でできており、鉄は電気を良く通した。侍の両腕は映美の放った電流に感電して痙攣していたのである。
鎖鎌を絡め取ったのは映美の方だった。最も得意とするのは剣術だが映美は武芸百般に優れ、鎖鎌もお手の物だった。映美は刀を口に咥えると左手に鎌を持ち、右手で分銅を飛ばした。分銅は映美の左から斬り掛かろうとした侍の眉間にめり込んで、ぎゃっと悲鳴を上げさせた。それを引き抜く勢いを利用してそのまま右に振り、別の侍の首に絡み付かせると鎖を放し、そのまま連続した動作でくるりと後ろを振り向き、背後を衝こうとしたもう一人の敵の首に鎌を叩き込んでいる。敵の首に突き刺したまま鎌も放して再び刀を取ると、漸く首に絡んだ鎖を緩めてぜいぜいと息をしている侍の胸に刀を突き込んだ。
三人の忍者を押し包むようにして十人以上の侍が一斉に斬り掛かった。忍者たちの手から何かが飛んで侍たちの身体に当って砕け散り、白い粉を撒き散らした。侍たちは白い粉煙に包み込まれると両手で顔を覆って呻き声を上げた。投げられたのは鶏卵の殻に詰め込まれた目潰しである。唐辛子と研磨剤を混ぜて灰よりも細かい粉に挽いた物だった。侍たちはある者は涙を流し咳き込みながら情けない泣き声をあげ、ある者は硬く閉じた両目から涙を流しながら出鱈目に刀を振り回して仲間を傷付けた。取り囲んだ侍たちを三人の忍者は易々と斬り伏せた。郷子は戦いながら視界の端にその様子を捕え、目潰しか、覚えておこう、と思った。この忍者たちとは一時的に手を結んでいるが、彼らの主君江泰晴も鬼界衆の力を狙っている。いずれ闘う時が来るかも知れなかった。
全ての敵を倒さない内に新手の一群がやって来た。映美は焦った。早くしないと子供が連れ去られてしまう。目尻を吊り上げ、食い縛った歯の間から押し出すようにして言う。
「おらがぶどばすで(ぶっ飛ばして)くれる!」
それを聞いて郷子が慌てた声を出す。
「待って! こんな所でえみちゃんの術を使ったら穴が崩れて生き埋めになっちゃうわ。ここは私にやらせて」
映美は頷いて一間ばかり下がり、手で制して忍者たちも下がらせた。郷子は懐から十枚ばかりの握三日月剣を取り出して頭上に放り上げると同時にくるりと身体を一回転させた。すると、ぶんっと唸りをあげて三日月剣は郷子の周囲の空中を回り始めた。速すぎて人間の目には留まらない。ただ風を切るびゅんびゅんという音と、剣が時折光を反射して、川の中の魚が時たま腹を見せて銀色に光るように、きらり、きらりと光る事でそれが判った。目に見えない糸で繋がれた剣がぐるぐると振り回されているように見えた。ただし、郷子は振り回すようなしぐさをする訳ではなく、もちろん実際に糸があるわけでもなく、剣は勝手に郷子の周囲を飛び回っていた。この時代の人間に天文学の知識があれば、それはまるで郷子を中心の太陽として、その周りを数多くの惑星が巡っているようだと思っただろう。郷子が呟く。
「鬼界忍法自翔剣、輪舞」
握三日月剣が旋回する遠心力で遠くに飛び離れようとする力と、それを引き戻そうとする郷子の鋼招力が吊り合って、剣は飛び去りもせず郷子の手に戻りもせずに安定した軌道を描いて回り続けているのだった。郷子は沢山の小さな刃物を周囲に飛び巡らせたまま新手の敵に向かって走り出した。すぐに敵の血飛沫と絶叫があがり始める。映美が郷子を追った。忍者たちは郷子の忍術の凄まじさに一瞬呆然としたが、すぐに気を取り直して、郷子の後ろに開けた道へと走り出した。
六 鬼界忍法灼熱陣
郷子が切り開いた道を映美と三人の忍者は左右に生き残った者を斬り捨てながら走った。突き当たりの左に侍たちが出て来たと思われる扉があった。郷子が立ち止まると同時に宙を巡っていた握三日月剣は次々に郷子の手に戻った。郷子が無造作に蹴ると扉は二つに割れて弾け飛んだ。追って来る侍はいなくなっていた。扉の向こうは二十畳もありそうな広い土間で四方も土壁である。中央に大人一人を横たわらせても充分余裕がある大きな卓があり、壁の前に幾つか茶箪笥のような物入れがあった。部屋の隅に木格子で囲んだ三畳ほどの牢があった。その中にいるはずの子供の姿がなく扉が開け放たれている。奥の方で文哲が天井から下がった三本の紐を次々に引いていた。その足下に後ろ手に縛られた六歳くらいの男の子が土に座っており、縛った紐の端を文哲が踏み付けている。どのような仕掛けになっているのか文哲の横の壁の一部が四角く開き、その向こうにぽっかりと暗い空洞が現れた。文哲は子供を腋に抱えるとその中へ飛び込んだ。郷子が握三日月剣を投げたが閉じた扉に跳ね返された。五人は土間に入り壁の仕掛け扉を押したり引いたりしたがびくともしなかった。天井から下がった三本の紐を正しい順番で引くと扉が開くのであろうと見当を付け、忍者の一人が出鱈目に紐を引いた。
轟音を発して天井が落ちた。分厚い漆喰の天井が牢の木格子も大きな卓も押し潰し、土の床に当って割れた。床は崩れた漆喰の瓦礫で埋め尽くされ、もうもうと土埃を立てている。文哲が消えた仕掛け扉が開き、中から子供を抱えた文哲が出て来た。埃の向こうを透かし見ると、そこに立っているのは映美と二人の忍者だけで、もう一人の忍者と郷子の姿はない。瓦礫の下から流れ出した血が文哲の足下に流れて来た。文哲は腰の刀を抜くと子供の首に当てた。連日、鞭で脅されて鬼界衆の力を実演させられていた子供は疲れ切った顔でぐったりしていたが、刀を当てられると微かに怯えた顔をした。
映美の横に立っていた忍者が軽く握った右手を口に当てた。握った物を口に咥えるような動きだった。映美の刀が一閃してその忍者は首の横から血を迸らせて倒れた。一人残った忍者の頭が映美に叫ぶ。
「何をする」
「ほれは、こっぢの台詞だじえ」
映美は切っ先で倒れた忍者の右手の中にある物を指し示した。短い筒だった。吹き矢である。おそらく矢に毒が塗ってあるのだろうが、こんな物で文哲を倒せる訳がなかった。狙ったのは子供の方だ。鬼界衆が敵の手に落ちるくらいなら殺してしまえと江泰晴に命じられていたのに決まっていた。忍者の頭は、くっと喉を鳴らして横を向いた。文哲は仲間割れをにやにや笑いながら見ていた。
「良し、裏鬼界、その残った忍びも斬れ。そうすれば子供の命は助けてやる」
映美は黙って文哲の顔を見詰めた。能面のように表情がない。そうしてぴくりとも動かない。
「どうした。俺の言う事が信用できぬか。嘘ではないぞ。大切な研究材料だからな。簡単に殺しはせぬ。ただし、お前が素直に言う事を聞かぬとこの子供は痛い目にあって泣き叫ぶ事になる」
しかし映美はそれでも動かない。文哲がけげんな顔になる。どうしたのだ。鬼界衆は子供を可愛がり、傷付けられると正気を失うというではないか。なぜこの女は眉一つ動かさない。この子共も妙だ。刀を見た時に見せた怯えがなくなっている。あの女と鬼神通で何事かを話し合ったのか。だとすればそれは何だ。文哲は不安に駆られて周囲を見回した。突然、文哲の体は引き付けを起こしたように硬直し、びくり、びくりと痙攣した。文哲の体は自分の思うように動かなくなってしまっていた。手足に紐を付けられ、ばらばらに引っ張られているような感じだった。何が起こったのかは判らない。しかし、鬼界衆に忍術を掛けられたらしい事だけは判る。映美が瓦礫を飛び越えて来て、文哲の手から刀をもぎ取った。続いて子供も奪い取ろうとする。
文哲は自分の死を悟り、最後に一矢報いようとした。自由にならぬ身体をねじ伏せるようにして抱えていた子供を放り投げたのである。子供の身体は天井近くまで投げ上げられ、放物線を描いて落下した。床は今落ちたばかりの漆喰の破片が尖った割れ角を上に向けて散らばっている。頭や背骨を打てば命に関る怪我をする。そして子供は疲労している上に後ろ手に縛られて受け身をとる事もままならない。映美は跳躍すると空中で身体を横にして子供を受け止め、子供を庇い抱き抱えて背中から瓦礫の上に落ちた。子供の体重も掛かって破片の角で背骨を打ち、呼吸ができなくなり、苦痛に目を見開きながら空気を求めて口をぱくぱくさせた。
「お姉ちゃん! 大丈夫? 大丈夫?」
映美の腕の中で子供は身を案じたが後ろ手に縛られていては何もしてやる事はできない。この時、文哲は既に床に倒れている。忍者の頭が文哲の顔を覗き込むと、その目は白く濁りうっすらと湯気を立てていた。頭は呟く。
「これは……噂に聞く鬼界忍法灼熱陣」
数人で協力して行う鬼界衆独特の暗殺方法である。殺そうとする人間の周囲を密かに取り囲み、指向性の高い極超短波電波(マイクロ波)を一斉に放射して、電子レンジの原理で焦点にいる人間の脳や内臓を焼いて殺す。マイクロ波は透過性が高いので金属でなければ木材や石などの遮蔽物の陰からも放射できる点が特徴である。鬼界衆の発する電波はかなり指向性を高く絞り込む事が可能だが、完全に平行にはならないので、複数の者がある程度対象に近付く必要があり、この時に気付かれると失敗する可能性が高い。マイクロ波は金属を透過しないので、灼熱陣から身を守るには金属箔などで身体を覆えば良い。鬼界衆を怖れる者は金属箔を貼った帳や屏風で周囲を囲って寝る。普通、灼熱陣は最低四人の鬼界衆が必要だが、映美の鬼神通は並外れて強かった。文哲は脳を煮られて死んだのだ。
忍者の頭は振り返って映美を見た。まだ子供を胸に抱いたままのたうっていた。今なら映美を殺して子供を奪う事ができる。頭は刀を抜いて一歩映美に近付いた。瓦礫の中から小さな手が伸びて、刀を握った頭の手首を掴んだ。がらがらと瓦礫を掻き分けて赤い着物を着た小さな女が立ち上がった。郷子は天井が落ちる瞬間、とっさに卓の下に飛び込んでおり、押し潰された卓と漆喰の瓦礫が作る隙間にその小さな身体を挟むようにして助かったのだった。文哲を殺した灼熱陣には郷子も力を貸していたのである。郷子は頭を睨んだ。
「何をする積もり」
「子供の縄を切ってやろうと思ってな」
頭はぬけぬけと言った。郷子は「そう」と言って手を放したが信じていないのは明らかだった。郷子が助け起こすと映美は漸く息ができるようになり、深い呼吸を何度も繰り返した。子供が力のない声で言う。
「お姉ちゃんたち、助けてくれてありがとう」
「まだよ」郷子がぴしゃりと言った。「ここから無事に逃げ出さなくちゃ」
映美は文哲から刀を鞘ごと奪った。戦いの末に映美の刀は血と肉の脂に塗れて切れ味を落とし、何度も刃を合わせたために刃こぼれし、反りも変わって鞘に収まらなくなっていた。
地下への出入り口である井戸の周辺は百人を超える侍たちで取り囲まれていた。取り囲むと言っても前述した通り城内は大軍に攻め込まれぬよう複雑に仕切られているので、井戸から敵が現れてすぐに飛びかかれるのは十人ほどだ。侍たちには地下で何が起きているのか知る事はできない。まさか侍大将の文哲が敗れるとは思えなかったが、裏鬼界の手強さは噂に聞いている。井戸から現れるのは敵か味方か。侍たちは固唾を呑んで見守っていた。はたして井戸の底の闇の中から梯子を上って来たのは文哲だった。覗き込んでいた侍たちは破顔して背後の仲間たちに叫ぶ。
「我等が大将じゃ。敵は討ち果たしたと見える」
それを聞いた周囲の侍たちから歓声が上がった。井戸の淵に居た侍たちは安心したため、文哲の瞳が奇妙に濁っている事にも、文哲が自力で上っているのではなく下から押し上げられている事も気付かなかった。と、突然、侍たちの頭上から明りが射した。夜明けにはまだ早い。一斉に振り仰ぐと、天守の窓から炎が吹き出していた。しまった、別の敵が侵入したかと侍たちは算を乱し、本丸へ向かって駆け出そうとしたその背中を井戸の中から飛来した握三日月剣が襲った。映美は紐で男の子を背負い、郷子と二人で文哲の死体を抱え上げながらにやりと笑った。
「鬼界忍法不知火」
映美はそう呟くように言ったが、これは忍法と呼ぶほどの物ではない。導火線として線香を使った時限式の発火装置である。油壷の内側に線香が留めてあり、線香が短くなると油に触れて引火するだけの物である。壺は蝋で作られているので炎で溶けて油は流れ出し火はたちまち燃え広がる。
映美と郷子、忍者の頭が次々と井戸から飛び出し、本丸へ向かおうとする侍たちに襲い掛かる。背後を衝かれてうろたえ、実際には存在しない本丸の敵と挟み撃ちにされる事を怖れ、数で圧倒しているにもかかわらず侍たちは恐慌に陥って逃げ惑った。映美たちは目の前に現れる敵を次々に斬り伏せながら城門へと走った。背後では重職らしい武将が大声を出して混乱した侍たちを叱咤し、体勢を立て直そうとする声が聞こえて来る。映美たちは門を走り出たが、敵は流石に訓練された軍隊である。既に混乱から抜け出し、隊列を組んで映美たちを追う体勢に入ったようだった。
実は、忍びにとってはこれからが危険なのである。複雑な地形で姿を隠しながら闘うのは忍者の得意とする所だ。だから裏鬼界と江配下の忍者たちは、大勢の敵に攻め込まれないように工夫された城の構造を逆手に取って多数の敵と戦う事ができた。しかし、開けた場所で正面から戦うのは不得手だ。忍びは奇襲は得意だが正面切って戦う事が苦手なのだ。城を出てからが危険なのだった。忍びたちが門を駆け出ると、そこから三方に分かれた道の前方からも左手からも寄せ手の気配がする。右からは馬の蹄の音。映美たちだけなら如何様にも身を隠す事ができるが、今は弱った子供を背負っている。負担を掛けるような荒っぽい動きはできない。映美たちは進退極まった。逸早く駆け付けて来る馬の音の方に向いて構える。と、馬上から聞き覚えのある声がした。
「馬を用意しました」
この場にそぐわない緊張感のない笑顔で新之輔が言った。自分が乗っている他にもう一頭の馬の手綱を引いていた。その一頭に子供を背負った映美が飛び乗る。新之輔は郷子を鞍の後ろに跨がらせる積りだったが、郷子は強引に新之輔介の懐に入り込み、自分が手綱を取って新之輔を尻で鞍の後ろに押し出した。
「しっかり掴まっていなさい」
と新之輔に言うと鐙に届かない足で馬の腹を蹴り、映美と馬を並べて走り出した。これで鬼界衆は逃げ果せると判断したのか、忍者の頭は姿を消している。走りながら郷子が新之輔に言う。
「気が利くじゃないの」
「鬼界衆には二両稼がせて貰いましたからね」
七 鬼界忍法竜昇鬼
城下町を抜け、昼間映美と郷子が芸をした河原に出て、新之輔が、どうやら振り切ったようですね、と言おうとした時、空から何かが落ちて来て、新之輔たちの乗った馬の鼻先を掠め地面に突き刺さった。驚いた馬が棹立ちになり、振り落とされまいと郷子にしがみ付いた新之輔の両手は郷子の両の乳房を掴んでいる。必死になりながらも、背は低いのにおっぱいは大きいな、などと頭の何処かで不埒な事を思う。空からは短い槍のような物が次々に降って来る。映美の剣がそれを空中で斬り払った。四人が空を見上げると巨大な鳥が舞っていた。翼は黒いが月が明るいので目を凝らせば間違いなく見る事ができる。鳥ではない。竹の枠に布を張った三角形の巨大な凧のような物だった。左右の長さは三丈(約九メートル)もあろうか。映美たちの頭上八丈(約二十四メートル)ほどの高さをゆっくりと旋回していた。翼の左右前方で二つの風車のような物が回っていた。風車は風を受けて回転する物だが、それは逆に回転する事で前から後ろへと風を起こし、その力で凧を前に進めているらしかった。中央に吊り下げられるようにして忍者装束の人の姿があった。そいつが映美たちを狙って槍を投げ落としているのだった。その忍者は足下に取り付けられた踏み板を交互に踏んでいた。組み合わされた歯車が、その力を風車に伝えて回しているのである。
「わははははは。驚いたか裏鬼界。これぞ葉州忍法天人鳥じゃ。恐れ入ったか」
小さな槍は月夜とは言え夜には見えにくかったが、映美と郷子の鬼神眼にははっきりと映っており、空中で叩き落とすのに難はなかった。しかし、敵は馬の鼻先を狙って来るので馬が怯え、後ずさりして先へ進めなくなった。凧から槍とは別の物が落とされた。紙で作った傘のような物の下に眩い光を発しながら燃える硝子灯(ランプ)が吊り下げられた物だ。紙の傘は空気を孕んでゆっくりと落ちて来た。仲間にこの場所を教える合図に違いなかった。凧の忍者の目的は映美たちを倒す事ではなく、この場に足留めする事だったのである。映美と郷子が馬を降りると慌てて新之輔も倣った。映美が背負っていた子供を新之輔に預ける。
「ちんど見ででけろ(すこし見ていてくれ)。泣がしゃねようにの」
地面に立った子供の手を新之輔が握ると子供は不安そうな顔をした。鬼界衆ではないのが判るのだろう。映美と郷子は二間(約三六四センチ)ほど離れて立った。凧の忍者は一本また一本と槍を投げ続けているが、映美と郷子はまるで無視するように動いた。新之輔は空から来る物に怯えている。新之輔には小さな槍は良く見えず、叩き落とす技もなかった。連れている子供が新之輔の手を引いた。強い力ではなかったが、予想していなかったので新之輔はよろけて一歩右へ動いた。新之輔の肩を掠めて槍が地面に突き刺さった。子供とはいえ鬼界衆で、鬼神眼で落ちて来る槍が見えるらしかった。新之輔は屈み込んで子供の後ろに隠れるようにした。どっちが守られているのか判らない。
映美は両足を肩幅に開いて立ち、軽く膝を曲げて腰を下げ、両手の指を股間の前で組んで待った。郷子が駆け寄って足が映美の手に掛かった瞬間、映美は郷子を空中高く放り上げた。凧の忍者はにやにや笑いながらこれを見ていた。どうあがこうと人間の力で手の届く高さではないと高を括っていた。しかし二人は人間ではなく鬼界衆であった。忍者の目が驚愕に見開かれた。郷子の小さな身体は空を切る唸りを上げながら、人の力では決してあり得ない速度で駆け昇って来たのである。凧の忍者は逃れようと必死で踏み板を漕ぎ始めた。新之輔はまだ子供の背後に隠れるようにしながら、ぽかんとした顔で夜空へ上昇して行く郷子を見上げていた。映美が新之輔に頷き掛けた。
「鬼界忍法竜昇鬼(りゅうしょうき)」
映美が郷子を投げ上げると同時に映美と郷子は二人で反発し合う磁気を作り出し、その力を加えて郷子は舞い上がったのである。映美が片瀬城の天守へ忍び込んだのもこの術であった。しかし、磁力は距離の二乗に反比例して弱くなる。上昇するにつれて郷子の身体は徐々に速度を落としていった。どうやら凧に手が届く前に失速しそうだと知ると、凧の忍者はおどけた顔でぎょろ目を剥いて舌を出し、近付いて来る郷子を嘲った。忍者の予想通り、郷子は凧よりも少し手前で上昇を止めた。郷子は上昇の頂点で懐から取り出した握三日月剣を立て続けに投げた。凧に張られた布が切り裂かれた。今度は郷子がおどけた顔で舌を出す番だった。凧は木の葉のように舞い、悲鳴を上げて墜落して行った。加速しながら落ちて来る郷子の身体を映美と郷子の作り出した磁気が再び下から押し上げて速度を緩め、映美が郷子をふわりと受け止めた。映美はそのまま抱き締めて郷子の頬に接吻した。郷子はくすぐったそうに身をすくめる。その直後、凧が川の真ん中に落ちて大きな水音を立てた。
八 鬼界忍法鬼雷砲
映美たちが再び走り出すため馬を落ち着かせていると、近付いて来る蹄の音が聞こえて来た。一頭や二頭ではない。四人が土手を駆け上がると、四十騎ほどの騎馬武者が土を蹴立て地響きをたててやって来る所だった。先頭を走る金の縫い取りをした黒い陣羽織の武将は領主趙仁徳に違いなかった。矢が一本映美の足下に突き刺さった。映美の顔が怒りに歪んだ。
「まんだ、わらすご(子供)いじめ足りねえだが!」
この時、新之輔に映美の身体がぼうと光ったように見えたのは錯覚ではない。映美の衣服はぱちぱちと音を立て、時折その表面を青白い火花が走った。映美の下げ髪が幾筋か宙に浮き上がり揺らめいていた。雷精が溜め込まれているのだと新之輔は思った。獲霊起輝と同じだ。
「やばっ。えみちゃんあれを使う積りだわ。あなた、早く逃げなさい」
火花を飛ばしながら髪の毛を逆立てていく映美に見蕩れていた新之輔に、郷子が叱るように言った。
「逃げるって何処へ…」
「良いからえみちゃんから離れるのよ。とばっちり食うわよ。あれをまともに食らったら鬼界衆でもただでは済まないわ」
郷子はそれだけ言うと子供を背負って川の方へ駆けて行った。慌ててそれを追う新之輔の背後で強烈な青白い光が一瞬輝き、新之輔の目の前の地面にくっきりと自身の影を作った。新之輔が驚いて振り返ると耳を圧する轟音が鳴り響いて地面をびりびりと震わせた。それはまるで雷のような、いや、雷だったのである。あまりの音量に新之輔の耳は馬鹿になっている。ゆっくりと土手の上に戻ってみると、四十騎ほどの騎馬隊は馬も武士も全て地に倒れていた。中央の者は身体や服の一部に焼け焦げを作って湯気を立てていた。服の一部がちろちろと燃えている者もいた。人相も判らないほど黒焦げになった男が趙仁徳だと半分ほど燃えた陣羽織で判った。周辺部の者は文哲の最期のようにびくりびくりと身体を痙攣させている。殆どの者は死んでいるだろうと思われた。落馬の際に首を折っているのが判る明らかに死んだ者が、感電してばたばたと動いているのが新之輔には不気味だった。新之輔は映美が騎馬隊に向けて雷を発したのだと知った。その映美は土手の上に倒れて目を回していた。
「鬼界忍法鬼雷砲(きらいほう)。相変わらず物凄い威力だわ」
郷子はそう呟くと子供を新之輔に任せ、映美を背負って歩き出した。子供の手を引いているのか子供に手を引かれているのか判らない新之輔がその後を追う。新之輔が用意した馬は轟音に驚いて逃げ去っていた。新之輔はまだ耳の奥がつうんと鳴っている。映美はどうしたのだ、とは新之輔は聞かなかった。雷を発して雷精が底を突き、身動きがならなくなったのに決まっていた。
「鬼界衆はみんなあんな事ができるのですか」
と新之輔が聞くと郷子は首を左右に振った。
「鬼雷砲を使えるのは鬼界衆にも何人も居ないわ」
郷子は迷いなく森の中に入って行った。自分よりもずっと背の高い映美を背負っていながら、郷子の足取りは速い。新之輔は学者だったが書院に篭る型ではなく、歩き回って調べ物をする方だったので足腰は強かったが、昼間でも暗い森の中である。見上げても月は葉陰にちらちらと見え隠れするだけで、新之輔には足下はおろか自分の鼻先を見るのもままならない。鬼界衆の子供、弥介に手を引かれてよたよたと歩いた。一刻(約二時間)も歩いただろうか。森が少し開けた所に出ると目の前に小さな破れ寺が月光に照らされていた。寺の背後に森の木々よりも高く聳える物見櫓のような物が建っていた。この世界の宗教は基本的に万物に神や霊が宿る汎神論で、世界宗教と呼べる物はなく、体系化もされていない。土地毎にその土地の神を祭る寺社がある。異なる宗派が一つの土地に混在している事もしばしばだが、その関係は微妙で常に他宗派に対して寛容という訳ではなく宗教間の争いも珍しくはない。寺の前で腰の曲った干し魚のように干からびた老人が立って、にこにこ笑いながら郷子に手を振っていた。歯の一本もない口を開いてふにゃふにゃと言う。
「お帰り。首尾良く子供を取り返したの。布団は奥に敷いてあるよ」
郷子は頷く。
「じさま、えみちゃんが鬼雷砲を使ったの。汗だくだから身体を拭いてあげたいわ。お水を用意してちょうだい」
「それも用意してある」
鬼界衆の体内で合成される有機電導物質は体温で電気抵抗零の超伝導を顕し、電流を流しても熱を発する事はないが、大量の電気を使えば発電、蓄電の器官が高温を発する。鬼雷砲を使った映美は体温が上昇して発汗していたのだ。寺に入る郷子を追おうとして新之輔は立ち止まる。
「僕も上がらせて貰って良いのでしょうか」
振り返らずに郷子が言う。
「あまり人間は入れないのだけど助けて貰ったから特別よ。御城下に戻って鬼界衆に味方したのがばれたら危険でしょう。好きなだけ泊まって行って」
「ありがとうございます」
奥の部屋に入ると郷子は映美を布団に横たえた。後に続こうとした新之輔と弥介の前で襖がぴしゃりと閉った。
「えみちゃんの身体を拭くから覗いちゃ駄目よ」
新之輔と弥介は顔を見合わせた。弥介が妙に大人びた、好色そうな笑い顔になる。新之輔もにやにや笑って弥介の脇腹を親指で突いた。新之輔は床に座って柱にもたれ、襖越しに郷子と話す。
「あのお爺さんも鬼界衆ですね」
「どうして判るの」
「寺の前で待っていたのは鬼神通で知らせたからでしょう」
「そうよ」
「裏に建っている櫓は何ですか」
「物見よ」
「周囲は全部森なのに? 何を見張るのです」
郷子がくすりと笑う。
「本当は物見に見せかけた鬼神塔」
「鬼神塔?」
「あれを使うと鬼神通が遠くまで伝わるの。遠眼鏡みたいな物ね」
鬼神塔、アンテナである。
「鬼神塔を使うとどれくらいまで届くのです。使わない時はどれくらいですか」
「それは人間には教えない事になっているの」
そう言われても新之輔は不服そうな顔をする訳でもない。
「鬼神塔はどれくらいの数があるのですか」
「私も良く知らないわ。大陸全体で千もないのじゃないかしら」
「それで大陸の端から端まで通じるのですか」
「ごめんなさい。それも教えられないの」
「この場所を僕に教えて良かったんですか」
「鬼神塔は作るのも壊すのも簡単でよく移動させるから場所は教えてもかまわないわ」
「鬼界衆は何時でも遠く離れた人と話し合う事ができるのですね」
「私たちは人間みたいに寄り集まって暮すのが好きじゃないの。何て言うか、武士も百姓も町人も、人が集まって暮すにはいろいろな決まり事が必要になるでしょう。そういうのが苦手なのよ。一人かせいぜい四五人で気侭に暮すのが好きなの。一つ所に留まって暮すのも苦手で、たいていみんな旅暮らしをしているわ。船で暮す者も多いわね。私たちは人間よりもずっと数が少なくて、それが大陸全体に広がっているから出会う事も滅多にないのだけれど、少しも寂しくないのよ。その気になれば何時でも話ができるのだもの」
「鬼界衆にはもう一つの世界があるみたいだ。僕たち人間には行く事ができないけれど、鬼界衆には自由に出入りできる世界が」
そう新之輔が言うと弥介が頷いた。
「そうだよ。そこが鬼界だよ」
「弥介っ」
郷子が厳しい声を出した。弥介がおろおろした声を出す。
「ごめん。ごめんよお姉ちゃん」
新之輔が微笑んだ。
「それも人間には教えてはいけなかったんですね。大丈夫ですよ。誰にも言いませんから。と言っても信用して貰えないかも知れませんけど」
郷子も襖の向こうで穏やかな声を出す。
「良いわ。聞いてしまった物は仕方がない。そこが、鬼界こそが私たちの本当の古里なの」
郷子が襖を開くと映美は浴衣に着替えて寝息を立てていた。
幾つかの集落や寺院など拠点となる場所はあるが、鬼界衆は基本的に定住をしない。海や山で狩猟採集生活をする他、都市部で旅芸人、職人、占い霊媒などの巫術者等々として漂泊の生活を送る。これは、成長老化が遅い事を人間に気付かれないためでもあるが、生来漂泊を好む性質があるのである。また、鬼界衆の多くは孤独を好み、大勢で徒党を組む事は少なく、一人から数人程度で旅をしながら暮している事が多い。この性質はおそらく、鬼界衆の発生成長期に必要な物質、鬼精が一ヵ所に集中して存在せず、広く希薄に存在するため、定住したり集団化するとその物質をたちまち使い果たして不足するので、自然と身に付いた物であろう。旅暮しのためか蓄財しようという欲望が希薄で、持ち運べる以上の物を私有しようとはしない傾向がある。彼らは電波によって相互に結び合っており、言わば一人一人が放送局となって世界中を情報通信網で繋いでいる。鬼界衆は国を持たないが、この通信網その物が彼らの領土であるとも言える。コンピュータの代わりに脳を繋いだインターネットのような物である。この人間の目には見えない情報空間を鬼界と呼ぶのであった。
郷子たちはじさまの温めてくれた芋と豆の煮物を食べて寝た。翌日は、郷子は弓を持って狩に出かけ、新之輔は弥介に字を教えてすごした。じさまは一日鬼神塔の下に座っていた。新之輔にはただ座ってうとうとしているようにしか見えなかったが、実はじさまは鬼神塔で受信した鬼神通を増幅して再び発信する中継をしているのであった。鬼神塔の運営管理者は主に足腰が弱って漂泊生活を送る事ができなくなった、じさまのような老人や障害者である。映美はあれから一度も目を覚まさずにこんこんと眠り続けた。日が傾く頃、郷子が自分の三倍以上も体重のある雄の鹿を仕留め、橇に乗せて牽いて返って来た。鹿の内蔵の鍋が煮える頃、映美は漸く起き出し、鍋が湯気を立てている囲炉裏端までは這うようにして来たが、椀を手に取ると物も言わずに掻き込み始め、新之輔と弥介が呆れてぽかんと見ている内に鍋を空にすると再び寝床に潜り込んだ。
「凄い食欲ですね」
郷子が笑って頷いた。
「鬼雷砲の後は何時もこんな風なのよ。私の雷精を少し分けてあげたのだけど、元に戻るまで後一日は掛かると思うわ。あなたたちの食べる物がなくなっちゃったわね。じさま、何かない」
じさまも笑いながら曲った腰をゆっくりと上げる。
「芋でも蒸して来ようかの。干してある肉も焼こうか」
芋が蒸し上がるのを待つ間に新之輔が言う。
「弥介さんは良く字を知っているので驚きました」
郷子が笑って聞く。
「弥介は幾つだと思う」
「五つか六つ、七つにはならないでしょう」
「十一よ」
「えっ」
新之輔は目を丸くして郷子の隣に座っている弥介を見た。弥介は笑って新之輔を見返している。
「そうか。鬼界衆は育つのが遅い…。それにしても、自分の名前も書けない大人も珍しくないのに、漢字もずいぶん知っていましたよ。誰が教えるのですか」
漢字、すなわち表意文字である。この世界の言語は基本的に一つである。大陸は広く、特に西の原と東の原は中の大山地に遮られて交通が困難なので、かなりの言語的変異、極端な方言があり、離れた土地の者同士は意思の相通が不可能な事もしばしばだが、文法や語彙が全く隔絶した独立の言語という物はない。文字も同様で、土地によって様々な変化があるが基本的には表音文字である仮名と表意文字である漢字が混在した文字体系を使用している。
「鬼神通では言葉だけじゃなくて見た物も送り合えるから自然に文字も覚えちゃうのよ」
「鬼神通なら遠くにいる人と話ができるから、判らない事はすぐに誰かに教えて貰えるのですね。常に師匠が傍に居るような物だ。学問をするのには理想的ですね」そう言ってから新之輔ははっとした顔になった。「そうだとしたら、鬼界衆は全ての知識を、記憶を共有しているのと同じだ。そうなんですか」
郷子は黙って頷いた。新之輔は呆然としている。
「何て事だ。鬼界衆は全く学ぶ事なくあらゆる知識を身に着けているという事じゃないか」
雷精を操る能力だけではなく知能の面でも人間は敵わない。新之輔がそう感じて衝撃を受けているのを察して郷子は慰めるように言う。
「でも、物を知っているだけではそれを上手に役立てる事はできないでしょう。竹が良くしなるのを知っていても、それだけでは弓矢を思い付かないもの」
「しかし、一度思い付いてしまえば瞬く間に鬼界衆に共有の物となる」
「まあそうね」
「そして、何か工夫が必要な時には出掛ける事なく大勢の人に相談する事ができる」
郷子は黙って頷いた。じさまが湯気の立つ芋を蒸篭のまま持って来た。
「鬼界衆は皆知識豊かで知恵深いのでしょうねえ」
新之輔が嘆息するように言った。郷子が芋を一つ箸で突いて皮を剥きながら言う。
「そうでもないわ。賢い者も沢山いるけれど、鬼界衆にも愚かな者もいるし、知恵遅れも生まれて来る。……でも、そうね。全体としては人間よりも教養があるでしょうね」
郷子は控えめに言ったが、誇らしげに鼻がうごめいてしまうのは仕方がなかった。
「鬼界衆の間に争い事はないのですか」
「だって、そもそも出会う事が余りないから。旅暮しで物を持たないから奪い合いもないし、人のやる事に口を出す習慣がないのよ」
「他人を支配しようとして領土を奪い合い、戦を繰り返している人間とはえらい違いだ。人間に伝えられている凶暴だという風評とはずいぶん違いますね」
「鬼界衆の正体が人間にばれるのは、子供をいじめられて怒りに我を忘れちゃった時が多いから」
「仲間同士で食らい合うというのは本当ですか」
「殺して食べる事はしないけど、お腹に胎児(やや)のいる女の人は仲間の死体を食べるわ。必要な栄養を取るためでしょうね。鬼界衆は子供が育ちにくいから。それが」郷子はちょっと言いにくそうな口調になった。「生で食べたがるのよ。若い女の人が血塗れになって死体に食らい付いているのを見ると、私たちでもやっぱりちょっと凄い感じはするけど」
「噂とはずいぶん違いますね。どうしてもっと本当の姿を知って貰おうとしないのですか」
郷子は新之輔の目を覗き込むようにした。
「訴えれば信じてくれると思う?」
新之輔は苦笑して首を左右に振った。人間は傲慢な生き物だった。自分より優れて美しい種族の存在を認めようとはしないに決まっていた。新之輔がぽつりと呟く。
「僕も鬼界衆に生まれたかった」
郷子は芋を齧りながら眉をひそめた。
「岩崎様は人間が嫌いなの?」
新之輔は黙って頷いた。
翌日になると映美も何とか歩けるようになり、郷子が狩をする間、映美は筍と山菜を取って来た。相変わらず新之輔と弥介は寺で一緒にすごしたが、この日は字を教えるのではなく、新之輔がさまざまな事を質問し、弥介が鬼界を通じてその答を捜し出して応えるという事を繰り返した。弥介は新之輔に奇妙に懐いた。次の朝には映美はほぼ回復し、朝食後は映美は剣術の、郷子は武術の型を練習し、その後は歌舞音曲、曲芸などの稽古をした。この時代は一日二食が一般的だが、映美と郷子は間食として芋や豆、雑穀飯の湯漬けあるいは麺類などを取った。
昼近く、じさまの打った蕎麦を食べ終わる頃、一組の鬼界衆の夫婦が寺を訪ねて来て弥介を引き取って行った。子供を流産したばかりだという。弥介の実の親は弥介を捕える時に殺されていた。大人の鬼界衆は小雷、電撃の力が強く知恵も働いて扱いにくいので子供だけがさらわれる事が多いのだ。殺された鬼界衆は多くの場合腑分け、解剖に処せられる。裏鬼界が助け出した子供は鬼界の通信網を通じて里親が選ばれ、このように引き取られて行く。別れの時、弥介は新之輔の手を握って泣いた。新之輔は弥介の頭に空いた手を置き「せっかく助けて貰ったのですから幸せにならなくてはいけません」と言った。弥介は涙を流しながら力強く三度頷いた。去って行く時、弥介は何度も新之輔を振り返ったが、新之輔の方は感傷の感じられないあっけらかんとした笑顔で見送った。映美は感心したような顔で新之輔を見た。
「鬼界衆はわらすご(子供)でも、人付き合いわりぐで(悪くて)、とぐ(特)に人間には、めっだに気ぇ許さねもんだげんど、おめ様はずえぶん気ぇに入らっだもんだの」
「同類だと思われたのでしょう。僕も子供みたいな物ですからね」
そう言って新之輔はさわやかに笑った。郷子が鬼神通で映美に言う。
「ちょっとあんた何赤くなってんのよ」
「案外、ええやろご(良い男)だの」
「また始まった」
三人の背後からじさまが、これは鬼神通ではなく声をかける。
「子供を送り出したばかりですまないが、映美と郷子に次の仕事が来ておるよ」
映美と郷子は振り返って頷いた。近来、人間の武将にさらわれる鬼界衆の子供は多く、裏鬼界の任務は絶える事がない。郷子が言う。
「場所は」
「十慶城(じゅうけいじょう)」
と、じさまが言うと郷子は目を細めた。
「江泰晴の支城ね」
片瀬城で共に戦った忍者たちが今度は敵となるのだ。しかし、映美にも郷子にも特別の感慨はない。昨日友だった者が翌日には、甚だしい場合には一瞬の後には敵となる。これが戦国の世の常なのだ。映美が頷いた。
「ちゃっちゃど(すぐに急いで)準備始める。十慶城までは三十里(約百二十キロ)以上あるの」
「馬を用意しようか」
とじさまが言うと郷子は首を左右に振った。
「山道を歩いて行くわ。荷を運ぶのに驢馬が欲しい」
驢馬は馬に比べて速度は劣るが性質が我慢強く、持久力もあって長距離を移動する場合、最終的には馬よりも早い。街道を行くなら手に入る所で次々と馬を換えて行く方が早いが、映美と郷子は森に身を隠して移動する積りである。なぜか新之輔がそわそわし始めた。
「それじゃあ、名残惜しいですけど、僕はこれでお別れしますね。いろいろ教えていただきありがとうございました。じさま、お世話になりました」
ぺこりと頭を下げて、そそくさと立ち去ろうとする新之輔の後ろ襟をじさまの枯れ枝のような指先がひょいと引っ掛けた。
「待ちや」
新之輔の額の横をたらりと一筋汗が流れ落ちた。
「何でしょう」
じさまは髑髏に縮緬を張り付けたような顔でにたにた笑っていた。
「十慶城は八年前に江泰晴に落とされるまでは、荻景連(おぎかげつら)の根城であったそうな。知っておろう」
新之輔はじさまに襟を掴まれたまま情けない顔で脂汗を滲ませている。
「何か、聞いた事があるような気がします」
「荻の時代、十慶城には腕の良い武具職人が居ってな、名を岩崎新座衛門といったそうな。お主と良う似た名じゃの」
「岩崎という姓は珍しくありませんから」
「東の原ではな。しかしここ西の原葉州では滅多にある名ではないぞ」
「そ、そうですね」
新之輔の顔は泣き笑いだ。
「岩崎新座衛門は妻と死に別れていたが、変わり者の息子が一人居った。戦にも家業にも興味がなく、鳥や虫や獣の事ばかり調べて暮らして居ったが、八年前に城が落ち、その時に新座衛門が死んでからは行方が知れないという」
「そんな事まで鬼界で判るのですか」
「その頃十慶城下に住んでいた鬼界衆がお主を見たそうだ。お主はその頃から子供に好かれる質であったようだの」
「もう忘れました」
郷子が新之輔の前に回った。
「岩崎様は八年前まで十慶城に住んで居たのね」
新之輔は諦めて頷いた。
「判りました。お城の作りを図面に描きますから、それで勘弁してください」
「あら、私たちと一緒に行って呉れないの。旅の間に城内の様子を詳しく教えて呉れると助かるのだけど。鬼界衆の事をもっと教えてあげるわよ。知りたいのでしょう」
「それはそうなのですが」
今度は映美が言う。
「別に城ん中さへで(入って)案内すろで、そう(言う)のではね。一緒に近ぐまで行でけろ」
映美と郷子は移動しながら話を聞く事で時間を節約したいのだ。
「だって旅は危険ですよ。真珠さんと珊瑚さんの顔は江の忍びに知れてるじゃないですか」
郷子が鬼神通で映美に言う。
「馬鹿じゃないわね」
映美が頷く。
「学者ださげの(だからね)」
映美は新之輔に腕を絡ませ顔を寄せた。
「だいじょぶだ。おらだぢが守でけるさげ(守ってあげるから)」
新之輔はそう言われても安心できなかった。確かに映美と郷子は強いらしいが、裏鬼界の目的は子供を救い出す事だ。新之輔か子供かどちらかを取らねばならなくなれば迷いなく子供を選ぶだろう。鬼界衆の子供への愛情は本能的な物で理屈ではない。しかし、新之輔に裏鬼界の目を盗んで逃げ出すなどという芸当ができる筈もなかった。
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