第3話

    第一章

    一 剣鬼、鬼崎映美

 真珠は墨を流したような闇の廊下を音もなく歩いていた。外は月夜だが、この廊下は全て窓が閉ざされており、殆ど光はない。しかし真珠は足音こそ消しているが探るようなしぐさも見せずに平然と進んだ。右へ曲る角に差しかかると故意に小さな音を立てた。足を止めずに歩きながらも、反応を確かめるように耳を澄ました。静寂に変わりはない。闇は動かず何の気配も聞こえなかった。にもかかわらず、真珠は角を曲った先にぴたりと身を吸い付けている者を悟っていた。

 鬼界衆は暗闇でも目が見える。普通、夜目が利く、というのは並の者には闇としか見えないほどの僅かな明りでも、ある程度物が見えるという意味で、全く光のない真の暗黒では夜行性の獣であっても物を見る事はできない。物を見るという事は物に当たった光の反射を瞳に受けて刺激とする事だからである。しかし鬼界衆は真の暗黒であっても物が見える。そればかりか眼球を失っても物が見える。正確に言えば「見える」のではない。視覚とは異なる知覚である。鬼神通、電波を発してその反射波を捕え、物の位置や形状を知るのである。すなわち電波探知機(レーダー)の原理である。これを鬼神眼という。

 故意に音を立てたのは待ち伏せている相手が飛び掛かって来るのを誘うためであったが、相手はそれに乗って来なかった。真珠は間合いに入るなり斬り捨てる事もできたが、わざと気付かぬ振りで角を曲がって二歩ばかり進んで見せた。はたして、背後から風のような襲撃があった。真珠は身をひねって切っ先を避けると、抜き払った刀で無造作に斬り下ろした。襲撃者の身体は血煙を立てて仰け反っていた。その男の絶叫が消えぬ内に真珠は右前に飛び、二枚の襖を斜交いに切り裂いた。異様な呻きと共に、その影に潜んでいた槍を持った武士が襖もろとも、どうっと倒れ伏した。待ち伏せは二人居たのである。

 天守に真珠の敵は二人しか居なかったが、叫び声を聞いた警固の不寝番が獲物に群がる野犬のように殺到して来た。その内の何人かは明りの点いた龕灯を手にしている。真珠がいるのは天守内の高層である。地上からは十丈(約三十メートル)もの高さにある。警固の者に悟られずにこの高さに曲者が侵入するなどとは思いも寄らず、武士たちは慌てて階下から駆け上がって来たのであった。入り組んだ城内では取り囲んで一斉に跳びかかる事はできなかった。武士たちはじりじりと間合いを詰めたが、結局は一人ずつ打って出る外はなかった。映美が纏っていた合羽のような黒い布を脱ぎ捨てると、その下は何と子供が「目がちかちかする」と評した恐ろしく派手なあの歌舞伎踊の衣装であった。その背中には太い棒のような物を斜めに背負っている。

「おのれっ」

 その出で立ちに侮辱されたと思ったのであろう、先頭の武士が怒りの形相物凄く、つつつと進み出て、太刀を頭上高く振り被った。それに対して真珠は切っ先を廊下に着くほどに下げて構えた。武士がじりっと半歩詰めた瞬間、真珠の刀身がひょいと斜め上に跳ねた。真珠を真っ二つにする隙を狙って、くわっと飛び出さんばかりに目を見開いていた武士は、大上段に振り被ったまま、どどっとよろめいて二歩下がり、がくんと顔を仰向けた途端、その喉から真紅の噴水が一尺(約三十センチ)余りも迸っていた。その時には真珠は正眼に構えて涼やかに立っていた。

「できるな」

 という声が武士たちの背後からして、一人の武将が武士たちを擦り抜けて前に出て来た。上背高く、胸厚く、背格好は昼間出会った侍大将の文哲に似ていたが彼の様な快活さは感じられず、その目には世を拗ねたような虚無的な光があった。

「どうやって見張の者に気取られずにここまで上って来た。包玄白の間者か。それとも江泰晴の手の者か」

 真珠は応えず、構えを半身に変えると切っ先を持ち上げて刀を垂直にした。武将は唇を歪めて皮肉な笑みを浮かべた。

「まあ良い。いずれにしてもここで死ね」

 言い終わらぬ内に武将は真っ向から躍り込むと、凄まじいばかりの抜き撃ちを放った。真珠の刀はかろうじてこれを受け、きんっと澄んだ音を立てた。武将の刀は間を置かずに二閃三閃した。真珠はことごとくこれを躱したが守勢は明らかで、真珠はじりじりと後ずさった。ついに真珠の背中が壁に突き当たり、武将はにやりと笑うと裂帛の気合と共に火線の鋭さを刀身に迸らせて、切っ先を真珠の胸めがけて突き込んだ。

 真珠の太刀筋が変わった。それまで、弧林派一刀流独特の大きな構えで縦横自在に走っていた刀身を顔の前に引き寄せ、両手に掴んだ柄を胸の下に当てて素早く動かし、刀を左右に振りながら踏み込んで行った。目にも留まらぬ速さで切っ先はじくざぐに走り、突き込まれた刀を跳ね飛ばし、更に武将の右腕を斬り落とした。武将は刀を落とし、傷口を左手で押さえて跳び下がった。顔から皮肉な表情が消え、油汗を流していた。

「その太刀筋は……、鬼界流!」

 真珠は頷いて言う。

「鬼界剣法雷神剣」

 切っ先がじぐざぐに走り、次の動きが予想できない様が稲妻に似る所からこの名がある。武将が唸り声をあげた。

「貴様! 裏鬼界か」

 真珠はもう一度頷いた。

「えがにも(いかにも)裏鬼界、鬼崎映美」

 そう言うと、映美は剣を構える敵の中に踏み込んで行った。


    二 闘鬼、鬼川郷子

 珊瑚は本丸の裏手に居た。階上の騒動に警固番の武士があらかた駆け付けて人気のなくなった所で、地下へ降りる道を捜していた。真珠こと映美は陽動だったのである。本丸と蔵の郭(くるわ)の間にある空き地に大きな井戸があった。井桁の一辺が一間(約一八二センチ)もあり、厚い木蓋が被せてあり、それを覆う屋根の下には水を汲む釣瓶(つるべ)も見えるが、土埃を被り、今使用されている様子はない。珊瑚がまたもやその小さな身体には不釣り合いな怪力を見せて井戸の木蓋をこそりとも音を立てずに退けると、その内側には太い梯子が取り付けられていた。珊瑚はそれを猿(ましら)の如く降りて行った。常套句の言い回しではなく、その小さな身体が梯子を降りる様子は、まさに小猿に酷似していた。深さは六丈(約十八メートル)ほどもあっただろうか。その底には水はなかったが、回りの土は湿り気を帯びて苔むしていた。底から一つ横穴が開いていた。横穴も幅、高さ共に一間ほどの大きな物で珊瑚一人が通るには大き過ぎる代物だった。横穴に入るとすぐに月明かりは届かなくなったが鬼界衆である珊瑚に闇は苦にならない。

 不意に木と木を打ち合わせるような、ぱしっという大きな音が横穴に響き渡った。それと同時に珊瑚の右の壁から穂先の鋭い槍が胸を狙って飛び出して来た。珊瑚はお辞儀をするように上体を傾けてこれを避け、身をひねって手刀を当てた。さして力を入れたようには見えなかったが、槍の柄は半ばで叩き折られた。反対側の壁からも槍が飛び出して来て珊瑚の腹を狙ったが、珊瑚はその風に押されるようにふわりと半歩前に出ると、振り返りざま、これも掌底を当てて砕き折っている。珊瑚が歩を進めるのに合わせて、槍は次々と飛び出し、侵入者を串刺しにしようと、頭、胸、腹を狙って続けざまに両側の壁から突き出され、その轟音が横穴を満たした。珊瑚はさして大きな動きも見せないのだが、僅かに身体を揺らすようにして胸を反らし、上体を屈め、身をよじって巧みに槍を躱した。尤も珊瑚の身長では大人の頭を狙った物は無視する事ができた。そして、槍の柄はことごとく珊瑚の手に依って折り落とされた。さすがの珊瑚も突然足下から槍が突き上げられた時は少し驚いたようだったが、これも難なく蹴り折ってしまった。

 槍襖を渡り切って振り返った珊瑚の表情は平然としていて汗一つかいてはいなかった。おそらく人が歩くその重さによって放たれる仕掛けになっているに違いない。柄の途中で折り落とされた槍は、またするすると壁と地面の中に戻って行った。西の原は東の原よりもこういった機関(からくり)の技術が発達していた。

「仲間を取り戻しに来たか裏鬼界」

 珊瑚の行く手に明りが灯り、一人の武士が姿を現した。昼間、真珠と珊瑚の前に現れた侍大将、文哲である。珊瑚の小さな身体を見て文哲は目を細めた。

「お前は昼間の歌舞伎踊だな。そうすると上で暴れているのは真珠と申す女か。お前たちが裏鬼界だったとは。武術に優れていた訳だ。その腕、惜しいがこれより先にやる訳にはいかぬ」

 文哲はすらりと太刀を抜いた。珊瑚は黙って黒い合羽を脱ぎ捨てる。映美同様、合羽の下は真っ赤な歌舞伎踊の衣装だ。その腰に刀はない。文哲は正眼に構えると丸腰の女にも容赦はなく斬りかかった。金属と金属がぶつかる音がして文哲の刀は跳ね上げられた。珊瑚の小さな両手にはいつの間にか奇妙な形をした小さな刃物が握られていた。三日月を向かい合わせに二枚重ねたような形をした小さな板だ。中央の空隙に四本の指を差し込んで握るようになっており、握りの部分以外の縁には鋭い刃が付けられている。文哲は慌てて跳び下がった。

「握三日月剣! 馬鹿な。その武術は滅びた筈」

 珊瑚は落ち着いた顔で頷いた。

「いかにも今や滅びたも同然。鬼界武術変化掌(へんげしょう)最後の継承者、鬼川郷子(さとこ)とは私の事だ」

 文哲は眉間に皺を寄せ、むうと唸った。どうやら郷子の名を聞いた事があるらしい。


    三 鬼界忍法自翔剣

「何だ文哲、手子摺っているのか」

 文哲の後ろから男が現れた。偉丈夫の文哲に比べるとずいぶん背が低かったが、もちろん郷子よりはずっと大きい。身長の割に身体の幅があり、胸も異様に厚かった。その身体を金属を多用した鎧で被っているので蟹のように見える。大きな四角い頭も蟹を連想させる物だった。男が歩くとがちゃがちゃと鎧が騒々しい音を立てた。文哲がその蟹男に言う。

「此奴変化掌を使うのだ」

 蟹男は細い目を見開くようにした。

「ほう。それではこのちび助が鬼川郷子か」

 郷子が蟹男を睨んだ。

「ちびって言うな」

 蟹男は郷子の背後に散らばっている折られた槍先を見た。

「面白し。文哲、俺にやらせろ」

 文哲が頷いて一歩横に退くと、蟹男はその身体からは想像もできない速さでやおら真っ向から躍り込み、凄まじいばかりの抜き撃ちを放った。重く唸りをあげ、風を巻いて襲いかかった一撃は、しかし虚しく宙を薙ぎ、横穴に灯された明りをきらりと反射した。郷子はふわりと跳躍し、蟹男の肩を踏んで頭上を越え、逆さまになって天上を蹴ると、前へ飛び落ちながら文哲へと三日月剣を突き込んでいた。その鋭さは文哲を二間(約三六四センチ)も跳び下がらせた。そうして文哲と距離を取っておいて、郷子は着地の直前に身をひねって後方の蟹男目掛けて三日月剣を投げた。回転しながら飛ぶ金属の板は一直線に蟹男の頭部を襲ったが、蟹男は振り向きざまにこれを剣で叩き落とした。蟹男は感心した顔で頷いていた。

「見事だ。その境地に達するまでの修練、いかばかりに血の滲むほどであったか。それをここで打ち砕くのは不憫であるが、この方にも事情があってな。返して呉れと言われて仲間を返してやる訳にはいかぬのだ」

 鬼界衆は昔から人間に怖れられ、忌み嫌われ、迫害を受け続けてきた。そこには、鬼界衆の「生物としての能力の優位性」から来る、人間の無意識的な「種としての防衛本能」があると思われる。つまり「地上を支配する知的生物」の座を奪われる事に対する恐怖である。そのため多くの鬼界衆は出自を隠して人里に紛れ、あるいは森にひ潜み、あるいは海上を漂ってひっそりと暮している。しかしここにきて、人間たちに新しい動きが現れ始めた。鬼界衆の能力を研究し、それを工学的に再現したり、人間に移植したりしようとし始めたのだ。そのため多くの鬼界衆が捕えられ実験材料にされている。これらを、特に子供を救い出す事が、旅芸人に身をやつして放浪する映美と郷子の真の目的である。これは種族から与えられた裏鬼界の任務であると同時に映美と郷子の自発的な行為でもある。鬼界衆の子供への愛情は本能的な物だ。

 郷子は無言でもう一枚三日月剣を投げた。背後から飛来する剣を振り向きざまに叩き落とした蟹男である。正面から飛んで来る物は余裕を持って叩き落とした。叩き落としたように見えた。しかし、回転しながら飛ぶ三日月剣は蟹男の剣に触れる直前に突然その軌道を変え、剣を回り込むようにして避けた。まるで自らの意思で身を躱したかのような動きだった。三日月剣は弧を描いて飛び蟹男の首筋に横から突き刺さった。蟹男は叫び声をあげようとして口を開いたが、口から迸り出たのは鮮血だった。

 文哲は三日月剣の奇怪な動きを見て怖れた。怖れたが驚きはしなかった。これと良く似た忍術を以前見た事があった。投げた武器が空気を切る力を利用して複雑な軌道を描かせるのだ。南方の忍術で確か浮宇迷乱(ぶうめらん)とかいった。しかし、文哲を驚かせる事はその後に起こった。蟹男に叩き落とされた三日月剣が地面からふわりと浮き上がり、滑るように空中を飛んで郷子の手に戻ったのだ。続いて蟹男の首に半分以上埋め込まれてしまった剣が何かに引き出されるようにずるりと肉の中から姿を現すと、この血塗れの剣も郷子の手に飛んで戻った。浮宇迷乱は武器を空中に投げて初めて使える技である。地面に落ちたり、ましてや身体に突き刺さっている物が動き出すなどあり得ない。自然の理(ことわり)に反している。文哲は呻いた。

「鉄を引き寄せる力、鋼招力か」

 郷子は文哲を振り返って頷いた。三日月剣の軌道の変化は浮宇迷乱のように空力を利用した物ではなく、郷子の発した鋼招力、磁力による物だったのである。郷子はにやりと笑った。

「鬼界忍法自翔剣(じしょうけん)、覚えたか」


    四 鬼界忍法流星槍

 映美は集まって来た侍たちと戦って押しまくり、城の二階まで押し降ろしていた。侵入した敵に攻め上られぬよう迷路のように複雑に設計された城の構造を、逆に侵入者である映美が巧みに利用して斬り掛かり、敵をじりじりと下がらせているのであった。映美が斬り倒した侍は既に十人を超えていた。映美は周囲を取り囲まれてしまわぬように、柱や壁の入り組んだ場所を選んで戦い、背後に回られそうになると素早く下がって背を壁に着けた。今また一人の侍が映美の脇を走り過ぎざま剣を逆手に抜き、映美の首を刎ね上げた。映美は半歩下がりながらふわりと身を沈めて切っ先をかいくぐり、目の前を走り抜けようとする男の胴を薙ぎ落とす。男はざあっと血飛沫を散らせながら数歩走ってから映美の背後の廊下に倒れた。吹き上げた血を頭を下げてくぐった映美の白い衣装に降りかかった血飛沫は滲んで桃色の模様を作った。その時には上段から斬り掛かろうとした別の男の喉を何の造作もなく串刺しにしていた。

「けえっ」

 映美が男の喉から刀を引き抜く瞬間、その隙を突いて一人の侍が跳躍し、死んだ仲間と映美の上を飛び越えて宙返りしざま剣を上段から振り下ろし、逆さまになって映美の背中に叩き込んだ。その剣は血飛沫を散らしたが、侍が斬ったのは映美ではなく死人だった。映美はたった今倒した敵を盾にしたのである。侍は着地した所を映美に胸を蹴られ、閉じられていた二階の窓を頭から突き破って一階の庇を転がり落ちて行った。破られた窓から月光が差し込み、血に濡れた映美の姿を照らし出した。

 侍たちの動きが変わった。漸く郷子が地下に侵入した報せが届いたらしい。映美が侍たちを引き付けておく陽動だと気付いたようだ。少数の者を残して映美を釘付けにしておき、残りの者は地下に加勢に行こうとしていた。そうされては映美の役割は果たせない。映美は一間ほど跳び下がると背負っていた棒を構えた。それは一種の槍か刺股(さすまた)のような武器だった。先端の覆いを取ると、熊手のように穂先の枝分かれした刃物が付けられていた。二尺(約六十センチ)ほどの柄は普通の槍よりもずっと太く、片手で握ったのでは親指と中指の先が触れ合わない。映美は両足を前後に開いて踏ん張り、この武器を両手で掴み、腹の前で構えて先端を侍たちの方へ向けた。そのまま映美は全く動かなかったが、しゅっという何かをこするような音がした。突然、映美の構えていた槍のような武器が侍たちに向けて飛び出して行った。映美は投げるような動作は全くしていない。にもかかわらず、その武器は目に見えない巨大な弩で撃ち出されたかのような勢いで射出された。映美の前を離れて地下に駆け付けようとしている武士たちの中央をその武器は貫いて走った。何人もの侍が弾き飛ばされ、熊手のような穂先に引っ掛けられて引きずられ、運の悪い者は胸を突き破られた。その武器はそれほどの勢いで飛んだのである。

 この武器の太い柄の内側には、電気を通さない樹脂で被膜された銅線が螺旋状に何重にも巻かれており、その他に発電機(ダイナモ)と圧縮空気が仕込まれている。引き金を引くと圧縮空気が発電機を回し、銅線が電磁石となって僅かの間だけ強力な磁場を作り出す。これを映美が作り出した反発する磁場で撃ち出したのであった。引き金は鬼界衆にしか引く事はできない。柄の中に内蔵されていて、磁力すなわち鋼招力で引く仕掛けになっているからである。流星槍(りゅうせいそう)。それがこの武器の名であると同時に忍法の名でもあった。流星槍は一人の侍を引っ掛けたまま突き当たりの壁に突き刺さった。

 映美は流星槍が創り出した血路に駆け込むと、左右に生き残った敵を薙ぎ倒しながら駆け抜けた。映美の前方で何人かの侍が階段を駆け降りて行く音がした。地下の侵入者へ駆け付けようとしているのか、映美を怖れて逃げているのか判らない。おそらくその両方であろう。映美は立ち止まらずに足音を追い掛けた。しかし、階段を駆け降りて本丸の外へ出ると、映美が追っていた侍たち十人余りはことごとく斬り倒されていた。郷子ではない。郷子とは常に鬼神通で連絡を取り合っている、と言うよりも感覚を共有しているのだ。すなわち、郷子が見ている物を同時に映美も見、映美が聞いている物を郷子は同時に聞いている。視覚聴覚ほど明瞭ではないが、匂いや皮膚感覚もある程度は鬼神通で送り合う事ができた。郷子ではないとするといったいこれは誰の仕業か。映美は倒れ伏した死体たちの前で立ち止まり、月に照らされた殺風景な城の庭を見回した。敵に攻め込まれた際、一気に突入されぬよう、板塀が張り巡らされて入り組んだ作りにはなっているが、植木や庭石などの装飾的な物はもちろんなく、不粋な実用的設計である。

 不意にその板塀の影がゆらりと動いた。いや、これまでさながら影と化し、塀に地面に溶け込んだかのように微動だにしなかった者たちが動き出したのだ。人影は八人を数えた。誰も足音を立てず、誰一人として声を出す者も居ない。研ぎ澄まされた必殺の殺意をこそとも漏らさず、影となって潜んでいたのだ。忍びである。忍びの一人が言う。

「裏鬼界とお見受けいたす」

 映美は黙って頷いた。

「我等は趙仁徳と敵対する隣国領主、江泰晴配下の忍びでござる。我等も鬼界衆の力をむざむざ趙に渡したくはない。及ばずながらご助成いたしたい」

 映美は今度は首を左右に振った。

「ほだら物えらね(そんな物はいらない)。おめだぢも鬼界衆の力、狙でるでろ(狙っているだろう)」

 忍びは薄く笑ったようだ。

「いかにも。しかし敵の敵は味方と申す。ここは一時(いっとき)手を結ぶが得策でござろう」

 映美はふんと鼻を鳴らした。

「好ぎな様にすろ。邪魔だげ、しぇねでけろ(しないでくれ)」

 映美と八人の忍者は次々に井戸の中へ降りて行った。

 文哲は郷子と対峙して刀を構え、油汗を流していた。寄って組めばその名の通り変幻自在な武術、変化掌を相手にしなければならず、距離を取って長剣で突こうとすれば忍法自翔剣で狙われるのである。どう戦えば良いのか判らなかった。と、突然、郷子の背後で、けーんという狐の鳴き声がした。もちろん郷子は百匹の狐に取り囲まれようと怖れる物ではない。しかし、この時郷子はなぜか猛烈な違和感に襲われて一瞬混乱した。違和感の原因はすぐに判った。背後から狐の声は聞こえるのに、死角なくあらゆる方向を「見て」いる鬼神眼にその姿が映らなかったためである。郷子は気が付いた。腹話術だ。横穴に特殊な音響的仕掛けがしてあって、文哲が唇を動かさずに発した声が背後から聞こえるようになっていたのである。文哲は郷子の一瞬の混乱の隙に背を向けて横穴の奥へと駆け込んでいた。郷子はちっと舌を鳴らした。

「あ奴に忍法の心得があろうとは」

 文哲は無骨な武将の印象で、目眩しを使うようには見えなかったのだ。郷子は追い付いて来た映美と八人の忍者を従えて文哲を追おうとした。郷子は忍者たちを見ても何の問いも発しなかった。映美と忍者のやり取りは全て郷子にも聞こえていたからである。

 不意に明りが消え横穴の内部は闇に包まれた。走り出そうとしていた裏鬼界と忍者たちは立ち止まった。すぐに忍者たちの左の肩の上がぽうと青白く光った。肩の上に取り付けられた硝子(ぎやまん)の玉の中で何かが光っていた。二種類の物質を混ぜ合わせる事で起こる化学反応に伴う発光である。東の原で考え出された機関(からくり)で忍法蛍火という。発明されたのは東の原は爪州であるが、現在は西の原で多用されている。硝子の製造加工技術が西の原の方が進んでいたためである。その光はごく僅かだが、夜目の利く忍者たちには充分だった。

 しかし、映美と郷子が立ち止まったのは明りが消えたからではない。映美と郷子には明りは必要ない。明りを灯して、忍者たちは二人が立ち止まった理由を知った。何時の間にか、通路の幅いっぱいの奥行き二間ほどの大きな穴がぽっかりと口を開けていたのである。この時代の落とし穴には底に鋭く尖らせた竹串を立てて置くのが定石だが、良く訓練された忍者にとっては二間ほどを飛び越えるのは造作もない事だった。二人の忍者が助走を付けて落とし穴を飛び越えた。着地と同時に地面が火を噴き、二人の忍者は炎に包まれ、のたうち回った。絶え間なく油を送り込んでいるだけではなく、ふいごで空気も吹き込んでいるらしく火力は非常に強かった。二間離れた穴の反対側に立つ者の顔が焙られる。もがき苦しむ二人の忍者装束は燃え落ち、胸と腹を守っている鎖帷子が真っ赤に焼けるのが見えた。二人の忍者はすぐに動かなくなった。忍者たちの身体がすっかり灰になり、骨からも水分が抜けてぼろぼろになると、炎は不意に止まった。槍襖同様、人の重みで始まる機関(からくり)らしかった。乾いた骨と灰になった身体が人間の重さを失ったので止まったのである。

 郷子は鬼神眼を凝らしてその地面の様子を観察した。炎の仕掛けのある範囲を確認すると、穴から三間ほど下がってから助走を付けて走った。そのまま全力疾走し、落とし穴の手前で方向を変えると、右手の壁を斜めに駆け上がった。そのまま重力を無視するように垂直な壁を駆け抜け、最後は壁を駆け上がる勢いを利用して逆さまになって天上を三歩ほど走ってからそれを蹴った。前方に跳び出し、空中で反転してひらりと地に降りた時には炎の仕掛けの向こう側に出ていた。滑りにくい加工の草履の他には何の道具も使わない、純粋に体術による軽業であった。続いて映美が下がり、助走を付けて飛んだ。映美に注目していた忍者たちは気付かなかったが、この時郷子は奇妙に踏ん張るような姿勢を取っている。映美は文字通り空中を駆けた。人間の脚力ではあり得ない跳躍である。まるで翼を持って滑空するかのように飛び、郷子の横にすとんと降りた。忍者たちはどんな忍法なのか判らなかったが、映美と郷子は相互に引き合う磁力を発して、郷子の元へ映美が引き寄せられたのである。

 忍者たちの取った方法は力業だった。懐から火に燃えず熱を通しにくい加工をした布を取り出して身体を巻き、落とし穴を飛び越えると炎の中を一気に駆け抜けた。しかし、一人は炎の中で熱せられた空気を吸い込んで肺を焼いてしまったらしく、駆け抜けた途端に身体を折って激しく咳き込み、涙と涎を垂れ流しにしていたが、やがて横たわって動かなくなった。そして一人は足がもつれたのか炎の中で一瞬立ち止まってしまった。不燃布と言っても折り畳めば懐に入るような薄い物である。火力の強い炎にはごく短時間しか持ち堪えられず、炎の中から出る直前で身体を燃え上がらせてしまった。残りの四人は素早く駆け抜け、立って炎の中から出て来はしたが、どうやら皆火傷を負っている。一人などは忍者装束の脇腹で燃えている火を手でばたばたと叩いて消していた。

 この分では他にも剣呑な仕掛けがありそうだった。今や四人になってしまった江配下の忍者と二人の裏鬼界は慎重に横穴を進み始めた。と、今度は頭上から液体が降って来た。吊り天上を警戒していた郷子は、頭上で物音がすると同時に前方に身体を投げ出して難を逃れた。映美も走ったが肩と背中に液体がかかった。四人の忍者たちの内三人は直前で止まったが、一人は全身に液体を浴びてしまった。その忍者は毒液かとうろたえたが、身体には何の変調もなかった。刺激的な揮発成分もなく、皮膚もただれなかった。映美は身体に着いたその液体の匂いを嗅いで顔をしかめた。

「忍法冥土虫(めいどむし)」

 映美はその術を知っていた。何しろ映美の出身地、東の原角州で誕生した忍法なのである。西の原の機械工学に対して、東の原では生命科学が発達していた。冥土虫は映美の言葉で言えば「えげづね(嫌らしい)忍法」であった。左右の壁から何か黒いふわふわした土のような物が涌き出して来た。虫である。砂粒のような小さな黒い虫が生きた土のように、わらわらと数限りなく溢れ出て来るのであった。虫たちはやがて液体を浴びた忍者と映美に向かって這い進んで行った。忍者が悲鳴をあげた。どんな剛毅な人間もこれには悲鳴をあげざるを得まい。おびただしい虫がざわざわと波打ちながら自分の足に取り付き、身体の上へ上へと這い上がって来るのだ。しかも、壁からは途切れる事なく虫が溢れ出して来て、踏み潰しても叩き落としても全く追い付かないのだ。忍者はすぐにそれまでの恐怖による悲鳴とは異なる叫びをあげ始めた。忍者装束の中に入り込んだ虫が、皮膚を食い破り肉を食い荒らし始めたのだ。そればかりではない、既に下半身を覆った虫たちは肛門からも尿道口からも体内に入り込みつつあった。忍者はびっしりと敷き詰められた虫の敷物の上に倒れ、のたうち回って悲鳴を上げ続けた。液体にはこの虫を引き付ける誘引物質(フェロモン)が含まれていたのである。

 映美の身体にも虫は這い登り始めた。しかしすぐに、ばちっという大きな音がすると同時に青白い火花が飛んで虫たちは弾き飛ばされてしまった。倒れた忍者の方は既に動きを止め、地面の上に盛り上がった、うごめく虫の小山と化してしまっていた。映美は這い寄って来る虫をばちっ、ばちっと弾き飛ばしながら歩き始めている。虫を避けて追って来た忍者の一人が映美の発する火花を見ながら呟く。

「初めて見た。これが小雷という忍法か」

 郷子が歩きながら振り返った。苦笑していた。

「忍法なんていう物じゃないわ。元気な鬼界衆なら誰でもできる事よ。ただの体力だわ」

 郷子の言う通り、小雷を発するのには、三日月剣を空中で操るような精妙な技も、流星槍のような特別な機関(からくり)も必要なかった。人間にとっては歩いたり物を掴んだりするような、鬼界衆の基本的な身体機能なのである。その力の源泉を鬼界衆は「雷精(らいせい)」と呼んでいた。雷精、電気である。鬼界衆は体内に発電及び蓄電器官を持っているのであった。これを放電するのが小雷である。鬼界衆の特殊能力は全てこの電気を源にしている。頭骨内に電波の送受信器官を持ち、また骨の一部は内部に電導物質の螺旋状の構造があって、これが電磁石の役割をして磁力を発するのであった。

 しかし、この超能力ともいうべき力をと引き換えに、鬼界衆は繁殖力を犠牲にしなければならなかった。鬼界衆は発生と成長の際に体内で多量の電導物質を合成しなければならず、胎児期幼児期にそのための必要物質が不足すると簡単に死んでしまうのである。幼児期の死亡率が非常に高く、流産も多い。これを避けて必要物質を補給するため、妊婦はしばしば仲間の死体を食らう。妊娠期間も人間の倍ほどであり、繁殖率が非常に低い。そのため彼らは本能的に子供をとても大切にする。子供を傷付けられると他人の子供や人間の子供であっても逆上し、理性を失う事がしばしばあるのだ。この性質と妊婦が仲間を食う習俗のために、人間からは非常に粗暴な種族であると思われ、怖れられている。しかし、実際には電波によって情報を交換できるため、知識が豊富で知性高く、芸術を愛し、普段はいたって穏やかな人物が多い。もちろん、何処の世界にも例外はあるのだが。

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