無神論者は手綱を握る


「俺は神様なんていないと思ってるけどね」

 火曜四限、哲学入門。その講義の最中、港夢叶みなとむとは小さく呟いた。

大勢の学生が入る講義室の後ろ側は授業を聞いていない人間がたむろしている。ある人は雑談をし、ある人はスマートフォンを弄り、またある人は別の講義の課題を仕上げている。その大勢の中、今聞いている講義に反することを独りごちたところで、特段に注意がなされるわけではない。

「んじゃぁなんで、みなくんはこの講義取ったの」

 しかし、隣人である新垣再あらがきふたびはその独り言を聞き逃さない。チラリ、と夢叶の目を覗き込むようにして、彼は問う。その問いに、夢叶は当たり前のように言葉を返した。

「え、楽単だからだけど?」

「なるほどなぁ。まぁ、こんな大っぴらに雑談しててもいい授業なんて他にないよね」

「それもあるし、レポートの判定も緩いらしいから」

「あーね、背に腹は変えられないってか」

 再はケラケラと笑う。その笑い声も講義室の喧騒に呑まれて消えていった。

「じゃあ逆に聞くけど、なんで再はこれ取ってるの? 楽単だから?」

 お返し、と言わんばかりの疑問を、夢叶は再に投げつける。その質問の後、再は少しだけ思索した。その間のあと、彼は戯けたように笑う。

「うーん、なんでだろ。入学したときの俺に聞いてよ」

 新垣再のヘラりとした顔は、何か憂いを帯びているように思えた。それを感じながらも、夢叶はその表情を見ていないことにして、「そう」と答えた。

 講師は今マイクを使って、ギリシア神話について語っている。語りが脱線してか、ソクラテスが無神論を唱えたとして裁判にかけられた、という話に飛躍していた。その言葉を聞いている人間は何人いるだろうか、と疑問に思いながらも彼は講師の言葉に耳を傾けていた。そんな中、再が小さく独りごちる声を聞く。

「神様なんて、いないで欲しいけどなぁ」

 しかし夢叶は再がしたように、その独り言に声を重ねなかった。

   *


(中略)


「あ」

 その流れの中、隣にいた再が静止する。一点をただ見つめて確証を得たのか、目を輝かせて名前をよんだ。

「だちちゃん先輩!」

 まさかの先輩かよ、しかも渾名。再のスタンスは目上相手でも変わらないのだと思って、夢叶は静かに呆れた。再はおーいと手を大きく上げ、ブンブンと振る。傍迷惑だな、と夢叶は思うがこの状態で道を譲らない学生諸君にとっては気にすらならないのだろうな、とも思う。

 再のオーバーリアクションが功を成したのか、別の人混みにいる人物が手を振り返す。黒髪のマッシュボブで大学生らしい服装の彼は特に特徴という特徴がない。それが特徴と言っても過言ではないようにも思えた。青年はもうそろそろで出口と言ったところまで来ており、そろそろ見えなくなってしまう。

「だちちゃん先輩待っててくれるかなあ。今日これから準備だし」

 ソワソワとしながら再はだちちゃん先輩とやらが扉の奥へ消えていくのを見届ける。言葉の端端で察してはいたが、上部だけの会話を始める。

「知り合い?」

「そ、実行委員の先輩! めっちゃ優しいんだよね、だちちゃん先輩」

「いいじゃん優しい先輩。サークルによってはやべー先輩に当たる話聞くし」

「零ちゃん筆頭にねぇ。俺の先輩運良くてほんっとうに良かった。毎日叱られるとかいざこざ起こるとか嫌だもん」

「それはそう。そんなサークル辞めちまえって思うけど」

「まあ零ちゃんは事情が特殊だから仕方なくない? 俺は即刻やめるなあ。先輩と喧嘩とかやってられないよ。ただでさえ……」

 再の言葉が止まる。大抵何かの話題を振っておけば再が頼まなくても喋ってくれるはずなのに、この瞬間だけ歯切れが悪かった。何か悪い話題でも振ってしまっただろうか?

それでもどうしたの? とは聞かない。それは新垣再に踏み入れることになるからだ。このラインは踏んではいけない、と長年距離を置くことに長けてきた夢叶自身が警告を鳴らしていた。

二人の間には似合わない沈黙が流れる。ドアから出る数十秒から一分くらいの時間だったのに、それでも永久に続くのかと長い時間に感じた。

「再くん」

 その沈黙は第三者の声によって途切れる。その声の側を見ると、先ほどの無個性なだちちゃん先輩が人畜無害そうな笑顔を浮かべていた。

「だちちゃん先輩!」

 憂いを見せていた顔から一転、再は飛び跳ねるように彼に駆け寄る。零もであるが再もテンションの落差が酷いな、と思いながら夢叶はども、とだちちゃん先輩に会釈をした。

「……再くんの友達?」

 嬉しそうな再を宥めると、彼は夢叶に目線を向ける。人畜無害な笑顔を絶やさない彼は一見すれば善良な青年である。

「まあ、一応」

「一応って酷いよみなくん! あっこっちは俺の友達の港夢叶、みなくんです」

「再」

 思わずキ、と再を睨む。名前に対するコンプレックスは未だに抜けることはないから、自ら行う自己紹介では意図的に名前を言わないことが多いというのに。その目線に萎縮して再はごめん、と萎縮した。その様子を見ながら先輩の彼は笑みを絶やさず見守っている。

「港でいいです。どうも」

「そんな改まらなくても。……って言っても先輩だから敬語になるか」

「んで、みなくん。こっちがだちちゃん先輩!」

 なんでだちちゃん先輩はだちちゃん先輩なんだよと小突く。再には聞こえなかったものの先輩の方には伝わってしまったようで、まあまあとワンクッション置いて自己紹介を始めた。


「僕は足立信執。文学部の二年だからあまり接点はないと思うけどよろしくね?」

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