第8話 1991年夏「大切な場所」

 8月後半は、夏祭りの日の出来事の余韻を引きずりながら過ごした。気を抜くと、1人でニヤニヤしていたらしい。母から何度も気持ち悪がられた。



 夏休みも残り1週間。後半の部活が始まった。


 その日は、午後からの練習だった。顧問の先生は出張のため不在で、生徒だけで練習することになっていた。


 体育館を何周か走り、フットワークのメニューが始まった頃にそいつは現れた。


 ダボダボの、ボンタンと呼ばれる制服の変形ズボンと真っ赤なTシャツに、髪の毛は茶色。


「うわ!中野さん。何しに来たんかな」

 げーさんがこそこそと話しかけてきた。3年の中野さんは、見た目通りのややこしい人で、学校内外誰彼構わず絡んできて喧嘩を売る。確か、1学期の終業式の前にもどこかで喧嘩をして、前歯を何本か折ったと誰かが噂していた。


 体育館をぐるっと見回し、僕とげーさんの方を見てニヤリと笑って近づいてきた。前歯が数本欠けていて、不気味な笑顔だった。


「おぅ、お前」

 げーさんの顔を覗き込みながら

「お前、ちょっとビール買ってきてくれや」

「え…ビールですか?」

「そうや」

 500円玉を差し出して

「釣りは返せよ」


 噂通りの無茶苦茶な人だと思った。


 部活中の体育館に上がり込んで、面識の無い1年をパシリに使うとは。しかも、中学生のくせに、ビール…。


 練習は一時中断し、部員達はざわついている。

 キャプテンの真中さんの方を見ると、無言で頷いていた。とりあえず、言う通りにしようということらしい。


 げーさんは走って体育館から出ていった。ビールが売っている自販機までは、たぶん往復で15分はかかる。その間この人はここに居すわるつもりだろうか。


「よっしゃ。俺も交ぜてくれや」

 勝手にボールを持ってくると、ゴール下でシュートをうち始めた。


 部員全員、どうして良いかわからず遠巻きに眺めていた。真中さんの指示で、女子部員は舞台の上に避難した。


 職員室へ先生を呼びに行けば良いのかもしれないが、そうすると呼びに行った者はもちろん、他の部員も全員あとで報復にあうだろう。誰も動けなかった。

「なんや、お前らおもろ無いのー。相手してくれや」


 中野さんは、副キャプテンの大木さんに向かって、至近距離から突然ボールを投げつけた。速すぎてボールを取り損ねてお腹に直撃した大木さんは苦しそうにうずくまった。


「おいっ、大丈夫か?」

 真中さんが駆け寄り、声をかけた。

「何やねん、お前バスケ部のくせにパスも受けられへんのか」

 さっきのはパスというよりも、ドッジボールだ。


「すみません、中野さん。僕たち練習したいんです。…その、…帰って貰えませんか?」


 真中さんの言葉で、遠くからでも中野さんの目付きが変わるのがわかった。真中さんの胸ぐらを掴んで立たせると、拳をかまえた。


 女子の何人かが小さく悲鳴を上げる。

 その時、体育館の戸がバンッと開いた。全員の視線が体育館の入り口に集まった。


「ビ、ビール買ってきましたー!」


 汗だくのげーさんが帰ってきた。かなり頑張って走ったのだろう。出ていってから10分も経っていない。


「おぅ、早かったやんけ」

 拳を下ろし、真中さんを突き飛ばしてからビールを受け取った中野さんはすぐに缶を開けた。

 かなり頑張って走ったということは、かなり腕も振ったのだろう。缶からビールが吹き出た。僕たちがいつも掃除している体育館が汚される。


「おとととっ。ズズズッ〜」

 慌てて缶に口を付けて泡をすすった中野さんは、むせてビールを吐き出した。中野さんは苦しそうに咳き込んでいる。


 僕は雑巾を手に取り、床を拭き始めた。


 こういう時は動かないで嵐が過ぎ去るのを待つのが一番安全だと思う。でも我慢できなかった。


 いつも練習後に、みんな疲れた体で掃除する床。モップをかけ、モップのホコリを落とし、またモップをかける。体育館を、1年生8人で何往復もして磨き上げる。

 午前中にここを使っていた他の部も同じようにきれいにしてくれたはずだ。だから、午後からの僕たちが快適に使える。


 そんな体育館を、この人は平気で汚した。


「何やお前。俺が苦しんでるのに…ゴホッゴホッ…掃除なんかしやがって。当て付けか、ゴホッ、コラ!」


 やっぱり絡んできてきた。


 じっとしてれば、その内いなくなったかもしれないし、大人しくしてれば自分が目を付けられることは無かったかもしれない。

 でも、好き放題されっぱなしも、何だか悔しくて、確かに当て付けの意味もあったかもしれない。

 後先考えずに動いたことに後悔は無いわけでは無い。


 ああ、殴られる。痛いやろな。一発で許して貰えるかな。などと思っていた時だった。真中さんも僕の隣にしゃがんで床を拭き始めた。それに続いて何人かが加わり、雑巾が足らなくなるとモップを持ってくる人もいた。


 最後には男子部員全員で床を拭いていた。


 女子たちは舞台の上から中野さんに冷たい視線を向けていた。ゆみも、しっかりとこちらを見ている。


 僕たちのできる精一杯の、無言の抗議だった。


「お前ら、ほんまにおもろないのっー!クソが!」

 捨て台詞を吐いて、中野さんは体育館から出ていった。


 全員で顔をみあわせてガッツポーズを作った。


「裕輔、ありがとうな」

 真中さんからお礼を言われるなんて。

「いや、そんな…。すごい怖かったっす」



 僕は人前に出ることや、誰よりも先に動くことは小さなころから苦手だった。自分も少しは成長してるのかな、なんて偉そうに思ってみた。




 その後、体育館に邪魔者が来ることは2度と無かった。



 ただ、げーさんは

「お釣返すの忘れてた。そのうち、怒ってカツアゲとかされるかも…」

 と、しばらくビクビクしていたが。








  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る