第48話 サンテ・ポルタの池
レスとヴォジャノーイに向かって大きく手を振り、足元がガクンと揺れた瞬間、わたしたちはサンテ・ポルタの見慣れた店先に到着していた。
こちらも朝日が昇り始めている。
玄関のステンドグラスが光に照らされ、きらきらと輝いていた。
たった一晩森へ出かけていただけなのに、とても長く店を空けていた気がする。
わたしはヴォジャノーイの森とはまた違う、薬草の香りの混ざった空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
家に帰ってきたという不思議な安心感で肩の力が抜けていく。
アルが手を離し、皆が風で乱れた服の裾を払っていると、先に到着していたリュドが珍しく慌てて走り寄ってきた。
「魔法使い様、はやく彼女を中に運ぶ許可をください」
そう言って指差した先には、玄関の庇の影に隠れて怯えているルサールカの姿があった。
3メートル程の大きな尾を折りたたんで、ぶるぶる震えている。
どうやら日光から逃げているらしい。
「ああ、申し訳ない。許可のことを失念していた。早く中へ」
アブソレムが許可を与えると、アルとリュドは急いでルサールカの元へ走り寄り、手を繋いでさっと姿を消した。
きっと庭の池へと連れて行ったのだろう。
わたしとアブソレム、トーマは小走りで店内へ入り、そのまままっすぐ飛び出すように庭へ出た。
その間アブソレムはずっと、「全く私としたことが」や「先に与えておかねばならなかったのに」とブツブツ独り言を言っている。
池に近寄ると、アルとリュドがぐったりと池の側に座り込んでいるのが見えた。
本来は竜の鱗を使わないと移動できないほどの重労働だと言っていたはずだ。
きっと力を使い切ってしまったのだろう。
アブソレムがアルとリュドに駆け寄ったのを確認して、わたしは池へと向かった。
アニとアカラの祭壇の横を通り過ぎ、バーベインの群れを抜け、池にざぶざぶと足を踏み入れる。
「ルサールカ!ルカ!大丈夫?」
池の中央に進みながら声を張り上げる。
池は思っていたよりもずっと深いようで、数歩進んだだけでもう水は腿のあたりまできていた。
「アリス!危ないよ!」
池のほとりでトーマがそう怒鳴っている。
池を見回してもどこにもルサールカの姿が見えない。
どこに行ってしまったんだろう?
日光を異常に怯えてたけれど、光に晒されるとどうなるんだっけ?
アブソレムに教わっていただろうか?
ルサールカ、とまた名前を呼んだ瞬間、深みに足をとられ、ドボンと水の中に落ちてしまった。
突然のことで息を吸いこめず、パニックになる。
足にエプロンが絡みついてうまく浮かべない。
あ、このまま溺れるのかも。
そう思った途端、池の奥から大きな蛇のような体がぐんぐん近づいていてわたしのみぞおちあたりをひっ掴み、ものすごい勢いでぐんと引っ張ったかと思うと、勢いよく放り投げた。
「アリス、あなたね、勇敢と向こう見ずは似ているけれど違うのよ」
東屋に投げ出されたわたしは、ゲホゲホと咳き込んで飲み込んでしまった水を吐き出した。
ルサールカはわたしの背中を軽く叩きながら、上半身だけ水から出して文句を言っている。
「あの魔法使いの苦労が眼に浮かぶわ。光の加護を使った時と言い、考えなしの行動が多すぎるわよ」
ルサールカがわたしの乱れた髪を軽く指先で整え、背中をさすってくれる。
わたしは水を吐くだけ吐き切ると、だいぶ息が楽になった。
「ああ、ルカ。あなたが無事でよかったわ」
「……この状況でそれを言う?無事で良かったのはあなたのほうでしょ?」
ルサールカが腕組みをして、片眉を上げて見せる。
わたしたちは数秒お互いを見つめあってから、声を合わせて笑った。
「アリス、ここに連れてきてくれて本当にありがとう。とてもいいお家だわ」
ルサールカは庭を見回し、店に目を留めてそう言った。
数日前にここにきたばかりなのに、サンテ・ポルタを褒められるととても嬉しい気持ちになる。
池はほとんど常に東屋や木の影になっているので、昼でも日光を気にしなくて良いだろう。
「いいえ。わたしもあなたが来てくれて良かったわ。何か必要なものがあったらなんでも言ってね」
「ありがとう。……でも今は特に思いつかないの。人の心を取り戻したのが久しぶりすぎて、何が必要なのか全くわからないのよ」
ルサールカはそう言うと、寂しそうに笑ってみせた。
「そうなのね。それじゃ追々揃えていきましょう。実を言うと、わたしも身の回りのものがまだ揃ってないのよ」
それからわたしたちはしばらくお互いの身の上話に花を咲かせた。
彼女は朧げながらルサールカになる前の自分のことを覚えていて、元は小さな街に住んでいる読書好きな娘だったようだ。
読書好き、という点でわたしは盛り上がり、きっと仲良くなれるはずと嬉しくなった。
ルサールカは人の心を取り戻している間は普通の女の子と何も変わらなかった。
そのため、人を襲うのはとても辛かっただろうと余計に強く同情したのだった。
「その時の名前はなんだったの?」
「それがあまり覚えていないの。自分の名前だけじゃなくて、住んでいた街の名前とか、両親の名前も」
ルサールカはしょんぼりと肩を落とした。
自分がどこの何者か分からないのは、心細いに違いない。
わたしは気絶している時に彷徨ったおかしな色の森を思い出して、軽く身震いした。
「それじゃ、ルカって呼んでもいい?既に何度か勝手に呼んでいるけど」
「ええ。もしかしてルカって私のことかしらって、ずっと思ってたわ」
わたしがそう提案すると、ルカはにっこりと微笑みながらそう言ってくれた。
「良かった。そうしたらあなたは、今日からサンテ・ポルタのルカで、わたしの友達ね」
そう言った時、東屋にアブソレムとトーマ、アルが入ってきた。
リュドの姿がないし、アルはなんだか神妙な顔をしている。
「アリス。大丈夫か?」
「うん。こっちは大丈夫。リュドは?」
「薬を飲ませて寝かせてきた」
アブソレムは少し疲れた様子だった。
それからわたしの隣に座っているルサールカに目を留める。
「ルサールカ、池の中央に生えているハナジュンサイを一掴み持ってきてくれないか。リュドが発熱しているんだ」
ルサールカは少し驚いた顔をしてから、「ハナジュンサイ?」と聞き返した。
「地下茎が泥中を横に這っていて、茎が長く葉が水に浮いている水草だ。黄色い小さな花が咲いているからすぐわかるだろう」
わたしは東屋の壁に掛けてある採集用の籠をルカに渡した。
「甘かったわ。アブソレムはここにいるみんなを死ぬほどこき使うの。今日からあなたはサンテ・ポルタのルカで、わたしの友達で、そしてアブソレムの小間使いだわ」
熱を出したリュドにハナジュンサイを煎じて飲ませていると、突然店の玄関が青く光り、狂ったように幾度もノックされた。
アブソレムが入室の許可を口にするや否や、真っ青な顔をしたストラが部屋に飛び込んできた。
「トーマ様っ!」
ストラはメガネの奥の銀のまつ毛を涙で濡らしながら、椅子にかけているトーマの元へ一直線で飛んでくる。
「ストラ。どうしてここに?」
トーマは特に驚きもせずそう聞いたが、ストラはトーマの姿を一目見るとワッと泣き出してしまった。
「トーマ様、こんなにボロボロになられて……!」
わたしは改めてトーマの服装を見る。
確かに高い襟のシャツもローブもあちこち焦げてめちゃくちゃだ。
焦げていない部分には泥汚れがべったりと付き、おまけにさっき池のほとりに入ったせいで膝から下はぐしょぐしょに濡れている。
ぐじぐじと泣くストラの後ろから、マーサが音もなく入ってきた。
ストラとは違い、トーマの姿を見ても顔色ひとつ変えない。
「まあまあなんです、坊っちゃま。その格好は」
だがテーブルの横に寝ているリュドを見つけると、さすがに少し驚いた様子で目を見張った。
「リュドは一体どうしました」
リュドは大きな木の収納箱をふたつ繋げて毛布で包んだ簡易ベッドの上に、ミントの解熱薬を染み込ませた布を額に乗せて横になっている。
サンテ・ポルタには余分なベッドがないので、窮屈そうだがないよりはマシだろう。
「過労で熱を出した。命に別条はない」
アブソレムがリュドの脈を測りながらそう言う。
マーサは物言いたげに眉を寄せてリュドをじっと見ていたが、その後ろからトーマが声をかけた。
「マーサ。リュドは十分すぎるほど良く働いてくれた。僕がこんな格好なのは彼のせいではない」
「はいはい、そうでしょうとも。皆さん似たり寄ったりの酷い格好ですから、それは分かりますよ。ただ王子のそんな姿を国民に見られるわけにはいきません。着替えをしてください」
マーサが後ろにいる従者に合図を送ると、彼は華美な装飾のされた木箱を抱えて運んできた。
それに着替えが入っているらしい。
トーマが着替えのために従者とともに奥の部屋に消えた間に、アブソレムは簡単な報告をマーサにした。
彼女は話を聞きながら何度もため息をつき、「なんて恐ろしいこと。だから私は知恵の日なんて嫌いですよ」と小声で独り言ちた。
わたしは特にすることもなく時間を持ち余していたので、隣にいるストラに話しかけてみる。
彼女はレースのハンカチで涙を拭き、そのハンカチを両手で握りしめていた。
「あなたが皆を連れてきてくれたの?」
ストラはわたしに話しかけられたことに少し驚いたようでパッとこちらを振り向き、おずおずと口を開いた。
「私、荷物番をしろと言われて、ずっと森の入り口で待っていたら何人かの兵士が怪我をして戻ってきて。それを見て隣町まで走ったんです。トーマ様に何かあったのかもしれないと思って」
そう話すストラの手足は、擦れた葉や枝のせいであちこちに擦り傷ができていた。
「それで町の風の者を何人か呼んできて戻ると、今度はフウゴたちが帰ってきていて、森で何があったか聞いて……。それでいてもたってもいられず城に飛んで、マーサたちを連れてきました」
わたしは話を聞きながら薬箱を開けてホーステールの煮出し液とガーゼを取り出す。
「まさかこんなことになるなんて。私がついていれば……!」
「いや、君がいても何の役にも立たなかったと思うぞ」
そこでまた涙を滲ませたストラに、アルが辛辣な一言を投げた。
ストラは鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしたあと、アルのことをキッと睨む。
「そんなこと!」
「いーや、役に立たなかったね。そもそも竜狩りに行くのならミナレット派をもっと連れてこいよ。これじゃおちおち移動もできないじゃないか」
ストラは唇を噛んで悔しそうに黙った。
アブソレムは「アルも役に立ったのか疑わしい」と小声で口を出した。
またそんな心ないことを言って!と焦ったが、その声はわたしにしか聞こえなかったようで、皆とくに反応しない。
わたしはストラの腕を取り、ホーステールを染み込ませたガーゼで腕を優しく拭いた。
傷に沁みるようで、顔を背けて腕に力を入れる。
「こんなに傷を作って、トーマを助ける為に頑張って走ったのね。わたしはあなたが
役立たずだとは思わないわ」
ストラはしばらく呆けたようなポカンとした表情をしていたが、そのうち静かに下を向いて、わたしにされるがままにさせてくれた。
おかげでトーマが帰って来る前に、両手足の消毒を終えることができたのだった。
トーマがいつものパリッとした服装に着替えて戻って来ると、皆口々に礼を言い帰る支度を始めた。
マーサの手配で店へと入ってきた兵士ふたりがリュドを担架のようなものに乗せて運び出し、アブソレムは従者に彼の容体を詳しく伝えている。
ストラはわたしに傷の手当のお礼を言ってくれた。
「魔女様、ありがとうございます。私、今までに色々と失礼なことを言って……」
「アリスでいいわ。またトーマと一緒に店へ来てね」
ストラはメガネの奥の目を細めて微笑むと、「ええ、アリス様」と言ってマーサの後ろに控えた。
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