第46話 忘却の森

「我は、ロータスの光の加護を得たるものなり」

その言葉に反応して、魔石を乗せた右手から眩い光が溢れた。

黄色を基調とした、色とりどりの光だ。

あまりに眩しくて、あまり長く目を開けていられない。

急いでノートを確認してざっと覚えてから、目を瞑ったまま続きを唱える。

「春の女神、さゆひめさま」

ぐわっとまぶたの裏の光が強くなる。

目を瞑っていても眩しい。

光とともに強風が巻き起こり、スカートと髪をばさばさと踊らせていた。

またもや帽子が風に吹かれて飛んでいってしまったのが分かった。

誰か拾ってくれるかしら。湖に落ちていないといいけれど。

わたしは目を瞑ったまま、見つかりますように、と心の中で祈る。

「夏の女神、つるひめさま」

まぶたの裏にまた別の色の光が加わった。

チカチカと不定期に光が爆発している。まるで春雷のようだ。

春雷は冬眠していた虫を脅かせて起こすから、虫出しの雷と呼ばれているのよね。

何故だかそんなことを思い出す。どうにも思考が散らかっているようだ。

集中しなければ。

続いて秋の女神の名前を呼ぼうとした瞬間、レスがわたしの肩に触れたのがわかった。

「アリス、女神を呼ぶのは夏までで良い」

そう耳元で声が聞こえたかと思うと、魔石を持つ手が少し重くなった。

レスが爪で魔石に触れているらしい。

そうか。

サンテ・ポルタの庭と違って、全ての季節の植物が必要なわけではないから、秋と冬の女神は呼ばなくていいのか。

ええと、そうすると、あとは最後の締めだけね。

わたしは一呼吸置いて、最後の呪文を唱えた。

「我らの友の庭に、ご加護をお分けください」


 何かが爆発した。

あまりに突然光が強まったので、わたしはそうに違いないと思った。

思わず体を硬直させて顔を背けるが、特に体への衝撃はない。

震える瞼をどうにか動かし、うっすらと目を開ける。

すると目の前には、暴力的なまでの光と風がつむじ風のように巻き起こっていた。

きっと、レスの魔力が注がれているせいだろう。

手のひらに乗せた魔石がぐらぐらと揺れて、火傷しそうに熱いレスの魔力を感じる。

熱い魔力は魔石を通して光と風に代わり、つむじ風を通り越し、今や竜巻のようになっていた。

みんなは大丈夫かと振り返ると、皆地面にしゃがみこんだり伏せたりしている。

アブソレムだけ、手近な岩に捕まりこちらに向かって何かを懸命に叫んでいた。

なにを言っているんだろう?聞こえないわ。

そうジェスチャで伝えようとふと手元を見ると、ちょうど魔石の中央に大きなひび割れが入っていくのが見えた。


  あ、魔石が割れてしまう。


 そう思った瞬間、バチッと何かに感電したような衝撃が全身に走り、わたしは弾かれたように宙に浮いた。

スローモーションのように視界が虹のような光でいっぱいになり、その光が四方八方に意思を持っているように飛んでいくのが見える。

あの光が森を癒すのかしら、とぼんやり思いつつ、わたしは気を失った。



 ふと気がつくと、わたしは真っ暗な森の中をとぼとぼと歩いていた。

足元は森の中なのに、ふわふわの絨毯敷きだ。派手な赤紫色をしている。

趣味の悪い古いホテルに敷いてありそうな色だ。

ここはどこだろう?

確か、わたしはヴォジャノーイの森にいたはず。

光の魔石で女神の祝詞をあげて、それで何かにバチっと弾かれて……。

そうしてここに飛んできてしまったんだろうか?

でも、あまりに今までいた森と雰囲気が違う。

絨毯敷きの地面はもちろんだけど、森の木々が作り物のように見える。

子供が絵の具で塗りつぶしたみたいな、のっぺりとした緑色。

木には手作りらしい看板がいたるところにぶら下がっているが、書かれている文字はまるで読み取れない。

とりあえず歩いてみたらいいのかしら。

こういう時はどうしたらいいんだっけ?

確か山歩きの本で、迷ってしまった時の心得を読んだことがあるはず。


 あれ?

でもそんな本、いつどこで読んだのだっけ。


 たしか、たくさん本があって、涼しくて、椅子もある、大好きな場所があったような……。

どこだっただろう、あれは……。

ケルンの街にはそんな場所はなかったはず……。

わたしはどうしても思い出せなくて、手をこめかみに当てた。

それに、ここはどこだろう。

自分の周りの木と地面だけはなんとか見えているけど、その他は完全に暗闇に紛れてしまっていて、少しも見えない。

どこからきて、どこへ行けばいいんだろう?

こういう時、いつも助けてくれる人が、誰かいたような気がする。

わたしが頭を抱えていると、視界の隅になにか白いものがすっと通った。


「あ!」


 それはうさぎだった。真っ白なうさぎだ。

うさぎはぴょこぴょこと歩いてわたしの横を通り過ぎると、1メートルほど先で立ち止まってこちらを振り返った。

鼻をぴくぴく動かしている。鼻の動きと一緒に、ひげが細かく上下していた。

あの子、どこかで見たはず。なにか大切な思い出だったはず。

わたしは思わず「待って!」と声をあげた。

その声に驚いたように、うさぎはくりっと踵を返すと先へと走って行ってしまった。


「待って!いかないで!」

声を張り上げながら後を追う。

「うさぎさん、待って!お願い!」

どうしよう。どうしたらいい?

こんな時、いつも誰かが助けてくれたのに。

うさぎはすでに走り去ってしまってもう姿は見えなかった。

「待っ……!」

一歩踏み出したその足の下には絨毯はなく、わたしは崩れるように深い穴へと落ちて行った。



「アブソレ……ッ!」

ガクッとした奇妙な落下感に、わたしは文字どおり飛び起きた。

これは確か、昼寝をした時によく現れる、入眠時ミオクローヌスという現象だ。

昔、脳科学の本で読んだはず。そう、あの書店で買ったのだ。

わたしは次々に前の世界のことを思い出し、ホッと体の力を抜く。

よくわからないが、おかしな夢を見ていたようだ。

そして次の瞬間、必死で咳き込んでいた。

「げっほげほげほ!」

「ここで吐くなよ」

アブソレムの声がすぐ側で聞こえる。

あれ?ここは?

わたしは咳き込みながらあたりを見回した。

緑の葉、巨大な木。竜のレス。アルとトーマが心配そうに顔を覗き込んでいる。

ああ、ここはレスの住処の洞穴だ。

「アブソレム、わたし……」

口を押さえて咳をしながらアブソレムに問いかける。

彼は小さなグラスを片手にわたしの頭の横に腰掛けていた。

わたしの体は地面に広げた布の上に寝かされていたらしい。

生地からして、アブソレムのローブだろう。

「説教は後だ。体に違和感はあるか」

そう言われて、改めて自分の体を点検する。

「喉がまるで焼けてるみたい」

「それは気付けで飲ませたブランデーのせいだ」

アブソレムが小さなグラスを布で拭きながら答えた。

「それが最初に出てくるのなら大丈夫だ。よし、それではこれから説教するとしよう」


 アブソレムがこれから説教すると宣言したのを聞き、わたしは青くなってローブの上に正座した。

何を怒られるか予想もつかないが、アブソレムが怒っている。

正座をする理由はそれだけで十分だ。

「なんだ?その座り方?」

隣で見ていたアルが不思議そうに聞いた。

彼はわたしが起き上がったのを見て安心したらしく、すでにあぐらを組んで休んでいた。

「……これは反省を表すポーズよ」

「まあまあ、いいではないか。魔法使いよ」

わたしの後ろでとぐろを巻いているレスが助け舟を出してくれた。

彼は明らかに顔色と鱗の艶が良くなっており、上機嫌のようだった。

「アリスが光の加護を授けてくれたおかげで森の地は回復した。あとは木々を癒すだけだ」

そこでレスは深々と頭を下げてくれた。

竜が頭をさげるのはあまりないことらしく、見ていたトーマとアルがビクッとして体を縮こめる。


「ハシバミ竜。そうは言っても、アリス自身が危険だったのだ。現に倒れただろう」

「……あれってしたらいけないことだったの?」

アブソレムは眉間に皺を寄せて額をおさえた。

「光の魔石を使うこと自体は悪いことではない。だがハシバミ竜の魔力を受けたのがまずかったのだ」

わたしは正座をしたまま、俯いて目だけでアブソレムの顔を盗み見る。

「……どういうこと?」

アブソレムはため息をつきながらわたしの右手をとる。

彼の手の上で右手を広げると、手のひらには丸く焼け焦げたような跡が残っていた。

さっき掴んでいた光の魔石の形をしている。

「ハシバミ竜の魔力は強すぎる。だから我々は、生体ではなく鱗などの素材を使うのだ」


 わたしは自分の手のひらをまじまじと見つめる。

左の指で跡をなぞってみるが、特に痛みもないし凹凸もない。

焦げたような少し煙いような、そんな匂いがする。

魔石の影がそのまま染みついているようだった。

「そうだったのか。そうとは知らずに悪いことをした」

レスが申し訳なさそうに覗き込み、手の跡をじっと見た。

「安心しろ。その手の跡は、時間はかかるがそのうちに薄くなって消えていく。ただ、跡が残っている間はハシバミ竜の魔力が染みついている状態だ」

「ああ、跡のことなら痛くないし別にいいのよ。氷漬けになった時だって、万が一凍傷になっても右手だけ残せればいいやって思ったのよね。ペンが握れればいいやって」

わたしが手をパタパタ動かしながら笑ってそう言い顔を上げると、目の前には信じられないという表情をした面々が並んでいた。

トーマとアルはあんぐり口を開けて、アブソレムとレスは苦虫を噛み潰したような顔をしている。

「アリス……、お前には色々教えなければならないことがあるようだ」

「魔法使い、其方も苦労するな」

アブソレムとレスがお互いに労うような視線を交わしたのを見て、わたしは正座のまま俯いて小さくなった。


「さあ、ところでこちらからの礼の話をせねばならん」

お説教がひと段落して、右手に軟膏を塗ってもらっている時にレスがそう言った。

トーマとアルはふたりで薬箱を片付けている。

今気がついたが、洞窟内には兵士やリュドたちがいない。彼らは外で待機しているのだろうか。

「ルサールカを連れて行ってもらう上に、森の地も癒してもらった。そしてその為に、アリスの身を危険に晒してしまった」

わたしがそんなこと気にしないで、と口を出そうとしたのをレスがウインクして止めた。

彼には何か考えがあるらしい。


「そこで、まずルサールカの移動用に鱗を5枚渡す」

アルが顔を輝かせて頷いた。

ヴォジャノーイの湖が元に戻るのがよほど嬉しいらしい。

「それから知恵の日の素材として、鱗を同じだけ渡そう」

その言葉にはトーマが反応した。はっと息を止めて、少しの間何かを考え込む。

「お言葉ですが、ルサールカの件も癒しの件も、我々ベルナール国がやったわけではありません。礼ならアブソレムとアリスへ」

レスはそれを聞いて満足げに目を細めた。

「その通りだ。だから魔法使いらには、君たちから改めて礼をしなさい」

トーマはしばらく視線を彷徨わせ迷っていたが、わたしが微笑んだのを見て、おずおずと聞いた。

「いいんだろうか、こんなこと……」

「私たちには必要ないものだ。それよりも他の見返りを貰ったほうが、こちらとしても助かる」


 アブソレムがそう言うと、トーマはホッとしたように肩の力を抜いた。

自分の国を救わねばとかなり気負っていたのだろう。

心底安心したような顔で、レスとアブソレムに感謝の言葉を述べた。

「其方は物事を平等に捉えられる者だ。其方になら良い国が作れるだろう。来年の知恵の日もここで待っている」

レスがトーマをそう褒めると、トーマは驚いた顔のまま頭を下げた。

まさか自分が褒められるとは思っていなかったらしい。


「ああよかった!これで万事解決ね」

わたしは立ち上がって大きく伸びをする。

大きく吸った空気がおいしい。

なんだか色んな人に呆れられたり怒られたりしたような気もするが、もう終わったことだ。

全てがうまくいって、ものすごい達成感が体に満ちていた。

「いや、まだひとつある」

レスの言葉に、わたしは伸びの途中で体を戻す。

「まだなにかあるの?」

「ああ。今のはルサールカの引き取りと、アリスの体を傷つけてしまった分だ」

そう言うと、レスはするすると立ち上がった。

こんなに大きな体で、どうやったらここまで音を立てずに動けるのだろう。

格段に艶の良くなった鱗が光を受けて輝いている。

レスの体の後ろには、もうひとりハシバミ竜がいた。

それを見て、みんながはっと息を飲む。

わたしはよく見ようと、もうひとりのハシバミ竜にゆっくりと近づいていく。

しかしいくら近寄っても竜は動かない。

体は透けるように輝いているのに、目は光を持っていない。

そこに横たわっているのはレスの抜け殻だった。

「アリス、君への礼はこれだ」

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