第44話 眼下に広がるヴォジャノーイの森
いつの間にか姿を消していたリュドの帰りを待つ間、わたしとハシバミ竜は魔力を失った鱗の使い道についてわいわいと話し合っていた。
わたしはペンダントにしたらどうかと提案したが、竜はううんと不満そうに唸った。
「其方は魔女なのだから、魔石を首から下げているであろう」
「ああ、そっか。確かにそうなると、ふたつは邪魔よねえ」
カチャカチャ音もしそうだし、いくら軽いと言っても少しは肩も凝りそうだ。
何かいい案はないかしらとしばらく考えていると、竜が魔石のことを知っていることにようやく気がついた。
「あれっ?ハシバミ竜さま、魔法使いの魔石のこと知っているのね?」
「おお、もちろん知っているとも。それはそうと、其方にそのように呼ばれるのはなんだか窮屈に感じるな」
そう言うと、竜はいたずらっぽい目でわたしを上から見下ろした。
当初に比べると、だいぶ目線が高くなっている。
うまく体を持ち上げられるようになってきたらしい。
「あら。でも、それならなんて呼べばいいかしら?」
ハシバミさん?竜さん?
うーん。どれもピンとこない。
「私にも名前がある。レシャーチカだ。レスと呼んでくれればいい」
「わあ、いい名前。それなら私もアリスと呼んでほしいわ」
レスは満足げに、またゆっくりと前足に力を込めて、少しだけ立ち上がった。
ヒュウと風を切る音がして、後ろが俄かにざわついた。
リュドが帰ってきたらしい。
期待して振り返るがそこに立っているのはリュドだけで、ルサールカの想い人だというウルリウスの姿はどこにもなかった。
「ウルリウスはどうした」
アブソレムが早足で近寄り尋ねる。
リュドは相当急いだらしく、肩で息をしていて苦しそうだ。
だが何も言わずとも、彼の真っ青な顔色で良くない知らせがあることを皆が感じ取っていた。
「まさかいなかったのか?」
トーマもリュドの側に駆け寄って来ていた。
「いえ、確かにおりました。丘の上に林檎の木のある、墓の下に」
リュドが荒い息のままそう言った。
その途端、しーんと辺りが静まり返る。
まさか死んでしまっていたなんて、これは予想していなかった。
わたしは口を半開きにしたまま固まってしまう。
こんなこと、ルサールカになんて言えばいいんだろう?
皆が一様に押し黙って考え込んでいると、アブソレムがレスとわたしのいる方へと戻って来た。
「ハシバミ竜、せっかくの人探しを無駄にしてしまって申し訳ない」
アブソレムが目の前で立ち止まってそう頭を下げると、レスは軽く首を横に振ってそれを辞めさせた。
「それは別に構わないが、ルサールカをそのままにしてもらっては困る。ヴォジャノーイがあの湖に返ってこないと、私は退屈で仕方ないのだ」
「レスはそんなに退屈しているの?それならたまにサンテ・ポルタへ遊びに来たらどう?」
レスの目がパアッと明るくなったのと比例して、アブソレムは思い切り目を見開きこちらを凝視した。
「なんだと?レス?遊びに?一体何の話だ?」
「いいのか?アリス。それは楽しみだ」
アブソレムの顔などには全く目もくれず、レスは二つ返事で了承してくれた。
「わあ、よかった。わたしもまたここに遊びに来てもいい?」
自分そっちのけでどんどんと予定が立っていくのをポカンと眺めていたアブソレムは、もう限界だとでも言うように頭を押さえて深いため息をついた。
遊ぶ予定が無事立ったところで、わたしたちは頭を寄せてようやく作戦を練ることにした。
ルサールカは想い人が帰ってこないと知れば、次の晩にはまた片端から人を襲い出すだろう。
どうにかして止めなければ、レスの唯一の森での友達であるヴォジャノーイも返ってはこない。
「そもそもルサールカはウルリウスが現れるまでは、人を襲っていなかったのよね?その時のように戻す方法がないかしら」
「ない。恋人に捨てられたルサールカはずっと人を襲い続ける」
うーん、そう簡単にはいかないか……。
そもそもどうして人を襲うんだろう?
もしかしたらそこにいる彼がウルリウスかもしれない、と思って引き摺り込むのだろうか?
そうだとすれば、なんだかとても寂しい話だ。
彼女は一体何度、引き摺り込んだ人の顔を見て「また想い人ではなかった」と落胆したのだろうか。
「魔法使い、其方はルサールカと話したと言っておったな?」
レスがアブソレムへそう聞いた。
「ええ。我々魔法使いや精霊にはあの歌は効きませんから」
「それならばそこへ行って話を聞こうではないか。ここでいくら話していても、何も解決はしまい」
レスはそう言って、地面を強く押してぐぐっと体を起こした。
巨木に体が当たってザワザワと葉が揺れる。
まるでさざ波のように長い胴体が次々と起き上がっていき、ついに鋭い鉤爪の後ろ足まで完全に立ち上がることができた。
立ち上がったレスはものすごく大きく、見上げてもうまく顔が見えない。
足元では土ほこりがもうもうとあがり、体は星明りを一身に受けてこれ以上ないほど輝いていた。
「わあ!立ち上がれたわ、レス!すごいわ!」
わたしが手を叩いて喜んでいるのを、隣でアブソレムがこの世のものではないものを見るような目つきで見つめている。
「ありがとう、アリス」
レスはそう言って一度礼をすると、今度は猫が伸びをするように背中を大きく反った。
すると、退化してしまったかのようにひしゃげていた翼がパキパキと音を立てて真っ直ぐ伸びていく。
蜩の羽化と同じで、脱皮直後で翼が乾いていなかっただけらしい。
まっすぐに伸ばしたそれは、絵本で見たドラゴンそっくりの立派な翼だった。
「飛べば早い。湖まで乗せてやるぞ」
レスがそう言って下ろしてくれた長い首に、わたしは嬉しくなってぎゅっと抱きついた。
アブソレムがトーマたちを呼びに行くと、皆は怖がりながらもそろそろとレスに近づいて来た。
「そんな、ハシバミ竜に乗るだなんて……」
トーマは困惑した顔で、竜の首に抱きついているわたしを見る。
「いいから早く乗れと伝えてくれ。夜が明けたらルサールカは湖へ潜ってしまう」
レスの言葉をそのままトーマたちに伝える。
トーマとアルはお互い不安そうな顔を見合わせてから、レスの背中によじ登った。
アルは興味深そうに翼をじっと見つめ、トーマは手元の鱗を撫でながら、感嘆したように息を漏らしている。
「トーマ様、私は歩いて戻って鉱山の入り口にいる兵士たちを連れて参ります」
すぐ側に真っ直ぐ立っているリュドがそう言った。
ふたりの兵士たちもその後ろに控えていた。
確かに、待っている兵士たちを連れて行く役目は必要だろう。
「そうだね、頼んだよ。湖まで連れて来ておくれ」
「はい」
リュドはそう返事をすると、横穴の前まで下がった。
わたしたちを先に見送るつもりらしい。
「それではハシバミ竜よ、失礼する」
最後にアブソレムがわたしの後ろに飛び乗った。
レスは4人がきちんと乗っていることをちらりと横目で確認してから、ぐっと体制を低くする。
最初はゆっくりと翼を上下に動かしていたが、そのうちにどんどん早くなる。
巨木がバサバサと枝を揺らし、葉を散らす。
もうもうと砂煙が立つせいで、リュドとふたりの兵士が腕で目を覆っているのが見えた。
わたしは風で帽子が飛ばされないように、急いで脱いで脇にしっかり挟みこんだ。
あ、飛び立った、と思ったのと同時に、目に飛び込んで来たのは満天の星空だった。
レスが飛び立つと体が90度傾き、ぐんと重力で地面へと引っ張られる。
巨木の横をすり抜け、洞窟の天井を一足で飛び越えた。
あまりのスピードに、顔に当たる空気の層を感じる。思わず目をつぶった。
こんなに重力って強かったのか。振り落とされそうになり、ぎゅっと余計に首へとしがみつく。
落ちたらひとたまりもないだろう。怖い。手に汗が吹き出した。
「アリス、怖がるでない。他の者はどうあれ、君のことは落としたりせん。私の森は美しいだろう」
耳の奥に響くレスの言葉で、恐る恐る目を開ける。
上昇しきったようで、風は弱まっていた。
「わあ……」
眼下に広がるヴォジャノーイの森は、思っていたよりもずっと広かった。
一面の星空と森しか目に入るものがない。
空気は冷たく、木々の香りが空にまで届いていた。
奥の森には薄く霧がかかっている。本当に美しい景色だった。
「ああ、しかしケルピーのいた辺りの森はやられてしまっているな」
レスは忌々しそうにすぐ真下の森を睨んだ。
体を乗り出して覗き込むと、確かに所々森が暗い色になっているところがあった。
「アリスたちが入って来た入り口は、あの辺りか?ケルピーの湿気でさぞ酷かったであろう」
「うん、確かに重苦しい感じだったわ」
湖までの道を思い出す。
足元がぐちゃぐちゃと鳴り、ずんと肩にのし掛かるような湿気だった。
「いつもはもっといい森なのだ。全く、これを治すのには骨が折れる」
「レスが治すのね?どうやってするの?」
「一本一本、地道に木を治療していくしかない。陽が地を早く乾かしてくれると楽になるのだが、ここまで湿気がひどいとなかなか時間がかかるだろうな」
それは気の遠くなりそうな作業だ。
わたしはもう一度下を覗き込み、暗くなった木の範囲を確認する。
まずは入り口から湖まで。そこから横にポツポツと暗い部分がある。
ケルピーが歩いたところが全てダメになっているということだろう。
なにかわたしにできることがないかと考えていると、ひとつだけアイデアが浮かんだ。
魔石袋を上から片手で押さえて確認する。
うん、確かあの石はまだあったはずだ。
「地面が乾けばいいのよね?」
「ああ、そうだな」
「それならあとでちょっと試して見たいことがあるの」
レスは不思議そうにこちらを一度振り返った後、「よし、降りるぞ」と言った。
もう湖の上まで来ていたらしい。一瞬で着いてしまった。
「降下するぞ、捕まれ」
声が聞こえたらしいアブソレムが、トーマとアルに向かってそう叫んだ。
レスは湖を一周ぐるりと周り、降りる場所を探したあと、突然垂直に降下し始めた。
まるでジェットコースターだ。
レスが落とさないと言ってくれてから、全く怖くなくなっていた。
そして絶叫ものが大好きだったことを思い出し、片手をあげて大きな歓声をあげた。
「最高だわ!」
無事湖のほとりの開けた部分に降り立ち、レスから飛び降りたわたしは興奮して叫んだ。
「そうか、そんなに楽しかったなら何よりだ」
レスは首を左右に振りながら、翼を畳む。
洞窟の外で見るスッとした竜の立ち姿は、先ほどよりもずっと伸び伸びとしていて立派に見えた。
「とても楽しかったわ、ねえ!」
そう振り返ると、後ろにはぐったりと座り込んだトーマとアルの姿があった。
「ああ、楽しかったよ……」
「アリス、お前、頭大丈夫か?」
真っ青な顔をしているのに口では楽しかったと取り繕う紳士なトーマとは違い、アルは思い切り毒付いた。
「俺、次乗ったら吐いちゃう」
そう言って立てた膝の間に頭を埋めたアルの頭を、平然とした顔のアブソレムが軽く叩いた。
「それでは、トーマとアルはこの辺りで休んでいてくれ。そのうちにリュドたちが合流するだろう」
トーマとアルが軽く手を上げて、了解の合図を送る。
「それでは、わたしたちはルサールカの元へ行こう」
アブソレムの目線の先には、変わらず岩の上に座り、こちらをじっと見つめるルサールカの姿があった。
やはり風もないのに、美しく輝く緑色の髪がたなびいている。
先程よりもずっと近くで見るルサールカは、息をのむほど美しかった。
青白く透ける陶器のような肌、色のない唇。
まつげは青とも緑ともつかない色で、すべてが水に濡れている。
あまりの美しさに解けそうになった警戒心を、ぐっと持ち直す。
岩の上に見えている腰から上は美しい女性だが、腰から下は巨大な人魚のようになっているはずだ。
わたしはフウゴを引きずり込んだ時の彼女を思い出し、手をきつく握った。
「待たせた、ルサールカ」
アブソレムが待ち合わせに遅れて来たような気軽さでそう声を掛ける。
わたしはギョッとしてアブソレムの横顔を見た。
彼には恐怖心というものがないのだろうか。
緊張したり、怖がっている姿を見たことがない。
「それで、彼はどうでしたか」
歌声でないルサールカの声は、凛と冷たくてか細い、氷の割れるような声をしていた。
ああ、これから彼女に、恋人はすでに亡くなっていることを伝えなければならないのか。
どうやってアブソレムは伝えるんだろう。なるべくオブラートに包んで、絶望が少なくなるように伝えて上げてほしい。
わたしの祈るように目を瞑り両手を組んで、アブソレムの次の言葉を待った。
「申し訳ないが、彼はすでに死んでいた」
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