第37話 水の精霊と雄羊、氷の鷹
「魔法使いの令を守るためには、仲間も傷つけるか」
ケルピーは、落とし穴の中でのびきっているアルを冷たい目で見下げている。
妖精が興味をなくした瞬間と全く同じ、ガラス玉のように冷たい目だ。
わたしは魔石袋に手を入れたまま、じっと様子を伺っていた。
直接的な戦闘はできるだけ避けたい。
魔石の使い方も良く分かっていない今のわたしには荷が重いのだ。
「ケルピー。そこのふたりは耳栓をつけているから、あなたの声は届かないわ。他の人たちは歩けないでしょうし。もう帰ってもらえないかしら?」
わたしはトーマとリュドを指差してそう話す。
ケルピーはふたりを値踏みするようにじっと見た。
「……なるほど」
彼は蹄で軽く足元の土を掻き、首を深く下げて俯いた。
もしかして、諦めてくれたのだろうか?
わたしはそうであって欲しいと強く願う。
魔石袋の中の手が汗でじっとりと滲んでいた。
「それならば、彼らに栓を取らせれば良いだけのことだ」
ケルピーはそう言うや否や、足元の土をこちらに向かって思い切り蹴った。
咄嗟に顔をかばい、体勢を低くする。
後ろでトーマとリュドが「アリス!」「魔女様!」と口々に叫ぶのが聞こえた。
急いで顔を袖で拭って目を確認する。
大丈夫、泥は目には入っていない。
すぐ体勢を整えなければ。ケルピーはどこ?
わたしが顔をあげたその時、目の前にケルピーの大きな顔があるのが目に入った。
思わず短く叫び声をあげて後ろに飛び退く。
どうしてか分からないけれど、彼の体に触ってはいけないと頭の中で警鐘が鳴っている。
絶対に触らないようにこの状況を切り抜けなければ。
「意外と反応が早いな」
ケルピーはこちらを見つめたまま、また地面を前足で掻きだした。
わたしは魔石袋を探りながら、どの石をどのように使えばいいのか考える。
ケルピーは馬?
馬って何が苦手なんだろう?どうしたらいい?
また土の石で落とし穴を使って、落としてしまえばいい?
でも、あの脚ではどんな高さの穴もひと飛びで越えられるかもしれない。
湖の中に連れて行くと言っていた。
ということは、ただの馬ではなく、水の生き物に近い?
それなら火が効くかもしれない。
「一か八かだわ」
わたしは袋から火の石を取り出し、ケルピーに向けて掲げた。
彼は驚いた顔をして、思い切り後ろに跳ぶ。
初めて表情が変わった!やはり火が苦手なのかもしれない。
「火よ、燃やして!」
魔石が手の中でパキンと割れて真っ赤な光が溢れた。周囲の地面や木の幹に這うように広がっていく。まるで生きているような光だ。
その光が草木に当たったところから順に炎となって燃えていった。
足元の草や近くの木の葉がパチパチと音を立てている。
しかし、あと一歩のところで光はケルピーのところまで届かなかったらしい。
火の届かないところまで逃げたケルピーが、嘲笑うように口を開けたのが見えた。
「この森で火とは、愚かな」
ケルピーがグッと前足を上げて棹立ちになる。
その途端、周りでパチパチと燃えていた火が爆発的に勢いを増した。
「きゃあっ!」
火が突如として威力を増して襲いかかってきて、わたしは思わず頭をかばい一歩後ずさる。
今、なにをしたの?
一瞬で辺り一面が火の海になってしまった。
慌てて振り向きみんなの無事を確認する。
炎はまだ兵士たちのところまではまだ届かなそうだ。
トーマとリュドは炎の壁の向こう側、安全な場所にいる。
アルは穴の中に落ちているから、少しは大丈夫だろうか?
でも、なんだか燃え方がおかしい。先程とは違い、枯れ木に火をつけた時のような燃え方だ。
こんなに湿っている森なのに、このままじゃすぐに燃え広がってしまうだろう。
ケルピーは前足で空中を掻きながら、何か聞き取れない言葉を吐いている。
その言葉を吐くたびに、炎の勢いが増した。
なんとかして止めなければ。
火には水?それしかないよね?
もうさっきのような失敗はできない。
魔石袋から水の魔石を取り出して、ごうごうと音を立てている炎に向ける。
消火器のような水を想像しようとしたが、消火器で対応するには範囲が広すぎる。
どうしようかと迷った挙句、大きなバケツを想像した。
「お願い、水!火を消して!」
魔石がパキンと割れ、青い光が溢れる。
頭上の空には想像通りに巨大なバケツが出現していた。
バケツなんてずっと昔に使ったきりなので、園児の時に持っていた黄色の砂場用バケツだ。
なんていう間抜けなイメージ。この状況にあまりに似つかわしくない。
「ひっくりかえせっ!」
高く上げた両手を振り下ろすと、頭上のバケツがそれに合わせてグラリと倒れた。
中から大量の水が降ってくる。よかった、この量なら火は消えそうだ!
「またおかしなものを」
ケルピーがバケツを睨みつけながらそう吐き捨てた。
彼はまた後ろ足だけで立ち上がると、降り注いでくる水に向かって何かを叫ぶ。
すると水はみるみるうちに進路を変え、全て残らずケルピーの体へと吸い込まれてしまった。
「えっ……!?」
これで消火できるという期待を裏切られ、わたしは呆然と立ち尽くした。
水は一体どこにいったの?
「無駄だ。私はケルピー、水の精霊。全ての水は私の支配下にある」
ケルピーの言葉が頭の中でぐるぐると回る。
炎は依然として強さを増していて、ごうごうと音を立てて木々を焼き尽くしていた。
火も効かない、水も効かない。じゃあどうしたらいいの?
もう火は兵士たちのところまで届いてしまいそうだ。
炎の向こうにいるアルのことも気になる。
魔石袋を握りしめたまま、涙が溢れだす。
どうしよう、アブソレム。わたし、みんなを守れないかもしれない!
震えるわたしの手を、誰かの手がそっと包んでくれた。
突然のことにビクッと肩を震わす。
冷たい手だ。アブソレムが来てくれた?
バッと顔を上げると、そこにはトーマがにっこり笑って立っていた。
炎を飛び越えて来たらしい。服や肌が所々焼けてしまっていた。
「大丈夫、アリス。がんばったね」
「トーマ……!来てはダメよ、魅了が効いてしまう!」
慌てて彼の耳を確認すると、やはり耳栓を外してしまっていた。
声が届かないように彼の耳を抑えるわたしの手を、トーマは握ってゆっくりと下ろした。
「彼の声が効く前に終わらそう。でも、もし僕が魅了されたら、アルのように穴に落としてね」
クスッと笑ってそう言った。
その話し方があまりにもいつもと同じで、わたしは余計に泣きたくなってしまった。
「さあケルピー。今度は僕が相手だ」
トーマがわたしの手を握ったままケルピーに向き直る。
「人が何人集まったところで、この森で水の精霊に勝てるはずがない」
ケルピーがそう嘲笑うが、トーマはまだいつもと同じように微笑んでいる。
「だから僕が相手なんだよ。僕はクロス派のトーマ・ベルナール。この国で一番強く水の加護を得ている一族だ」
「一番強い水の加護だと?たかが人ごときが」
ケルピーは苛立たしげに蹄を鳴らした。
トーマはまだ余裕の表情を崩さず、うんうんと笑顔で頷いている。
「あれ?僕を知らないんだね。不敬だなあ」
「人の子の名など知らぬ」
「君って、自分のいる国の名も知らないの?国の名が僕の名前なのに?」
わたしはハラハラしてトーマと繋いでいる方の手を軽く引っ張ってみるが、彼は声を出さずに「大丈夫」と唇を動かして伝えてきた。
どうやらわざと煽っているらしい。
ケルピーは怒りで鋭く嘶いた。
「あはは。そうやって鳴いていると君、ただの馬に見えるね」
トーマの煽り文句が嫌らしすぎて、わたしはあんぐり口を開けてしまった。
王子様なのに、この煽りスキルはどこで習得したのだろう?
ケルピーはいよいよ激怒し、また前足を高く上げて棹立ちすると、トーマの目を真っ直ぐに見て何かを叫んだ。
その声に反応した炎が、周囲から一気に渦を巻いてトーマとわたしに襲いかかってくる。
あまりの炎の勢いに、もうだめだとギュッと目を瞑って顔をかばうが、炎は一向に向かってこない。
おかしいと思って恐々目を開けると、わたしたちの体は水でできた壁に守られていた。
水の壁は厚さ20センチ程あり、わたしたちをぐるりと取り囲んでいる。
停滞している水で作られているわけではなく、まるで滝を切り取ったようだ。
突如として空中から水が現れて、地面に溜まらず消えていく。
その不思議な光景に、わたしは恐怖も忘れてまじまじと観察してしまった。
水の壁に顔を近づけると、鼻先がひんやりとする。
火傷した肌に冷たい空気がとても心地よかった。
隣を見ると、トーマが軽く右手を上げている。
この壁は彼が作り出しているらしい。
「トーマ、すごい!」
わたしは歓声をあげる。
炎はまだ壁の外では燃えているけれど、壁の中は完全に鎮火されていた。
「よかった、これくらいが彼の本気なら、なんとか太刀打ちできそうだよ」
トーマは笑顔のまま手を軽く振った。
すると水の壁はみるみるうちに形を変えて、大きく巻かれた角を持つ雄羊になった。
壁と同じく水でできているその透き通った羊は、炎に照らされてぬらぬらと光っている。
とても美しい。
「アリス。僕がケルピーの攻撃を捌くから、君は彼に攻撃する手段を見つけて」
トーマが雄羊をケルピーにけしかけながらそう言う。
雄羊は脇目も振らず突進して行った。
「攻撃する手段って言っても……」
炎もだめだったし、水もだめだった。どうやって攻撃したらいいのか皆目見当がつかない。
「ケルピーは魔石を取り出すたびにとても警戒していた。何か苦手な加護があるのだと思うけど」
「うーん、そうね……。火と水、土の石を向けてみたけど、どれも驚いていた気がするわ。何が苦手なんだろう?」
「いや、アリスには違う色に見えるだろうけど、僕らには全部同じ石に見えるんだよ」
あっ、そうだった!
そのことを完全に忘れていた。
ということは、ケルピーは攻撃される瞬間まで、一体どの加護の攻撃かは分からなかったはずだ。それでは何が苦手なのか全く分からない。
自分は水の精霊だと言っていた。うーん、水……。
水の苦手なものってなんだろう?
火はダメだった。となると……。
わたしの頭の中に、パッとサンテ・ポルタの食堂の風景が浮かんだ。
あの食材を入れておく冷たい箱のある風景だ。
「トーマ、もしかしてあなたって、水を凍らせたりできる?」
「うん。できるよ」
わたしは考えた作戦をトーマに小声で伝える。
うまく行くかは分からないが、他に思いつく良い手があるわけではない。
トーマは二つ返事で了承してくれた。
「それじゃ、いい?雄羊を呼び戻すよ」
「準備OKよ!」
わたしは土の魔石を握りしめ、ぐっと親指を立てて見せる。
トーマは軽く頷くと、今にもケルピーの前足で踏まれてしまいそうな雄羊に片手を向けた。
ぐにゃりと羊の体が崩れて、トーマの方へ水の固まりとなって飛んでくる。
トーマの所へ到達する前に腕を高くあげると、水の塊はその軌道に沿って上に飛び上がり、次の瞬間には二匹の氷の鷹の姿に変わっていた。
二匹の鷹は凄い冷気を辺りに振りまきながら、ケルピーへ真っ直ぐ飛んで行く。
鷹が通った後には、氷の粒が宝石のようにバラバラと落ちていた。
すごい!加護、すごい!とわたしは心の中で大歓声を上げながら、土の魔石を強く握りなおす。今度は私の番だ。
「土よ!降ってきて!」
そう叫ぶと、頭上に巨大な園芸用の土がビニールに包まれたまま現れた。
うわあ、わたしの土に対するイメージの貧困さが浮き彫りになってしまったわね……。
園芸用の土のビニールを半分に割るイメージを念じると、考えた通りに真っ二つにビニールは裂け、中から大量の土が降り注いできた。
炎の上に落ちた土の下から、ジュウウという火の悲鳴が聞こえる。
二匹の氷の鷹を出している間は火の相手ができないトーマに変わって、わたしが土の魔石で消火を担当することにしたのだ。
やはり水ではなく、土での消火を選んで正解だったようだ。
次々と炎が消えていき、ケルピーが怒りのあまりまた強く嘶いた。
その体に氷の鷹が突進する。
鷹が触れた箇所がみるみる凍りついていき、ケルピーが今度は怒りではなく恐怖の嘶きをあげる。
やった!このままうまくいけば、成功だわ!
わたしはガッツポーズをしてトーマの方を振り向く。
トーマは二匹の鷹を両手で忙しなく操りながら、「やっぱりそうやって鳴いてると、ただの馬だねぇ」と笑顔で呟いた。
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