第36話 ケルピーの魅了

アブソレムがルサールカに近づくと、またピタリと歌が止まった。

フウゴの時と同じことが起こるのかと身構えたが、ルサールカはアブソレムに何かを話すだけで、湖の中に引きずり込もうとはしなかった。

アブソレムも何か答えている。ルサールカは豹変せず、穏やかなままだ。

一見するとただの井戸端会議のように見える。

わたしはその光景を見て少しだけ拍子抜けしてしまった。

話はすぐには終わらなさそうなので、アルやトーマ、兵士たちに耳栓を取ってもいいとジェスチャで伝える。

みんなは辺りの様子を伺いながら、恐々耳栓を取った。


「もう、大丈夫なの?」

トーマが心配そうな顔をして、ルサールカと話すアブソレムを見ている。

「ひとまず、アブソレムが彼女と話している間は大丈夫よ。でも、歌声が聞こえたらすぐに耳栓をしてね」

わたしの説明に、みんながギュッと耳栓を握りなおすのがわかった。

歌声が聞こえたら先ほど見たフウゴのようになるのだから、怖くて当然だ。

「アブソレムが話している間、誰も湖に近づかないようにって言われたの。みんなでまとまってここにいましょう」

周りの兵士たちが青い顔をして一斉にウンウンと頷いた。

「あんなの見ちゃ、誰も近づこうとは思わんよ」

「そりゃあそうだ」

みんなは小声でボソボソと話し出した。

話の内容はどんなに怖かったか、果たして湖の中の兵士達は無事なのか、この後どうなるのかといったところだった。


「アブソレムはどうやって皆を助けるつもりだろう?」

トーマが湖から目を離さずそう言った。

やはり自分の従者たちが心配なのだろう。

「分からない。ルサールカと話してくるって、それだけしか言ってなかったから」

「アイツはルサールカって言うのか?」

隣にいたアルが話に入ってきた。

そのすぐそばにはリュドが立っている。

「アイツがこの森をこんな風にしたのか?」

アルはイライラしているようだった。

よほどこの森に思い入れがあるようだ。

「この森は最近、入った人が戻ってこないという噂がありまして、皆怖がってどんどん人が立ち入らなくなっていました」

リュドがわたしとトーマに向かってそう報告した。

なるほど。そうなると湖の中にいるのは兵士達だけではなさそうだ。

でもアブソレムは、朝を過ぎると保たないと言っていた。

昨夜までに湖へ入った人たちは、既に生きてはいないだろう。

わたしは自分の胃がぐっと重くなるのを感じた。

イライラと落ち着きのないアルの肩に、リュドが手を置いた。

「アル、少し落ち着きなさい」

「リュド兄は平気なのか?俺らはあの湖で何度も泳いだことだってあるのに!」

あんな魔物に汚されて黙っているなんてできない、とアルは吐き捨てるように言った。

「平気なわけではないが、今は私たちに出来ることは何もないだろう」

「それはわかってる。でも……。俺らの村の人が何人も、この下に沈んでいるかと思うと……」

わたしがなんて声をかけていいのか迷っていると、すぐ側の森から聞きなれない低い声が聞こえた。


「ヤイヤイうるさいねぇ」

一斉に全員がハッとそちらを向き、身構える。

声の主はガサガサと葉を揺らしながら姿を現した。

そこに立っていたのは一頭の美しい栗毛の馬だった。

すっと立つ姿が絵画のように美しい。まつ毛の長い目が、苛立たしげにこちらを見ていた。

風もないのに、たてがみがふわりふわりと風に吹かれたように揺れている。

「な、何者だ」

一番近くにいた兵士が剣を抜きながらそう聞いた。

見かけは翼もなくただの馬に見えるが、言葉を話す馬は見たことがない。

恐怖からか膝がガクガクと笑っている。

「うるさいから文句を言いにきただけだよ。そんなものしまっとくれ」

馬はうんざりとした口調でそう言うと、首を振ってまとわりついた湿気を払った。

兵士の剣には全く怯える様子はなく、無視してこちらに近づいてくる。

それを見たトーマとアル、リュドがわたしを庇うように一歩前に進んだ。


「うるさくして申し訳ない……、あなたは誰ですか?」

アルがそう話しかけた。

馬へ普通に話しかけたことに、トーマがギョッとしているのが後ろ姿からも伝わってきた。

「まず自分から名乗るべきではないかね」

馬は大人の男性のような話し方をしている。

「あ、ああ……。確かにそうだ。俺はアル」

馬はアルを横目で一瞬だけ見たが、すぐに興味を無くしたようだった。

ブルブルと首を振ると、「そこのお嬢さん、名前は」と聞いた。

「わたし?わたしは魔女のアリスです」

うう。話しかけられてしまった。仕方なく、そう挨拶した。

腰を曲げてトーマとアルの腕の間から無理やり向こう側を覗き込むと、馬は品定めでもするようにこちらをじっと見ていた。

「この国にも魔女がいたのか。彼だけでなく」

馬はアブソレムとルサールカの方へチラリと視線を送った。

なにかを考えているようだったが、その目に浮かぶ感情までは読み取れなかった。


「私はケルピー。この森に住んでいる」

ケルピーはそう言って前足を折ると、頭を下げるように挨拶をした。

アブソレムは、何者かが近づいてきても話すなと言っていた。

このまま話しこんでしまうのはとても良くない気がする。

わたしは早く話を切り上げたなければと、少し焦りを感じていた。

「へえ、なんだ。危険なやつかと思っていたけど、大丈夫そうだな」

アルはケルピーが頭を下げたことに気を良くしたようだった。

一気に態度が軟化している。

「ご丁寧にどうもありがとう。申し訳ありませんが、わたしたち今忙しいのです」

わたしはそう話を切り上げようとするが、うまくいかなかった。

「それはわかっている。ご友人を助けだしたいのだろう。あの湖の底から」

ケルピーのその言葉に、アルが反応した。

「そうなんだよ!もしかしてどうにか出来るのか?」

わたしは嫌な予感がして、話を止めようとアルの腕をグッと掴んだ。

思い切り引っ張っているのに、アルはこちらを見ようともしない。

止めなければと思うのに、震えてしまって言葉が出てこない。これは恐怖だろうか。

「ふむ。それならば私の上に乗るといい。底まで安全にお連れしよう」


背中に乗れというケルピーの言葉に、血の気が引くのを感じた。

人の言葉を話せるだけの、ただの賢い馬かもしれないというわたしの甘い考えは間違いだったことがわかった。

この状況で湖に誘うなんて、どう考えてもおかしい。

ケルピーの長いまつげで縁取られた目の奥に悪意が潜んでいるのを感じて、わたしはサッと視線を外す。

その視線に気が付いたように、ケルピーは言葉を続けた。

「私の脚なら湖の底まで瞬く間に着ける」

わたしも兵士たちも、誰も何も返さない。

低い声が森に染み込んでいくようだ。

ケルピーの声は不思議だった。

確かに理解できる言葉なのに、どこか違う国の言葉のようにも聞こえる。

じっと耳をそばだてていないと、聞き取れないのだ。

そのため、嫌が応にも会話に集中してしまう。


「今この瞬間にも、ご友人が息絶えているかもしれない」

お願い、このまま誰も返事をしないで。

わたしは震えるほど強くこぶしを握り、ルサールカと話し込んでいるアブソレムを見つめる。

彼の声はなんとも言えない魅力があり、気を緩めるとすぐに振り返ってしまいそうになるのだ。

「湖の底はさぞ冷たいだろう」

その言葉を聞いた瞬間、わたしの脳内にブワッと湖の底の映像が流れ込んできた。

冷たい水、絡みついた海藻。囚われている兵士の口から細かい気泡が漏れている。

今まさに事切れてしまいそうな兵士がそこにいる。

わたしは叫びたくなるのを精一杯堪え、左の手首を痛いほど強く握ってその光景を振り払った。

危ない。きっとこれはケルピーが見せている幻覚だ。

慌てて周りを見回すと、兵士たちはほとんどぐったりとその場にへたり込んでいた。

トーマとリュドは辛うじて立ってはいるが、真っ青な顔をして頭を抑えている。

きっとわたしも似たような顔色をしているに違いない。


「本当か?みんなを助けに連れて行ってくれるのか?」

突然そう言うアルの声が聞こえて、わたしは頭がぐらりと揺れるのを感じた。

「ああ。君が背中に乗ってくれれば、すぐにでもお連れしよう」

ケルピーは表情こそ変わらないが、勝ち誇ったような声をしている。

どうにか止めなければと、わたしは震える顎に力を込めて思い切り舌を噛んだ。

口の中に血の味が広がったが、鋭い痛みでどうにか話すことができた。

「ちょ、ちょっと待ってよアル。アブソレムが湖には近づくなって言っていたでしょ?」

アルの顔を覗き込んで止めようとするが、その目を見た瞬間固まってしまった。

妖精に魅了されていた時と全く同じ目をしているのだ。

「ああ……。確かにそうだ」

アルはぼうっとした顔のまま、首を細かく振ってそう言う。

妖精の時と比べると、まだ完全に魅了は効いていないように見えた。

わたしはトーマとリュドに、急いで耳栓をつけるように指示する。

ケルピーについては何も知らないが、声を聞くたびに目がおかしくなっていっている気がする。

ルサールカと同じく、声が危険だと判断したのだ。

アルだけでなく、ふたりまで魅了されてしまっては収拾がつかない。

兵士たちはみんな力なく座り込んでいるため、湖に向かって動く危険はないだろう。


「アブソレム……?あそこにいる魔法使いか。彼は何をしている?」

「違うわ!アブソレムはルサールカと交渉をしに行ったのよ。みんなを返してもらうために」

わたしはケルピーに向けてではなく、アルに向けてそう話す。

お願いだから目を覚まして。

「なるほど、交渉とはおもしろい。あの怪物と話ができるとでも言うのか」

ケルピーの言葉のひとつひとつが、重くアルにのしかかっているのが手に取るように分かる。

「確かにそうだ……。直接助けに行かなくては、死人が出る……」

アルの瞳が揺れている。どんどんと遠い目になっていく。

わたしはアルの両肩を掴むと、半ば叫ぶように言った。

「アル!他の誰でもない、アブソレムがここで待てって言ったのよ!」

それを聞いて、アルの目に光が戻ってくる。

ああよかったと思ったのもつかの間、ケルピーの声がすぐ側で聞こえた。


「どうやら魔女は恐れているようだ。このままでは皆が揃って冷たい湖の底。誰かが守らねば」

この一言が決め手となり、アルは完全に魅入られてしまった。

光が消え、焦点の合わない目をして、ケルピーに近づいて行く。


どうしよう。ケルピーの背中に乗ってしまったら絶対に良くないことが起きる。

誰かが湖に近づいたら、どうなるとアブソレムは言っていただろう?

だめだ。誰も近づけてはいけない。

わたしはアブソレムから、みんなを守れと言われたのだ。

アブソレムがわたしに何かを頼むなんて、初めてのことだ。

どうにかしてアルを止めなければいけない。

どうしたら魅了を解ける?妖精の時はソレルを使った……。

でもここにはソレルなんて無い……。

薬箱にソレルはあったかしら?

……でもあったとしても、探している暇なんてない。

ああ、アルの手がもうエルピーに届いてしまう。

もうこうするしかない。


わたしは決心すると、首から下げた魔石袋に手を突っ込み、適当にひとつ取り出した。

手の中には土の魔石が握られていた。

「土……、土……。ええと、落とし穴!」

わたしがアルに魔石を向けてそう叫ぶと、カッと手の中の魔石がオレンジ色に光った。

あまりに強い光に、まさか爆発したのかと思い、「ヒェッ」と情けない声を上げる。

そして轟音とともにもうもうと土煙があがり、アルは忽然と消えてしまった。

アルのいた場所には、巨大な落とし穴があった。

慌てて穴に近づくと、2メートルほどもある大きな落とし穴の中で、アルが人形のように倒れこんでいるのが見えた。

慌ててじっと見つめると、息はしていた。失神しているだけのようだ。


わたしはホッと息をはくと、立ち上がってケルピーを睨みつける。

彼は相変わらず表情を変えず、こちらを眺めていた。

「ほう、そうくるとは思わなかった」

「アルを連れて行かないでちょうだい」

ケルピーは激怒して、襲いかかってくるかもしれない。

強硬手段に出て誰かを攫って行くかもしれない。

先ほど噛んだ舌が思ったよりも切れているらしく、口の端から血が流れるのを感じる。

わたしは身構えて、片手をまた魔石袋に突っ込んだ。

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