第35話 ルサールカの歌声
「耳栓?」
わたしがそう聞いて手を伸ばすと、アブソレムはその手を避けるように耳栓を高く上げた。
「アリスはしなくても良い。他の者は皆受け取るように」
「ちょっと、どうしてわたしはつけなくていいのよ?」
アブソレムが皆に耳栓を一組ずつ配るのを見ながら文句を言う。
「君は魔女だから必要ない」
アブソレムは軽く周りを見回し、わたし以外の全ての人が耳栓を取ったのを確認した。
「アル、この先には何がある」
「ええと……確か、湖があるはずだ」
では多分そこだな、と独り言を言ってから、アルに詳しい場所を聞き出す。
ここから北西に少し行ったところに湖があるらしい。
「その湖の底に、皆はいるはずだ」
「えっ!?底に!?てことは……その……」
緑色の目の若い兵士が怯えた叫び声をあげる。
既に死んでしまっているのかと聞きたいらしい。
「まだ朝がきていないため、死んではいない。ただ、このまま朝になれば確実に命はないだろうな」
わたしはその言葉を聞いて体が震えるのを感じた。
さっきまで側にいた兵士がみんな死んでしまうなんて、考えるだけで恐ろしい。
「これから皆は耳栓をしてしまうから、その前にいくつか注意しておくことがある」
アブソレムがゆっくりと説明を始める。
まるでいつもの庭でいつもの講義をするような気軽さだ。
「ここから先、湖に近づくと、歌が聞こえるはずだ。耳のいい者は、耳栓をしても歌が聞こえる場合があるだろう。そうなったらすぐに引き返すこと」
歌が聞こえる?
思い掛けない注意事項に、わたしは眉間にしわを寄せた。
こんな森の中に、歌を歌っている人がいるの?
「全く歌が聞こえない者だけ、私とアリスについてきなさい。また、途中で靴を脱ぎたくなった者もすぐに引き返すこと」
靴を脱ぎたくなる?
ということは、先発隊の皆は自分の意思で靴を脱いで行ったと言うことだろうか?
アドバイスがいちいち理解し難いもので、皆一様に首を傾げたり眉間にしわを寄せたりしている。
「アブソレムはともかく、アリスは大丈夫なのか?」
アルがそう声を上げてくれた。
本当に優しい。いつか何かの詐欺に騙されやしないか心配だ。
と思ったところで、そういえばすでに妖精に騙されていることを思い出した。
「アリスは間違いなく大丈夫だ。心配せずとも良い」
その言葉に、わたしは本当かなあとじとっとした視線を送る。
アブソレムはわたしの視線を完全に無視して説明を続けた。
「耳栓をしていて声が使えないので、手で合図する。止まれはこうで、戻れはこうだ」
簡単なジェスチャをしているアブソレムの手元を、皆は真剣な顔をして見つめている。
全員がジェスチャを覚えたことを確認した上で、アブソレムが耳栓をつけるようにと指示を出した。
皆が耳栓をつけている中で、アブソレムは思い出したように付け加えた。
「ああ、戻れの合図だが、もしこれが出たら全速力で走ってくれ」
耳栓をつけ出した時にそんな大事なことを付け加えるなんてと思ったが、身の届く範囲の人たちは分かったように頷いていたので、特に口は出さなかった。
耳栓を全員がつけたことを確認して、わたしたちは先に進むことにした。
今度はわたしとアブソレムが先頭を切り、後ろを兵士とトーマ達がついてくる。
「ねえ、この先に何がいるのよ?」
わたしはアブソレムを小突いてそう聞く。
彼は面倒臭そうに、「もうすぐ見える」とだけ言った。
少しくらい教えてくれてもいいのに。見通しが立たないと不安だ。
何か突然、草陰から飛び出してくるものだったらどうしよう?
わたしは怖いものはそうないが、びっくり系がとにかく苦手なのだ。
地面に落ちている靴の数がどんどんと増えた頃、小さな歌声が聞こえた。
こんな森にそぐわない、若い女性の歌声だ。
おかしい。兵士たちの中に女性は1人もいなかったはずだ。
でも、こんな森の中に人が住めるだろうか?まず無理に違いない。
ということは、この歌声は生きている人の声ではないということだろう。
そう考えついて、わたしはアブソレムの服の裾をギュッと捕まえる。
その動作を見ていたアルがギクリとした。
どうやら怖がっているらしい。
歌声は歩くにつれ、どんどんと大きくなっていった。
湖が見えた時には、絶対に聞き違いではないと断言できるほどの音量になっていた。
「な、なにこの歌?」
わたしは湖を見つめたまま、アブソレムに聞く。
アブソレムは目をこらして歌声の主を探しながら、「やはりな」と呟いた。
「ここにはルサールカが棲んでいる」
止まれの合図を後方に出してから、アブソレムは湖の一角を指差した。
その先を見つめると、髪の長い女性が湖に浮かぶ岩の上で歌を歌っているのが見えた。
わたしは驚いて声を上げないように気をつけながら、彼女の姿を草陰から観察した。
女性はきれいな緑色の髪をしていて、服は何も身につけていない。
長い髪が濡れているのが遠目に見ても分かった。
少し悲しそうな、それでいて寝ている恋人に歌っているような甘い声で歌い続けている。
一体何の言語なのかはさっぱり分からなかったが、美しい歌声だった。
「彼女がルサールカ?」
わたしは草陰に隠れたまま、ごく小さい声でアブソレムに聞く。
「そうだ。通りかかった者を、湖の底へと誘い込む妖精だ」
誘い込みということは、先発隊の兵士たちはこの歌に誘われて自分の意思で湖の底に入っていったのだろう。
ゾッとして自分の体を自分で抱きしめた時、わたしの隣をフラフラと誰かが進んで行ったのが見えた。護衛のフウゴだ。
「ちょっと!待っ……」
アルがフウゴの腕を掴んで止めようとするが、あと一歩のところで間に合わなかった。
フウゴは我を忘れたようにフラフラとした足取りでまっすぐ湖のほうへ向かっている。
よく見ると、靴も履いていなかった。
「アブソレム!止めなきゃ!」
わたしは慌ててアブソレムの腕を掴んでブンブン振り回す。
腕を掴まれた彼は、「聞こえていたのに、戻らなかったな」と興味なさそうに吐き捨てた。
「聞こえてたの!?なのに何で戻らないのよっ!」
わたしは半ばパニックになってフウゴの背中に向かってそう叫ぶ。
「靴だって、いつのまに脱いだのよーっ!」
フウゴはわたしの叫びを無視して、ルサールカの元へふらふらと歩いて行った。
フウゴがルサールカの歌に誘われてフラフラと湖に近づくのを見て、わたしはパニックに陥っていた。
「ど、どどどうしよう!?このままじゃ、湖の底に連れて行かれちゃうよ!」
「落ち着きなさい。もしそうなったとしても、既に湖の底にある兵士の山に、ひとり加わるだけだ」
アブソレムはルサールカから視線を動かさず、冷静にそう言った。
確かに言われてみればそうだ。
湖の底に連れて行かれたと言ってもすぐに殺されるわけではなさそうだし、そこまで心配しなくてもいいのかもしれない。
わたしは無理やり落ち着くためにその場で目を閉じて深呼吸した。
胸に手を当てると、心臓が痛いくらい早く跳ねているのが分かった。
「アリス、よく見ていなさい。これからルサールカが彼を捕らえる」
アブソレムはまるで映画でも見ているような口ぶりだ。
わたしは何が起こるのか分からない恐怖で半分目を覆いながら、アブソレムの隣から顔を突き出し、湖を見た。
フウゴは今まさにルサールカのもとへ着いたところだった。
ルサールカは岩の上に座り、腰から下は湖につかっていて見えない。
フウゴが、彼女の座る石の上に手をついた。
歌がピタリと止まったかと思うと、ルサールカはフウゴに向かって何かを問いかけたようだった。
フウゴはそれを聞いた途端、気がついたようにビクリとのけぞり、こちらをバッと振り返った。
怯えたような、驚愕したような目だった。
トーマがその目を見て思わず駆け寄ろうとしたのを、アブソレムは「待て」のジェスチャで止めた。
こちらを振り返ったフウゴの後ろで、ルサールカは立ち上がった。
いや、ただ立ち上がったかのように思えたが、実際には違っていた。
ルサールカは大男であるフウゴの背も超え、ぐんぐんと夜空に向かって伸びていく。
その高さは水面から優に3メートルはありそうだった。
フウゴを見下ろす目がカッと見開かれ、まるで怒りで震えているように見える。
彼女の腰から下は、蛇と魚の中間のような形をしていた。
「アブソレム、彼女、人魚!?」
わたしは恐怖のあまりアブソレムの左腕にしがみつきながらそう聞いた。
「は?人魚ではなく、ルサールカだと言っただろう」
アブソレムの声を聞き終わる前に、フウゴの叫び声が辺りに響き渡った。
ルサールカは自分の尾ひれで彼を巻きつけて掴み上げると、音もなく湖に潜っていった。
フウゴを捕まえているというのに、飛沫ひとつあげない、滑らかな潜水だ。
わたしはアブソレムにしがみついたまま、何も言えずに彼らの消えた水面をずっと見つめていた。
あまりに恐ろしくて、指先がシンと冷たくなっていた。
しばらくすると、ルサールカが音もなく湖から姿を現した。
その顔は何事もなかったかのように元の穏やかな表情に戻っており、また同じ岩の上に座る。
そして先ほどと同じ歌を歌い出した。
一部始終を見終わると、アブソレムが湖から視線を外し、「これがルサールカだ」と言った。
「いや……あの……。これがルサールカだと言われても」
わたしはまだアブソレムにしがみついたまま彼の顔をポカンと見る。
そんな、「これがうちの犬だ」のような気軽さで言われても困ってしまう。
「見ての通りの生態だ。歌で誘い込み、気に入らないと湖へ引きずり込む」
そう説明しながら、アブソレムはわたしのしがみついている腕を引き離した。
だが、途中でわたしの冷えた指先に気がついたらしい。
しばらく指先を掴んだまま温めてくれる。
「そんなに怖かったのか?」
「怖かったか、ですって?周りのみんなの顔を見てみなさいよ」
わたしが呆れてそう答えると、アブソレムはそこで初めて周りの人たちに気がついたらしい。
トーマとアルはすぐ隣でふたりとも全く同じようにポカンと口を開けて、兵士たちはみんな一様に泣きそうな、真っ青な顔をしている。中には尻餅をついている者もいた。
その中で、たったひとりリュドだけがいつもと同じ涼しい顔をしていた。
アブソレムは理解できないとでも言うように数秒間だけみんなをじっと見つめた後、こちらに向き直って話し始めた。
「いいか。これから私はルサールカと話に行くから、君はここで皆を守るんだ」
「ええっ!?みんなを守る!?わたしが?」
わたしはそんなの無理無理、と半ば叫びながら、ぶんぶんと首を横に振る。
アブソレムは自分の魔石袋をゴソゴソ探っていて、こちらを見もしない。
「簡単なことだから大丈夫だ。皆をルサールカに近づけないだけでいい」
目当ての魔石が見つかったらしいアブソレムが、魔石袋の中でそれを握った。
「私が話している間にルサールカに誰かが近づいてしまうと、対話が切れてしまう。彼女が歌っていない間、つまり私が彼女と話している間は、耳栓を外して良い。頼んだぞ」
「まあ、近づけないだけならなんとか……。でもアブソレム、あなたは危なくないの?ルサールカとは話すだけ?」
あの恐ろしい、人を水へ誘う人魚が、話しただけでみんなを返してくれるとはとても思えない。
「問題ない。彼女がほしいのはたったひとりだ。他は必要ない」
言葉の意味がよく分からなかったが、アブソレムが問題ないというのなら問題ないのだろう。
彼は魔石を握りしめて、「湖の中で、息を」と呟いた。
手の中の魔石がまるで砂のように崩れる。
「それでは。誰も近づけるなよ」
それだけ言って湖のほうを向いて進もうとしたが、すぐ足を止めて少し考えるそぶりを見せ、こちらを振り返った。
「それから、何者かが話しかけてきても無視しろ」
「なっ、何者かって何?」
「どんな者でも、無視すれば良い。忘れるな」
スタスタと湖に近づいて行くアブソレムの後ろ姿を見送って、わたしは両隣にいるアルとトーマと顔を見合わせた。
ふたりとも心底不安そうな顔をしている。わたしもきっとこんな顔をしているのだろう。
それでもみんなを守れと、アブソレムに頼まれたのだ。
わたしは頬を軽く叩いて気合いを入れると、大きく息を吐いて目を開けた。
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