「……けがをしているな」

「えっ!」


 ニニは慌てて主人ムシューの脚から離れた。ダンタリオンはその場にしゃがみこみ、ほら、と言いながら、遠慮のかけらもない手つきで小さないきものをひっくり返す。

 屋敷の庭で栽培されているアルラウネたちでさえ、もう少し丁寧に扱ってもらえているかもしれない、とニニは思った。


「だいぶ傷が深い」


 主人ムシューの指が汚れた毛束をかきわける。見れば後ろ脚の付け根と首筋に大きな傷があった。灰白色の豊かな被毛のあちこちが褐色に汚れているのは泥に塗れているだけかと思っていたが、じつはカーバンクルが流した血であるらしい。


「助けられないんですか ……?」


 ニニは眉根を寄せてカーバンクルが身を預ける主人ムシューの手にすがった。


「無理だ」

「魔獣医なのに?」


 ダンタリオンはわずかにむっとしたような顔で、こいつは野生だ、と言った。


「野生だと助けられないんですか?」

「魔界のいきものは、本来、医者の手なんか必要としない。生きるも死ぬも運命さだめのままだ。僕の出る幕なんかないんだよ」

「でも、治療すれば助かるんですよね?」


 助けてください、とニニは叫んだ。


「まだ助かるんでしょ? 助けてあげて!」


 無理だと言っているだろう、とダンタリオンはそれまでよりも少し厳しい声で言った。


「僕は依頼がなければ治療はしない。一度面倒があってからはそう決めているんだ。こいつは野生でだれにも飼われていない。治療を依頼する者はいないだろう」


 わたしが、とニニはまたもや叫んだ。


「わたしが依頼します! だめですか?」

「だめだね」


 ダンタリオンの返事はにべもなかった。


「魔界でいきものを飼う、というのは、契約をすることだ。獣に役割と居場所を与え、奉仕を受ける。その獣が命を終えるまで契約を破棄することはできない」

「それなら契約します!」


 ダンタリオンの常磐色ときわいろの目に冷たい光が宿った。


「カーバンクルがどういういきものなのか、ろくに知りもしないで簡単に言うんじゃない。彼らがなにを食べるか、どれだけ生きるか、おまえは知っているのか?」

「でも ……!」

「そんなことも知らないくせに、軽々しく契約を口にするな」


 ニニは言葉を失った。


「それに契約には魔力が必要だ。おまえに魔力はないだろう、ニニ」


 ダンタリオンはニニの手を振りほどくように立ち上がった。掌に載せたカーバンクルを草むらの中に下ろそうというのか、首根っこをつまんでその小さな身体からだを持ち上げる。灰白色のいきものはそこで弱々しい鳴き声をあげた。ニニにはその声が、まだ死にたくない、と叫んでいるように聞こえた。


「待って! 待ってください! そのまま置いていったら死んじゃいます!」

「それも運命だよ。そう言っただろう」


 ニニの頭にカッと血が上った。親とはぐれ、フェンリルに追いまわされて、瘴気の立ちこめる湿原で野垂れ死ぬ。それが、この小さないきものの運命なの?


  ――そんなもの、くそくらえだわ !


「じゃあ、主人ムシューは? 主人ムシューには魔力がありますよね! 主人ムシューが契約すればいい。そのカーバンクルと」

「なに?」


 ダンタリオンはひどく驚いたように目を見開いた。腰をかがめた中途半端な姿勢のまま、おまえ、なにを言ってるんだ、と首を傾げる。


主人ムシューがその子の飼い主になるんです。主人ムシューならできるでしょう? だって、カーバンクルのことにすごく詳しそうだったもの!」

「……師匠の受け売りだ」


 師匠とはだれだ、と思ったが、いまはそんなことはどうでもいい。


「受け売りでもなんでもかまいません! その子を保護してください! それで、ご自分でご自分に治療を依頼すればいいじゃないですか」


 ダンタリオンは姿勢を正した。その掌にはまだカーバンクルを載せたままだ。


「理由がない」

「理由?」

「契約の理由だ。死にかけのカーバンクルと契約しても、僕にいいことはひとつもない」


 ニニはまたもや言葉に詰まる。ほらね、とダンタリオンは言った。


「あまり困らせないでくれ。どんないきものにも寿命はある。こいつはここで命を終える運命だったんだよ」


 ダンタリオンはそう言いながら、今度こそカーバンクルの身体を草むらへ下ろそうとした。それができなかったのは、素早く動いたニニが目の前に立ちはだかったからだ。靴のかかとがやわらかい泥に沈むのにもかまわず、ニニは夢中で叫んだ。


「それならわたしは? わたしとの契約は? 意味があるの?」


 悪魔がわずかばかりひるんだように見えた。


「わたしを使い魔にしたことで、主人ムシューにいいことがひとつでもあるんですか?」

「あるよ」


 精気エネルギーをもらう、と言っただろう、と答えるダンタリオンの声は落ち着いていた。彼はごく短いあいだに自分を取り戻したようだった。


「人間の精気エネルギーは僕たち悪魔にとってほかのなににも替えがたい。生きるための糧だからね」

「カーバンクルの精気エネルギーは? 同じいきものの精気エネルギーでしょ。人間ほどじゃなくっても少しは足しになるんじゃないんですか?」

「……無茶を言うな」


 ダンタリオンはすっかりあきれてしまったのか、ニニの身体を押しのけようとする。そのままカーバンクルを放り投げ、すべてを終わらせてしまうつもりでいるらしい。

 ニニは必死に頭を働かせる。

 なにか、なにかないの?

 主人ムシューの気持ちを変えさせるようなもの、なにかない?


精気エネルギーだけなんですか?」

「……なに?」


 突然の問いかけにダンタリオンはニニを振り返った。その表情には純粋な疑問が浮かんでいた。使い魔の言葉の意味を本気でつかみかねているようだ。身体の脇で両の拳を握りしめ、ニニは、だから、と必死に言い募る。


「だから、悪魔と契約するときの対価になるのは精気エネルギーだけなんですか?」


 ダンタリオンは双眸そうぼうすがめた。ニニの言いたいことが伝わったらしい。


「そうではない」

主人ムシューの欲しいものだったらなんでもいいんですよね?」

「まあ、それはそうだけど ……」


 ダンタリオンは警戒のにじむ口調で答えた。予測不能の行動に出るニニが次になにを言い出すのか、はかりかねているに違いない。


すみれではどうですか?」

「は?」


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