ダンタリオンは顔をしかめた。


「菫です。さっきお菓子を食べたとき、檸檬レモンと同じように菫も買うって、砂糖漬けにするんだっておっしゃってましたよね?」


 あるじの答えはなかったが、ニニは必死で言葉を重ねた。


「わたし、知ってるんです。菫がたくさん咲くところ。とてもいい香りのする菫です。ネリと一緒に見つけたの。山を少し登らなきゃいけないし、だれにも話してない秘密の場所だから、摘みにくる人なんかいない。あそこなら……」

「菫の季節はもう過ぎた」


 ダンタリオンは首を横に振っている。ニニの話に思わず耳を傾けてしまった自分を戒めてでもいるのか、指先で軽くこめかみを押さえている。


「取引にはならない」

「じゃあ、薔薇ばらならどうですか?」

「薔薇?」


 ダンタリオンの眉がぴくりと動いた。使い魔の戯言たわごとについ反応してしまう自分を恥じるような顔つきをしている。ニニはかまわず先を続けた。


「山には薔薇も咲くんです。花びらがたっぷりついていて、とても綺麗きれいなんですよ」

「……野生の薔薇は香りがよくない」

「そんなことありません! すごくいい匂いがします。そのおかげで、ネリもわたしもそこに薔薇が咲いていることに気づいたんだもの。道から少しれたところにある窪地くぼちに、 たくさんたーっくさん咲くの」


 ダンタリオンはわずかに上体を引き、てのひらに載せたカーバンクルを見つめている。腹を見せたままぐったりしている灰白色のいきものは、放っておけば死んでしまうだろう。


「村の者たちも知っているんだろう? そこは ……その、薔薇の咲いているところは」


 ダンタリオンが低い声でニニに尋ねた。あるじの声に迷うような響きを感じ取った使い魔は、さきほどよりも遠慮がちな調子で応じた。ここは慎重に話を進めなければ。


「知っています。でも、村の人たちは花を摘んだりなんかしません」

「……どうして?」

「花を売るのは手間がかかるんです。枯らさないように町まで運ぶのは大変だし、香水や化粧品を作るにはたくさんの器具や高価な材料が必要です」


 ニニたちの村は花で商売をするにはあまりにも山奥にあり、またあまりにも貧しかった。


「それに花が咲く季節は限られてて、それだけでは生計を立てられないんです」


 ダンタリオンはふたたび掌の上のカーバンクルを見下ろした。浅い呼吸は速く、尻尾の先さえぴくりとも動かない。ニニはじりじりしながら悪魔の返事を待つ。


「わかった」


 ダンタリオンがようやく心を決めたらしい。


「薔薇の季節はもうじきだ。必ず案内してくれ」


 ニニは小刻みに何度もうなずいた。なんなら白詰草の群生地も教えたっていい、と彼女は考えた。あのあたりの蜂の巣からは質のよい蜂蜜が採れる。村に養蜂を生業なりわいにしている家はなかったが、家族で食べるだけの量であれば自由に採取してもよい、という不文律になっていて、皆の楽しみになっていた。きっと主人ムシューも喜ぶはずだ。

 ダンタリオンは掌の上のカーバンクルにもう一方の手をかざした。やわらかい緑色の光が灰白色の小さな身体を優しく照らす。


「ニニ、名前はなににする?」


 えっ、とニニは戸惑った。


「わたしが考えるんですか?」

「おまえが助けると決めたんだからね」


 はい、と答えたニニだが、そう急に言われてもカーバンクルの名前など思いつかない。一瞬、ネリ、と言いかけて、それはいけない、と思い直した。


「テ、テオ! テオというのはどうですか?」


 意味もなにもなく、ただ呼びやすそうだと思いついた名前だ。それでもダンタリオンは、いいと思うよ、と微笑ほほえんでくれた。

 悪魔は指先に緑色の光をともした。ニニと契約したときと同じ言ノ葉の光だ。ただし、今回はその光が陣を描くことはなかった。

 鶸萌黄ひわもえぎと若草の瞳を細めた悪魔が低い声でなにごとかをつぶやくと、光は丸いたまとなり、ふわりと浮かぶ。彼のそばをしばし漂ったのち、その珠は詠唱の終わりとともに、テオの左前足の裏、やわらかそうな肉球のひとつにすうっと消えていった。


「おいで、ニニ」


 ダンタリオンに呼ばれ、ニニは彼のそばに駆け寄った。


「おまえが世話をしてやりなさい」

「はい」


 神妙な返事とともに、差し出された小さな命を両手で受け取った。テオの身体はとても軽く、しかしたしかにあたたかい。


主人ムシュー、手当ては ……」

「屋敷に戻ってからにしよう」


 このあたりはどうやらフェンリルの縄張りらしい、とダンタリオンは言った。


「僕がいるかぎり手出しはしてこないはずだけど、ニニは落ち着かないだろう」

「で、でも ……」

「なんだ」


 月光草はどうするんですか、とニニはいた。テオを助けてもらいたいあまりに我儘わがままを言ってあるじの用を邪魔してしまった自覚はある。掌の上のカーバンクルはぜひとも助けてもらいたいが、務めをおろそかにしたいわけではないのだ。

 そうか、とダンタリオンはわずかな時間考えるような仕草を見せた。だが、すぐに薄い笑みを浮かべると、片手をさっと動かした。

 強いつむじかぜが巻き起こる。


 ニニは思わず目をつぶり、胸にカーバンクルをかばう。風が少しずつ弱まっていくのを感じて顔を上げたときには、宙を舞った月光草が、まるで意志を持ったいきもののように、 次々と籠へ飛びこんでいく光景を目の当たりにすることになった。

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