「いや! いやです!」

「放っておけばいい。大丈夫だから。月光草の群生地はすぐそこだ」


 いやだってば、とニニは抱えていた籠にしがみつくようにしてうずくまってしまった。膝が震えて立っていられない。

 ダンタリオンは困ったようにため息をついた。


「じゃあ、ちょっと様子を見てこよう」

「いやです! 置いていかないで! 追い払って!」

「ニニ。フェンリルが怖いなら、あんまり大きな声を出さないほうがいい。かえって群れをおびき寄せることに ……」


 そのとき、ダンタリオンの言葉を遮るように、草を割って灰白色の毛玉が勢いよく飛び出してきた。


主人ムシュー!」


 ニニが盛大な悲鳴をあげる。

 ぽんぽんとよく弾むそいつは、二度三度とあたりを跳ねまわったすえ、こともあろうにニニの顔面に飛びついてきた。彼女はもう何度目になるかもわからない叫び声をあげた。


「落ち着きなさい」


 さすがのダンタリオンも突然の事態に驚いたのか、強い口調で使い魔を𠮟りつける。


主人ムシュー……!」


 顔に毛玉をくっつけたまま、ニニはくぐもった声で助けを求めた。ダンタリオンがニニの襟首をつかみ、己のそばに引きずり寄せる。彼が灰白色の毛玉をむしり取ろうと手を伸ばすと同時に、ぐるる、ぐるる、といういくつもの唸り声が聞こえた。


「狼が!」


 ニニは手探りでダンタリオンの脚にしがみついた。なにしろ毛玉に視界を塞がれていてなにも見えないのだ。

 だが、それは彼女にとって幸いだったかもしれない。深い草むらのあちこちから、フェンリルの鼻先がのぞいている ――その高さから、獣たちが十三歳の女の子などひとみにできてしまうほど大きい、ということが知れた ――のを目撃せずにすんだのだから。


 ニニとダンタリオン、それから灰白色の小さないきものは、周囲をフェンリルの群れにすっかり取り囲まれていた。低い唸り声や荒い息遣い、草を踏みつける足音は徐々に彼らに迫ってくる。

 ダンタリオンはニニと毛玉をマントの下にかばい、常磐色の双眸でフェンリルどもを睥睨へいげいする。獣たちはぴたりと動きを止めた。唸り声も足音も、息遣いさえもひそめられている。


 悪魔はただ静かにたたずんでいるだけだ。それでも草の隙間から覗いていた鼻面はすでに見えなくなっている。じりじりとやつらがあとずさっていく気配がしばらく続き、やがて獣たちの気配は綺麗きれいに消えた。


「ニニ。もう大丈夫だ」


 ダンタリオンはマントの裾を持ち上げる。片腕で彼の脚にしがみついてガタガタ震えていたニニは、その胸元に灰白色の毛玉を抱き締めていた。さきほどまで彼女の顔面にひっついていたいきものである。

 ダンタリオンは遠慮のない力でニニの腕から毛玉を取り上げた。後ろ首をつかまれあるじに検分されているそれをよくよく見てみれば、人間の世界でいうところの子猫ほどの大きさしかない四つ足の獣だった。


「カーバンクルがなんでこんなところに ……」


 ニニはダンタリオンの呟きを聞き逃さなかった。


「カーバンクル ? この子、カーバンクルっていうんですか?」

「そうだよ。なかなか珍しい魔獣だ」

「珍しい?」

「わりと最近になってから、寒い地方で存在を確認された魔獣だよ。こんな瘴気しょうきの濃い湿原にいるなんてふつうじゃ考えられないな」


 ダンタリオンは顔の高さまで持ち上げたカーバンクルをしげしげと眺めながら言う。


「最近?」

「七、八百年くらい前だったかな」


 人間と悪魔の時間に対する感覚の差を感じた。ニニは思わず、はあ、と曖昧な返事をしてしまう。


「彼らは魔力も体力もそこそこあるといわれているけど、毒や瘴気にはあまり強くない。空気の綺麗な雪原や氷穴にいることが多いと聞くね。敵も少ないし」


 魔界の沼は瘴気を生み、植物の多くは毒を持つ。それらに弱いという小さな獣にとっては、この湿原のほとりは厳しい環境なのだろう。


「まだ幼体だな。親はどこへ行ったんだ?」


 そこまで聞いただけで、ニニはカーバンクルに親近感を覚えた。

 もともと人間である彼女もダンタリオンの使い魔となって彼の魔力にまもられていなければ、とてもではないが魔界で生きていくことはできない。おまけにまだ小さなこどもだというのに親とはぐれてしまった。まったくもってわたしにそっくりじゃないの!


「親がこの子を探してるってことはありませんか」

「ないだろうね」


 ダンタリオンはきわめて軽い調子で答えた。


「近くにいるなら、なにがなんでも子を取り戻しにくるだろう。僕に触れさせることなんか絶対に許さないし、そもそもフェンリルたちに追いまわされるなんていう事態を招かないよう、しっかり家族を守るはずだ。カーバンクルは賢い獣なんだよ」


 ニニはダンタリオンの脚にしがみついたまま、彼のてのひらの上で尻尾を持ち上げられたり脚を広げられたりしているカーバンクルをじっと見つめた。

 さんざんにフェンリルたちから逃げまわったのだろう、ひどくくたびれている様子で、長めの毛も汚れがひどくあちこちでもつれからまっている。額には青緑色の大きな宝石が煌めいていた。

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