「その言い方もちょっとあれだけど ……」


 ダンタリオンが苦笑いをする。


「まあ、気持ちはわかる。人間からすれば、僕らはそういう存在だ」


 失言に失言を重ねてしまったニニは、顔を上げていられなくなってうつむいた。主人ムシューはこう言ってくれるけれど、わたしは彼に助けられたのだ。そのことを忘れたわけじゃなかったのに。わたしだけは悪魔のことを悪く言ってはいけなかったのに。

 死のふちに沈みかけた自分を助けてくれたうえに、魔界に居場所まで与えてくれたダンタリオンに、ニニは心の底から感謝している。なのに考えなしの自分は、こうしてときどき彼を傷つけるような言葉を口にしてしまう。


「ニニ、もっと食べなさい。食べたら仕事の続きだ。月光草はもう少し必要だからね」


 使い魔の軽率など微塵みじんも気にしていないような口ぶりでダンタリオンが言った。ニニは返事もできずに唇を強くみ締めることしかできない。

 ダンタリオンは、いまはなにを言っても無駄だと思ったのか、黙ったままマントに落ちたクッキーのかけらを払いけたり、瓶の水滴を弾き飛ばしたりしている。

 ニニは小さなため息をついて、ここぞとばかりに落ちこむことにした。




 ニニがなんの前触れもなくひとりぼっちになったのは、春の終わりのことだった。

 この夏は羊の世話を任せてやる、と父親に言われ、ふたつ歳上としうえの姉であるネリとともに、村から離れたところにある牧草地に連れていかれた。家族の大事な財産を預けてもらえるほどに信頼されたのだと喜んだのもつか、まだまだ冷えこみの厳しい夜の山に置き去りにされた。わざとだったのか、うっかりだったのかはわからない。


 いずれにしてもネリとニニは、パンのひとつ、毛布の一枚もない荒屋あばらやのような山小屋に取り残され、羊の気配にかれて集まってきたおおかみの群れに囲まれてそこから逃げ出すこともできなくなった。

 高地の冷気がまだ幼い姉妹の体温を容赦なく奪っていった。膝にニニを抱いて寒さからかばってくれていたネリが先に意識を失った。ニニもほどなくして睡魔に襲われた。

 床と同じくらい冷たくて、自分と変わらないくらい薄っぺらな姉の身体からだを抱き締め、狼が羊を貪る音を聞きながら、これで命が尽きるなら天国から母さんの顔をした御使アンジュが迎えにきてくれるといいな、とニニは考えた。なんの恵みも与えられなかった短い人生の終幕に、それくらいの祝福を望んでも罰はあたらないだろう。

 目を閉じて、それからどれほどの時間が過ぎたのかはわからない。


 次に気がついたとき、すぐそばにひとりの女が立っていた。癖のない長い髪と星屑ほしくずを散らしたように輝く眼差まなざしを、とても綺麗だ、と思った。でも、このひとはわたしの母さんじゃない。

 その彼女こそが、いまのニニの主人ムシューであるダンタリオンだった。

 あのときの彼は本来とは異なる女性の姿をしていた。あとから聞いたところによると、人間の世界で手に入れたい品があり ――きっとクッキーに入っている檸檬レモンのことだ ――、そういうときは女性の姿をしていたほうが市場をうろうろするのに苦労しないのだそうだ。


 僕のことが見えるのか、と彼は戸惑ったような口調でニニに尋ねた。

 ニニは躊躇ためらうことなく頷いた。山奥のボロ小屋 ――しかも、周囲を狼の群れに囲まれている ――に、突如現れた見知らぬ女を不審に思わないではなかったけれど、自分は死にかけているのだ。望みとはちょっと違う顔をしているけれど、御使アンジュが迎えにきてくれたのかもしれない。見えないふりをする理由はどこにもなかった。

 ダンタリオンは、見えるのか、なんで見えるのかな、でも見えちゃったならしかたないよな、などとしばらくぶつぶつ呟いたあと、僕は悪魔だ、と直截ちょくせつに告げてきた。そして、きみの魂はたったいま身体から抜け出してきてしまった、と続けた。つまり、きみの人としての生は終わりかけている。


 なにを言われているかよく理解できないまま、ニニは背後を振り返った。ダンタリオンが節の目立つ指を伸ばしてそちらを示したからだ。床に寝転がっていたはずが、いつのまにか起き上がっていたことを不思議には思わなかった。

 目に映ったのは、哀れな姉妹。

 ふたりはなにからなにまで本当によく似ていた。薄汚れて擦り切れそうなボンネットに包まれた長い髪も、ボンネットと同じくらいに古びたワンピースとエプロンに隠された痩せた身体も。

 実際のところは、が抱き締めているネリのほうがほんの少し背が高いのだが、身体を丸めて横たわっている姿を見ているだけではそんなことはわからない。

 ふたりの顔に血の気はなく、まぶたは固く閉じられていた。むしろ、まだ生きている、といわれてもそのほうが信じられないような姿だった。


 ニニは思わず自分のてのひらを見つめた。あれ? あそこにいるのはわたし? じゃあ、ここにいるわたしはいったいなんだっていうの?


 少女がひどく困惑していることがわかったのだろう。ダンタリオンはとても静かな声で、きみは魂だけの存在になった、ともう一度教えてくれた。このままでは、あの身体に戻ることはちょっと難しいかもしれない。

 理解が及ばないままに眉根を寄せると、悪魔は気の毒そうに首を横に振った。本当ならきみの魂は天界か冥界に迎え入れられるはずなんだ。だけどきみが死んだことは、天界の御使アンジュも冥界の獄吏も把握していないらしい。弔いの言葉も、鐘も、儀式もなかったから当然のことだけどね。


 ニニは茫然ぼうぜんとするばかりだった。ダンタリオンの言葉は聞こえているが、その意味は半分もとらえられない。

 ただ、自分は死にかけていて、そして、どこにも居場所がない、と いうことだけはかろうじて理解できた。

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