3
ダンタリオンは甘いものに目がない。それをよく理解したいまになっても、彼の情熱にはついていけないこともあるニニである。
もちろんニニとて甘いものを食べたことがないわけではない。檸檬の味も知っている。でも、それは十三年の人生のあいだに一度か二度のことだ。村長の娘が大きな街へ嫁いでいったとき、その相手の家から贈られたという祝いの品が村人たちに配られた。そのなかに
それが一度で、もう一度はよく覚えていない。
「
しっとりとして、それでいてしつこくないクッキーをかじりながらニニはなにげなく口にした。意味がわからない、とでも言いたそうに、ダンタリオンが首を傾げる。クッキーを味わうのに忙しくて、返事をするのが
「だって、蜂蜜はともかく、砂糖や檸檬はすごい
ニニは貧しい家で育った。狭い畑を耕し、少ない家畜を育て、家族総出で働きに働いて、それでも食べていくのがやっとの生活だった。もっとも、周囲のだれもが似たような暮らしぶりだったから、自分たちのことを取り立てて貧しいと思ったことはない。
野菜を煮込んだスープに石みたいに硬いパンを浸してかじるのがニニにとっての食事で、そのスープにたまに肉やチーズが入っていることが楽しみだった。大きな街へ行けばあたりまえのように手に入れられる砂糖や香辛料、柑橘類も、ニニたちの村まではなかなか届かない。大きな婚礼でもなければ、村の男衆たちがみんなで狩に出かけ、その獲物を
それほどの貴重品をこんなに気軽に与えてくれるなんて、悪魔とはなんて気前がいいんだろう、とニニは思ったのだ。 ニニの話を聞いたダンタリオンは、そういうことか、と
「僕は人間の世界でいうところの金持ちとは違う。でも、まあ、金には困らないかな」
「なんでですか? 魔術で作れるから?」
違うよ、とダンタリオンはニニの無知を
「薬を売れば稼げるからだよ」
あ、とニニは自分を恥じる。彼の言うとおりだ。
ダンタリオンの屋敷の周囲は広い庭になっている。庭というよりはほぼ畑と呼んでもいいようなそこでは、アルラウネやウムドレビ、アグラフォーティスといった魔界の植物がたくさん育てられていた。彼はそれらをもとにしてさまざまな薬を作る。
「じゃあ、薬局をやればいいのに。薬が欲しい人はいくらでもいるから、そのほうがいっぱい稼げそう」
短絡的なニニの言葉に、ダンタリオンは軽く笑った。半分ほどに減った果実水の瓶に一度口をつけてから、諭すような口調で言う。
「それはできない」
「どうしてですか?」
「僕たちが人間の世界の金なんか持ってたって
「菫や薔薇?」
金を出してまでそんなものを手に入れて、いったいなにに使うのか、とニニは思った。
「砂糖漬けにするとおいしいよ」
「魔界にはないんですか? 菫とか薔薇は」
「似たようなのはあるけど、ここに咲く花は僕たち悪魔でも食べたいとは思わない」
ふうん、とニニは
「糖蜜で固めると香りのいい飴みたいになる。今度、蝙蝠たちに作ってもらおうか」
そこまでは楽しそうな表情だった
「さっきの話の続きだけどね、ニニ。魔界の
ニニははっとした。魔界へ来たその日に聞かされた言葉を思い出したのだ。
魔界の悪魔たちは皆、ある掟に従って暮らしている。この地でみずからが負う役割を選び、それをまっとうしなければならない、というものである。その務めをおろそかにすることは、なにがあっても許されないのだという。
そしてそれは、ダンタリオンの使い魔であるニニにも同じことが言えた。
「ニニの務めはなんだった?」
「
そう、そして僕は魔獣医だ、と悪魔は頷き、果実水の残りを確かめるような仕草をする。
「人間の世界で薬局なんかやってる場合じゃないし、そもそも僕たちが人間にかかわりすぎるとろくなことにならない。薬を売るなんてとんでもないことだ」
「そうなんですか?
「よく効くからだよ。効きすぎると言ってもいい」
ニニは曖昧に頷く。あるじの言うことは彼女にはやや難解で、よくわからなかった。ダンタリオンはそんな使い魔をじっと見つめ、そうだな、と呟いた。
「過ぎた薬効は毒と同じだ。妙な
人間の世界に悪徳を
「だからどうしても手に入れたいものがあるときにかぎって、ほんのちょっとだけ薬を譲ることにしている。あまり頻繁に同じ場所には顔を出さないようにもしているしね」
そのどうしても欲しいものが、今回は檸檬だったというわけか、とニニはややあきれるような気持ちになった。悪魔なんだから、木になっている果実をだれにも
ニニがそう言うと、ダンタリオンは顔をしかめた。
「僕は悪魔だけど泥棒ではないよ、ニニ」
「……そうですよね」
ニニは手にしていた瓶から果実水を飲んだ。口の中にパチパチと弾ける感触がある。かすかな炭酸を含んだ蜜苺の果実水は爽やかに甘酸っぱく、喉越しもよいはずなのに、妙に苦く感じられた。
「ごめんなさい」
ニニは肩を落とした。だれかが手をかけて育てた果実を奪ってくればいいなんて、自分のほうがよっぽど悪魔みたいだ、と彼女は思う。
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