隣に立つダンタリオンはやっぱりとても静かな声で先を続けた。

 このままだときみは亡者になってしまう。死んでいるのに人間界を彷徨さまよう、亡者に。

 どうしたらいいの、とニニはダンタリオンのマントの裾をつかんだ。わたしはどうしたらいいの? どうしたら天国へ行けるの?

 僕と契約をするか、と悪魔は尋ねた。なんだか寂しそうな、聞きようによっては悲しそうともいえる声だった。

 契約? とニニは首をかしげ、質問に質問で返した。それをするとどうなるの ?

 ダンタリオンはそこではじめて薄い笑みを見せた。僕の使い魔になる。僕の仕事の手伝いをしながら、魔界で暮らすことになる。


 魔界とは聞いたこともない言葉だった。冬の寒さの厳しい折、畑仕事がひまになる時期にだけ通わせてもらった教会学校の司祭も、そんな場所についてはひとことも触れていなかった。彼が語っていたのは天国と地獄、神と悪魔、赦しと罪。それだけ。

 地獄は冥界の一部で、冥界はさらに魔界の一部だ、とダンタリオンはわかりやすく教えてくれた。僕は悪魔で、魔界に住んでいる。僕と契約をすれば亡者にはならないですむよ。

 天界には行けないけどね。


 ニニは黙ったまま、もう一度自分たちを振り返った。わたしは死んだ。いいえ違う、わたしたちは死んだ。わたしたち。ネリとわたし。そうよ、ネリは? 姉さんの魂はどこへ行ったの? 天国へ昇れたの? いいえ、それはない。だって迎えはこないって、たったいまこの悪魔がそう言った。


 ニニの問いに対するダンタリオンの答えははっきりしていた。僕は知らない。僕がここを通りかかったのはただの偶然で、見つけたのはきみひとりだ。

 そんな、とニニは首を振りたくった。いやよ。ネリと離れるなんていや。歳はそう変わらないけど、産みの母が亡くなったあと、ネリはずっとニニの面倒をみてくれていたのだ。ニニが少し大きくなってからは、姉妹に無関心な継母ままははのもとで助けあって生きてきた。

 ダンタリオンはニニの主張を黙って聞いてくれたあとで、だが、とやや厳しい声で言った。知らないものは知らない。探したいのなら、きみが自分で探すといい。

 無理よ、とニニはなにも考えずに短く言った。

 それに対するダンタリオンの答えもまた短かった。できる。僕と契約をして、僕の使い魔になればいい。


 繰り返される誘惑に、大きく心が揺れた。使い魔ですって ?

 ニニの興味を惹くことに成功したダンタリオンは、今度はにっこりと笑った。願いをかなえてあげるばかりか、その身に加護を与えてあげようという話だよ。ただし、悪魔のね。

 ニニは小さく頷いた。

 もちろんただでというわけにはいかない、と彼はそこばかりはやけに重々しく告げた。僕は悪魔だ。悪魔と契約をするには対価がいる。

 お金なんてないわよ、とニニは言った。見ればわかると思うけど。


 その頃には、ニニはもうすっかりその気になっていた。悪魔と契約した者のおそろしい末路は司祭から聞かされていたような気もしたが、ちらとも思い出さなかった。

 わたしはなにをあげればいいの、とニニは両腕を広げた。なにをあげたらネリに会わせてくれるの?

 ダンタリオンはやや面食らった様子で、もう一度繰り返すが、と言った。ネリという娘を探すのはきみだ。

 わかってるってば、と答えたときのニニは、むしろ悪魔の慎重さをじれったく感じてさえいた。なによ、話を持ちかけてきたのはそっちのくせに、いざわたしが乗り気になったらひるむわけ?


 僕がもらうのはきみの精気エネルギーだ、とダンタリオンの瞳が輝きを増した。縦に伸びた瞳孔がやけに目立つような気がした。

 そうだな、と彼は続けた。きみはネリの魂を探したい。僕はきみの精気エネルギーをもらう。もし、きみが無事にネリの魂を見つけ出すことができたら、そして、きみとネリがともに望むなら、ふたりの魂をもとの身体に戻してやってもいい。ただしそのときには、きみの寿命をもらう。本来生きるはずだった命の、きっかり半分をいただこう。これでどうだ。


 ニニは即座に頷いた。いいわ、それで。

 もっとよく考えなくていいのか、とダンタリオンは苦く笑った。これは悪魔との契約になるんだよ。

 悪魔との契約? だからなんだっていうのよ、とニニは言った。どうせもう死んでるようなものなんだし、寿命の半分もへったくれもないでしょう。ネリに会えればそれだけでいいのに、身体まで返してくれるなんて、あなたっていい悪魔なのね。

 ダンタリオンの瞳に鶸萌黄ひわもえぎ若草わかくさが閃いた。ニニの身体が小さく震えた。


 悪魔はもうなにも言わなかった。黙ったまま、指先にぼうっとした緑色の光を灯し、床に複雑な魔法陣を描いた。

 ここに立って、と指示されて、ニニはだいぶ軽くなったように思える自分の身体を魔法陣の中心に移動させた。瞬きするまもなく、まばゆきらめく緑色の光に足許から包みこまれた。その光はとても細かい粒の集まりで、よく見てみるとひとつひとつが小さな小さな文字になっていることがわかった。ちりのような緑色の文字たちは、一瞬たりともひとつところにとどまっていることがなく、風に舞う木の葉のようにも思えた。


 僕が契約の内容を言ったら、きみは自分と僕の名前、それから契約する、ということをはっきり告げるんだ。わかるか、とダンタリオンは言った。

 こくり、と頷くと、悪魔はニニには理解できない言葉でなにごとかを唱えはじめた。

 そのときになってはじめて、ニニは彼がさきほどまでとは異なる男の姿をしていることに気がついた。もしかして早まったかしら、と彼女は思った。わたしってば相手の正体も確かめず、大変な約束をしちゃったんじゃないの だが、ささやかな警戒はすぐに忘れ去られた。

 渦を巻く風に、ダンタリオンがまとう黒く重たげなマントが音を立ててはためいたからだ。その風はすぐにニニのところまで届き、彼女の長い髪をそよがせた。ふわ、と身体が浮いたような気がした。


われ、ダンタリオン、なんじ、ニニと契約する』


 ダンタリオンの瞳がさきほどよりもさらに輝きを増した。鶸萌黄と若草、左右で色みの異なる眼差しからニニは視線を逸らすことができなくなった。そのまま譫言うわごとのように悪魔の望む言葉を口にした。


『吾、ニニ、汝、ダンタリオンと契約する』


 そうやってニニはダンタリオンの使い魔となり、彼が暮らす石造りの屋敷へと連れてこられたのだった。

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