第26話 守るために

 家に帰りついて、母の裕里が作ってくれていた夕食を食べた後、裕介は早々にベッドへ入った。

 今日もあまりにも多くのことが起きたせいで、頭はパンク寸前だ。それだというのに、眠気はちっともやって来ない。

 アルノーとシェーンヘルデンと別れてから、バルドは一言も話さなかった。食事中、裕里が心配そうに声を掛けていて、『明日も学校はお休みする?』と聞いていた。

 裕介は分かっている。バルドは今、過去の中にいるのだ。

 モーントリヒトとの思い出に浸り、どんなに些細で小さなことでも、記憶の中から掘り起こそうとしている。そうすることで、見つけた時に喜びを味わえるからだ。


 カラカラと、部屋の窓の網戸を開ける音がした。部屋に侵入してくる、残暑の生温い風が微妙に増えた気がする。

 チラリと裕介が目を向けると、バルドが窓の桟に手を置き、月を見上げていた。

 そうか。月は人狼とも大きな関わりがある。その辺のことをシェーンヘルデンには詳しく聞けなかったが、次に会った時に聞いてみようと思う。

 きっと月もモーントリヒトを思い出すピースだ。バルドの横顔を見て、裕介は悟った。


「……何故、俺を呼ばなかった? モーントリヒト……」


 裏切りが起きた時、戦いが始まった時。モーントリヒトの呼び掛けになら、バルドは絶対に応えたはずなのに。

 バルドが白森を去って、一年後の出来事だ。まだドイツにいたかもしれない。それに吸血鬼と人狼だ。人間の裕介には想像のできないコミュニケーション方法もあっただろう。

 その時のモーントリヒトの思考と心の中に、バルドの存在がなかったとは思わない。確実にバルドのことは、モーントリヒトの思いの中にあって、それでもモーントリヒトはバルドを呼ばなかった。呼べなかったのだ。


「友だからだよ」


 裕介が起き上がって言うと、バルドはこちらへと振り向いた。


「貴方が友だから、呼べなかった。せっかく別れを選んで離れたのに、貴方をまたモルガーナの驚異の中に戻らせたくなかったんだ」


 だから、モーントリヒトは言った。『これは我らの戦いだ』と。アルノーとシェーンヘルデンたちはその言葉に従って、戦い続けている。


「守る為に離れた。それなのに、俺は何も守れてはいなかった。何も知らず、あれから百三十年間、人間の血を啜ってのうのうと生き延びていたんだ……!」


 モルガーナの目を欺く為に、二度と会うつもりはなかった。

 寂しくとも、悔しくとも。ただ自分の存在を知ってくれている者がいる。自分を友と呼んでくれる者がいる。それだけで、孤独にも堪えられた。


(会えずとも、守る。そう決めて白森を去ったはずなのに!)


 今、バルドが裕介の傍にいてくれているのは、理由の分からない縁があるからだ。この縁さえ切れれば、バルドは去ってしまう。

 バルドが裕介のことを、モーントリヒトと同じような友として見てくれているのか。知りたいけれど、訊ねるのは怖い。バルドは素直ではないからはぐらかすか、正反対のことを言って惑わすかするだろう。

 モーントリヒトに取って変わる存在にはなれないかもしれない。でも裕介には、一つだけ確信を持って言えることがあった。


「だけどモーントリヒトは、バルドのその百三十年間を守ってくれた」


 モルガーナの魔の手から遠ざけ、心が求めるのに逆らって、二度と会えぬ友の為に。文字通り、命を張って。

 だから、モーントリヒトのその高潔な意思を、後悔と懺悔だけで染めないでほしい。裕介がモーントリヒトの立場なら、きっとそんな風に思うから。


「貴方は今も、モルガーナを恐れているの?」


 ギロリとバルドの目が光った。

 裕介は少し怯んだが、何とか持ちこたえて、バルドをジッと見つめる。


「初めから、恐れたことなどない。あの女に向ける感情は、ただ怒りと憎しみのみ」


 恩人であるカーマーの始まりの男を殺された時からか? いや、違う。モルガーナの息子に噛まれ、この身を化け物にされた瞬間から。毒のように拡がる“モルガーナの声”に抗っていたあの苦しい時間から、渦巻くこの感情を失ったことなどなかった。

 そして今、友を失ったことへの怒りと憎しみも重なっていく。


「俺はもう逃げねぇよ」


 モルガーナの目を欺く為、などと、それらしい理由を言うのはやめだ。

 二度と後悔しないために。二度と知らぬ間に失っていたなんてことにならないように、守りたいものはこの手で守る。


「モーントリヒトが遺してくれていたんだね」


 孫のアルノーと、シェーンヘルデン。モーントリヒトの狼たちを。バルドの為に。今度こそバルドが、失わない為に。


「知った風な口を聞くな、ユースケ」


 バルドが凄むと、それはそれは恐いものだけれど。今回ばかりは何も恐ろしくはなく、裕介はヘラリと笑った。


「僕たちも一緒に。アルノーとシェーンヘルデンたちに協力しよう」


 バルドは裕介の言葉にふと微笑む。

 誇り高い狼たちが、この二人の申し出を簡単に呑むかは分からないが。

 裕介とバルドの心は決まった。


(守るぞ、今度こそ。モーントリヒト!)


「俺は納得できない」


 ガチャッと裕介の部屋のドアが開いて、皐月が入ってきた。

 シャワーの後らしい。濡れた髪の上にタオルを乗せている。そのせいで、俯き気味だった皐月の表情は見えなかった。

 納得できないと言った皐月の言葉に、顔を強張らせたのは裕介だ。


「ノックも無しにごめん。部屋の前を通ったら、話が聞こえたから」


 皐月がノックをしないのはいつものことだから、別にそれはどうでもいい。話を聞かれていたのも、皐月に隠すことは何もないし、疚しいことでもないから構わない。

 裕介がショックを受けたのは、皐月が納得しないと言ったことだ。

 夕方、あれだけアルノーとシェーンヘルデンの話を聞いた後なのに。皐月がこんな非情な台詞を言うなんて。信じたくなかった。


「でも、皐月兄さん。アルノーたちは何も悪くないのに、長い間、苦しんでいるんだ。故郷にも帰れず、仲間はバラバラになって、さまよってるんだよ」


 タオルでガシガシと髪を拭いた皐月が、フローリングの上に座った。バルドも窓の網戸を閉めて、裕介の勉強机の椅子に腰を落とす。


「俺だって、彼らの境遇は悲惨すぎると思ってるよ」

「それなら――」


 裕介は次の言葉を繋げられなかった。

 黒い瞳。眉間に皺の一つも寄っていない。いつもの通り、皐月はまっさらな無表情で、裕介を見つめている。だけどその無表情には、確かな力が込められていた。裕介に向けて、『俺の話を聞け』と。


「別に裕介の友達が、吸血鬼だって人狼だって構わないよ。裕介にはやっとできた友達だから、大切にしたいよね。分かってる。バルドはいい奴で、信頼もできるし。シェーンヘルデンたちのことも疑ってないしね」


 裕介は知らぬ間に焦り、バルドは何も言わず、皐月を見据えるだけだった。


「でもそれとこれとは話が別だよ。裕介が危険な目に遭うのは看過できない。前のイジメの時に、助けてやれなかったクセにと思うかもしれないけど。バルドは戦えるでしょ、モルガーナとも、ゲオルクとも。お前は違うよ、裕介」


 イジメの時のことは、今はいい。

 分かっている、そんなこと。自分だけがただの人間で、彼らに比べれば全くの役立たず。寧ろ意気地無しの自分では、足手纏いにすらなる。

 それでも何とかして力を貸したいと思うし、彼らが笑える日が来ることを願いたい。

 何もできずに結果だけを知るなんて。意図せず一度はそうなってしまったバルドの悲痛な姿を見たら、とても堪えられるとは思えなかった。


「それでも、僕は諦めたくないよ。皐月兄さん」

「ふーん。じゃあ、想像してよ。たった一人の弟が、危険に首を突っ込もうとしている俺の気持ち。アルノーとシェーンヘルデンたちには同情するけど、そこに掛ける俺のリスクって、大きすぎじゃない?」


 裕介はまた何も言えなくなってしまった。皐月が心の底から、裕介のことを案じてくれていると分かるからだ。

 明礬の研究室で皐月が話していたことを、バルドは思い出していた。

 小さくて、温かい存在。幼かった皐月が得た、大切な宝物だ。奪うのではなく、与えようと、握った拳に誓った存在。感情表現を知らないその顔に、唯一笑みを刻める者。それが弟の裕介。

 皐月は確かにアルノーやシェーンヘルデンたちを哀れんでいるだろう。でもそれ以上に、裕介を思う方が強かった。


「――それでもやるって言うなら、俺の弟は馬鹿なんだなって思うよ。兄の思いを蔑ろにしてまで、ちょっと変わった友達の為に体を張る。馬鹿だけど、最高だって」


 裕介は少しだけ泣きそうになった。

 目の奥が熱くなって、それでも何度か瞬きをして誤魔化す。

 皐月が微かに笑っていた。目線を下げて、濡れた髪から落ちた一滴の滴を眺めながら。


 これだけ自分の思いを晒け出しても、弟はきっと引き下がらない。いつの間にか強くなって、我を通そうとしてくる。あんなに引っ込み思案だったくせに。隠れて泣くくらい、小さかったくせに。

 弟を説き伏せることができなかった諦めと、ほんの少しの誇り。皐月の表情に、滲んでいた。


「変わった友という言葉は、そのまま返すぞ。サツキ」


 頭の中に明礬の姿が浮かんで、裕介はバルドの言葉に思わず笑った。


「頼むよ、バルド。俺の弟を」


 バルドは知っている。皐月にとって、裕介がどんな存在かを。

 あの時、皐月がバルドに話したのは、いつかこんな状況になることを見越していたのかもしれない。

 バルドが吸血鬼だということを考えると、そんな危機感があって当然だ。特に皐月は勘が鋭いようだし、裕介と違って。

 一重に、裕介の友だと思っているからだ。皐月がバルドを信頼しているのは。吸血鬼だとか、そんなことを抜きにして。

 変わった兄弟だと思うし、お人好しが過ぎるとも思う。でもそんな彼らに、バルド自身が救われているのも事実で。

 カーマーという性質上、吸血を行う回数は限られていて、しかも今は裕介の血のお陰で随分と助けられている。それでもこの身は、正真正銘の化け物。しかしこの兄弟と共にいると、まるで自分はただ一つの純粋な生命体のように思える。


(モーントリヒト。お前は喜ぶだろうな)


 吸血鬼と人狼。共に人間を狙う存在同士。共に、化け物。だけどバルドとモーントリヒトは心に決めていた。この身は化け物でも、この意思だけは堕ちるまい、と。その思いが、バルドとモーントリヒトを繋いだ。

 きっとモーントリヒトは喜んだ。この兄弟に会って、この兄弟が自分に示してくれる信頼に。


「足手纏いは要らねぇよ」


 ふと笑ったバルドの表情は、その言葉に相応しくなかった。


「貴方は何で、すぐにそういう言い方をするの……?」


 裕介は肩を落としたが、皐月にはちゃんと伝わっていた。

 言葉とは裏腹の、決意に満ちたその表情に紛れた、『任せろ』という誓いが。


「ところでさ。協力って、何するつもり? 時が来たら、アルノーたちは白森に帰るんじゃないの?」


 また髪をタオルで拭きながら、皐月がポツリと呟いた。

 裕介とバルド。二人揃って顔を見合わせて、そのことに今頃気づいたと言わんばかりに、目を丸くした。


「ああ。二人とも馬鹿だったんだ? 空回りじゃん」

「うるせぇ! その時は白森まで着いて行く!」

「由鶴岳にいる間は……そうだ! 僕、アルノーの子守りをするよ」

「アルノーは八十年を生きていると言っているだろうが!」


 大混乱の中、夜は更けていく。

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