第25話 “呪われた母”
「――逃れた我らは、モーントリヒトを手厚く弔い、モーントリヒトの子息を新たな族長として立てた」
「それがアルノーのお父さんなんだね?」
裕介の言葉に、シェーンヘルデンが頷いた。
「そこから約半世紀。我らは静かな放浪を続けた。その生活の中で、族長は我が妹と契りを交わし、そうして産まれた者が五つの命。アルノーと、その兄弟たちだ」
シェーンヘルデンは、アルノーの伯父だと言っていた。アルノーの母は、シェーンヘルデンの妹だったのだ。
「静かであった――しかし所詮は仮初めの平和」
シェーンヘルデンの声は、また冷たく堅くなっていった。
「二度目の襲撃は、瞬く間に起きた」
裕介は息を呑んだ。
どうして、ここまで。どうしてこんなにも、アルノーやシェーンヘルデンたち、モーントリヒトの狼たちが、苦しめられなければならないのだろう。
故郷の森を終われ、それでなくとも苦難の中にいる彼らに、どうしてここまで酷い仕打ちができるのだ?
ゲオルク。かつての彼らの仲間、同胞だったのに。
「私はまたしても、主君を守り通すことができなかった」
目を閉じて、ギュッと手を握る。
会ったこともないのに、その姿を想像する。モーントリヒトも白い狼だったようだから、きっとアルノーの父も真っ白だったのだろう。その子供であるアルノーも白いのだから。
アルノーの両親は、その襲撃で命を落としたのか……。
「チビの兄弟はどうした?」
バルドの言葉を聞いて、裕介は項垂れるアルノーの肩に手を置いた。
「皆、殺された」
皐月が溜め息を吐いたのが分かった。子供が好きな人だから、この話しに胸を痛めたに違いない。
「アルノーは、兄弟の中で最も体が小さかった。それ故に見落とされ、生き残ることができた。この手の内に、モーントリヒトの狼の元に、我らの月光は残っていたのだ」
シェーンヘルデンが真剣な眼差しでアルノーを見た。それを受けて、アルノーも顔を上げ、シェーンヘルデンを見つめる。
違っていたと、裕介は気付いた。兄の敦史から疎まれていた裕介とは、アルノーはまるで違う。アルノーに自分の姿を重ねていたが、間違っていた。
シェーンヘルデンは使う言葉はキツいけれど、それは何もアルノーのことが憎いからではない。大切に、守って育てているからだ。
いつかきっと。モーントリヒトと父の後を継ぐ為に。モーントリヒトの狼の頂点に立つ為に。シェーンヘルデンはアルノーに、その道を示しているのだ。
「アルノーの精神が成熟し、“覚醒”を迎えた暁に、我らは白森を目指す。ゲオルクを討ち、モルガーナへ復讐を!」
シェーンヘルデンの気持ちは理解できる。彼は二度も主君をその手で弔った。その悔しさと恨みで突き動かされているのは、よく分かった。
ただ、アルノーはどうだろう。縮こまって気後れして、自分の運命から目を逸らしているのは、誰の目にも明らかだった。
「その“覚醒”とは、何かな?」
それまで黙っていた明礬が、朗らかに訊いてきた。まるで自分の知識欲を満たしたいだけと言わんばかりに。
確かに裕介も疑問を抱いた単語だ。シェーンヘルデンへ視線を戻して、答えてくれるのを待つ。
「転機。精神が器である身体よりも、遥かに大きくなった瞬間のことだ。人狼族は幼児期で一度、成長が止まる。“覚醒”を迎えて漸く、二度目の成長を始めるのだ」
身体の成長は、年月に比例しない。バルドが言っていた言葉だ。これはそういう意味だったのかと、ここで知る。
「精神の成熟なくして、身体の成長なし。なるほど、理に適っているね。精神が幼稚なまま、成長しきった身体を持て余す人間はごまんといるからね。そう考えると、人間とはなんて不合理な生き物だろう」
明礬の呟きが、見事に的を射ている。
成長した人間が馬鹿な真似をするのは、見飽きるほど多い。本当に理性というものが備わっているのか怪しいほどだ。例えばそれは、いじめであったり。
他者を傷つけて平気な顔をしているのは、精神が幼稚であると言わずして、他にどんな理由があると言うのだ。
「アルノーは七十五年間、成長が止まったまま。覚醒の兆しすら見えぬ」
シェーンヘルデンの口調は、厳しいようで落胆しているようにも聞こえた。
今か今かと、待ち望んでいる時。アルノーが立ち上がり、モーントリヒトの狼を率いる瞬間。シェーンヘルデンが夢を見るように焦がれているのは、手に取るように分かった。
「もう一つ、訊いていいかい? モルガーナとは、何者かな?」
ピリッとした空気が走った。
それを生んだのは、バルドとシェーンヘルデンだが、恐らく大半はバルドのものだ。
明礬がこの場にいてくれて、その存在に感謝した。彼の探究心は本物だ。例えこの話をまたロールプレイだと思っていたとしても、自分の知らないことに興味を示す彼は、話を円滑に進めるためのピースだった。
「俺が話す」
バルドが重く息を吐いて言った。『同族には同族だ』と。
「ミョーバン。先日、俺に本を見せただろう。あの本の表紙に描かれていた吸血鬼は、同族の間でこう呼ばれている――“
ふむ、と明礬が頷いた。
「奴らは気ままで、適当な生き方をしてやがる。異常な程に空腹に堪えて吸血をしなかったり、吸血をして記憶を操作しなかったり……。あまりにも
『お陰で俺は生きづらい』と、バルドは怒りを隠そうともしなかった。
バルドは闇の中でひっそりと暮らしていたはず。吸血したとしても、記憶操作もきっちりやり遂げていたと思う。そして他の人間の目に触れるというヘマも絶対にしない。
バルドの努力を踏みにじっていたのが、同族の吸血鬼だったとは。そもそも世界中に、吸血鬼とはどのくらいいるのだ。
「曖昧というからには、目的をはっきりと持った他の吸血鬼もいるってこと?」
皐月の言葉に、バルドは無言で親指、人差し指、中指の、三本の指を立てた。
「更に三つ、種類が割れる」
バルドの指が、一本に直された。親指を立て、全員の前に示す。
「一つ、“
命を、落とす……。
裕介はゴクリと生唾を呑み込んだ。
バルドの人差し指が立つ。親指と合わせて、アルファベットのL字のようになった。
「二つ、“
「貴方は、それなんだね。バルド」
裕介はどこか自信があった。自信を持って、バルドに言葉を投げた。
バルドは暫くの間、裕介を眺めていたが、ほんの微かに笑って視線を自分の指に動かす。
肯定はなかった。でも絶対に、バルドはカーマーだ。
「このハンガーとカーマーの性質を併せ持っているのが、さっき言ったアンビギュアスだ。そして、三つ――いや、正確には四つ目か」
中指が動く。最初の三本に戻った。親指、人差し指、そして中指。
バルドは中指を憎らしげに見つめ、小さく舌打ちをした。
「四つ――“モルガーナ派の飢餓の者”――モルガーナ・ハンガー」
やっと出てきたモルガーナの名前に、その存在が何者かを知らない裕介と皐月、明礬は身構えた。
「“呪われた母”、モルガーナを崇め、モルガーナの意思一つでどんなことでもやる巨悪だ。基本の性質はハンガーであるから、当然に飢餓を抑えられない。そしてモルガーナはその飢餓すらも操る。どこまでも墜ちた、モルガーナの
シェーンヘルデンが低く唸った。怒りを思い出したのだろう。
沈黙が流れて、やがて口を開いたのは明礬だった。
「呪われた母と呼ばれる理由は何だい?」
「――モルガーナは自らの夫を半殺しにし、その血を吸って初期の悪阻を凌いで、その後も血を啜り続けた。九ヶ月を苦しみ抜いた夫が命を落とした頃、あの女は子供を産んだ。それが現在の吸血鬼の祖、モルガーナの息子だ」
胃の中から、何かが込み上げてくる気配がした。
皐月と、そして流石の明礬も顔色を悪くし、アルノーも青ざめている。
「モルガーナの息子は、あまりに多くの死者を出し、同時に多くの吸血鬼を作り出した――俺もその一人だ」
初耳だった。モルガーナの話を聞くのはこれが初めてであるので、当然と言えば当然だ。
「モルガーナの夫の友人も、モルガーナの息子に噛まれて吸血鬼になった。その男がカーマーの始まりで、俺の恩人だ。モルガーナの息子を滅ぼし、そして自らもその戦いで倒れた」
バルドの過去を、無理矢理にも聞き出したいと思ったことはなかった。でも心のどこかでは、知りたいと思っていた。
もし、今日がこんな日ではなかったら。バルドがモーントリヒトの狼と再会しなかったら、バルドの過去は知らないままだっただろう。
こんなに重たい話だったなんて。話を聞いているだけで、血の臭いがしてくるような……。
「モルガーナ・ハンガーたちは、その殆どがモルガーナの息子によって作り出された吸血鬼だ。奴らに噛まれると、“モルガーナの声”が聞こえてくる。その声が唆すのだ。人間から吸血鬼に
バルドは視線を上げ、アルノーとシェーンヘルデンをその目に捉えた。
「――白森が……モーントリヒトが狙われたのは、俺に関わったせいだ」
悔恨が滲む声に、裕介は何も言えなかった。
「バルドゥイーン殿。貴方はモーントリヒトに出会い、その後の十年を白森で過ごされた」
「ああ」
「白森を去った理由を、覚えておいでか」
「モルガーナだ。あの女の手が、白森に伸びようとしていた」
モルガーナは、バルドに固執している。それがどういう意図であるのか。バルドの命を狙ってか、それとも仲間に引き入れたいからか。
どちらにせよ、バルドはモルガーナから逃れる為、当時の白森から去ったのだろう。
一ヶ所には留まりたがらないバルドが、十年も白森で過ごしていたなんて。それほどバルドにとって、モーントリヒトと共に在った日々は、手離し難いものだったのだと知る。
「如何にも。そしてモーントリヒトと貴方は、別離の道をお選びになったのだ」
バルドの脳裏に、百三十年前の別れが甦る。
友に。友の故郷に。友の仲間たちに。災いをもたらすことは、堪え難かった。
あまりにも居心地が良かった。温かく、清々しく。霧深い森ではあったが、心を通わせあった友がいれば、それでよかった。
いつの間にか忘れていた他者との交わりを、モーントリヒトが思い出させてくれた。あの頃は、確かに孤独などではなかったのだ。
だからモルガーナの目を逸らせる為に。あの女の意識を自分にだけ向けさせる為に。バルドは白森を去ることに決めた。あまりにも多くの、大切なものを残して。
『お別れだ、バルドゥイーン。我ら再び相見えること叶わずとも、この
遠い記憶。容易に思い出せるのに、その相手はもういない。
「――その別れの瞬間より、これは我らの戦いとなった」
バルドはハッとして顔を上げ、こちらを強い目で見るシェーンヘルデンを見つめ返した。
「バルドゥイーン殿、驕りは許さぬ。我らはただ、モーントリヒトと一族の為に戦っているのだ」
つまり、モーントリヒトの狼たちは、バルドを責める気などないということだ。
「モーントリヒトは、忠実な臣を持ったな。それを言ったのは、他ならぬモーントリヒトだろう?」
バルドの言葉に、シェーンヘルデンは何も答えなかった。
ある意味で、これはモーントリヒトの遺言になるのかも知れない。バルドを責めるなという。モルガーナとゲオルクとの戦いは、アルノーやシェーンヘルデンたちの戦いであって、バルドには何の責任もない、と。
バルドは呆れたように笑って、片手で顔を覆った。まるで亡き友への思いを馳せるように。
「それで……アルノーとシェーンヘルデンは、二人きりで旅をしているの?」
「如何にも」
話の流れを変えようと裕介が訊くと、シェーンヘルデンはこちらを見ずに頷いた。
「世界を渡った。日本へ立ち寄ったのは、狼がいない土地だからだ。要らぬ争いは起こさぬ。ここでバルドゥイーン殿に再会したのは、思いもよらぬことであったが」
「アルノーが覚醒を迎えたら、戦いに行くんでしょ? たった……たった二人で?」
シェーンヘルデンが強いというのは、出会い頭のバルドとの戦闘で交わした数手で感じ取っている。アルノーも成長したら、同じように強くなるのかもしれない。
モルガーナ、ゲオルク。想像するに、敵は強大だ。いくらシェーンヘルデンが強くても、アルノーに可能性があるとしても、たった二人だけでは、とても勝利のイメージは沸かない。
「我らが二人だけであるのは、その方が目立たぬからだ。そして私はアルノーを守ることのみに、全身全霊を注げる」
アルノーがまた、身を縮めた気がした。
「モーントリヒトの狼は世界中にいるのだ、ユースケよ。それぞれが時を待っている。アルノーの覚醒を。アルノーの号令が、世界に轟く日を」
シェーンヘルデンは、族長代理だと言った。本来なら一族を束ね、導いていく立場なのに。世界中に散らばった仲間たちをそのままに、一直線にアルノーにだけ目を向けている。きっとそれは一族の全員が納得していることだ。アルノーは大切な、モーントリヒトの後継者なのだから。
仮であったとしても、シェーンヘルデンは現在の長。恐らく現段階で、力でも、一族からの信頼度でも、シェーンヘルデンに勝る存在はいない。その彼がアルノーを守るというのは、筋の通った話だ。
でも、だからこそ。アルノーはそれを負い目に思っている。未だ覚醒を迎えることができない自分に、一族の期待に応えられない自分に、このシェーンヘルデンが手を煩わせているというのが我慢できないのだ。
背負った運命は大きすぎる。降りかかる期待は身に余る。アルノーの立場に同情すらも烏滸がましく、裕介は呆然とアルノーを見つめるしかできなかった。
「少しゆっくりして、息を吐いたらどうかな……?」
思わずと言った風に、裕介は口を開いていた。
「長い旅だったんだし……それにここにはバルドもいるよ! アルノーもシェーンヘルデンも、一息吐けると思うんだ」
「何でそこで俺なんだ。自分がいるとでも言ってみろ。他力本願か、お前」
漸くバルドにいつもの調子が戻った。それが嬉しくて、裕介は少しだけ笑いながら、『ごめんね』と言って返す。
アルノーと約束した手前、自分が力になると言い通したかったけれど、これは少し話が大きそうだ。バルドの体に入っていたら、少しは使い物になったかもしれないが、今の裕介はただの人間だ。
自分にできることを考えよう。アルノーとシェーンヘルデンの為に、自分が何ができるか。
(だって彼らは、バルドの友人だから。それなら、僕にとっても友人だ)
モーントリヒトの狼たちが、故郷の白森へ帰るために。自分にできることを探すのだ。
「イイネ! 君たちの滞在が延びるというのなら、是非とも僕にも協力させてくれたまえ! 君たちのその創作のネタは、一体どこから沸いてきたというのかね? 僕の長年の研究を持ってしても、君たちのように信憑性のあるお伽噺は紡げなかったし、他の誰かが綴った物も見たことがなかった! なんとリアリティのあるお伽噺だ! 僕のこの気持ちを、何と言い表そう! そうだ! この気持ちは、高・揚・感・さ!」
火が着いたように捲し立てた明礬が、またゼィゼィと苦しそうに呼吸している。それを見た皐月が無表情で、『何で息継ぎを忘れんの?』と突っ込んだ。
(お伽噺……? 明礬君、また信じてないの……?)
ここまで話を聞いておいて、それを創作だと思い込んでいるとは。
狼避けの呪文を成功させるわりに、こういう話は信じない。やはり明礬はよく分からないと、裕介は首を傾げた。
明礬のマシンガンに呆気に取られていたシェーンヘルデンが、怪訝そうに顔を歪める。そして本当の話だと訂正しようとしたようだが、バルドに止められていた。
「放っておけ。ただの変態だ」
バルドは手で払う仕草をして、そのまた反対の手で頬杖をついた。
「それで、どうするんだ?」
ここに留まるのか、どうか。例え束の間だとしても。
シェーンヘルデンは暫くの間、アルノーを見つめていた。アルノーはそんなシェーンヘルデンと目を合わせられず、俯いたままだったが。
「――そのような間も必要か」
そんなシェーンヘルデンの言葉に、裕介とバルドも小さく安堵の表情を見せた。
こうして、アルノーとシェーンヘルデンは町外れの山、“
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