第24話 裏切り者よ、震えて眠れ
車の中は既視感を抱くような空気だった。
バルドは車に乗り込んでからずっと機嫌が悪く、助手席で腕を組んで断続的に舌打ちをしている。今回は隣でない分、裕介はあまり弱気にはならなかった。
かと言って、リラックスしているかと言ったら、そうでもない。今回はシェーンヘルデンが隣にいるからだ。裕介の膝の上にいるアルノーが、興味津々といった様子で窓の外を見ているのが、裕介にとっては唯一の癒しだった。
車から降りて、そのまま研究室に向かう。今日は明礬は、駐車場まで迎えに来なかった。
バルドは渋っていたが、ここまで来たら問答無用。皐月に手を引かれ、仕方なく着いてきた。
もう構内には、殆ど生徒がいなかった。目を引くアルノーとシェーンヘルデンがいるので幸いだ。
「やぁやぁ、よく来てくれたね! 遠慮なく我が研究室へ寄って行ってくれたまえ! おや、今回は新しいお客人もお連れかな? これは思っても見なかったサプライズと言えるね! 我が研究室がこんなにも賑わったことが、未だ嘗てあっただろうか。いや、ないね! 何故だろう? こんなにも魅力溢れるコンテンツが盛り沢山であるというのに! いずれ観覧自由の部屋として外部に開こうと思っているのだけれど、君たちはどう思うかね? 僕の考えでは、観覧希望者が殺到すると予想しているのだよ!」
「そんな変態は、この世でお前だけで十分だ」
出会い頭に放たれたマシンガンに、裕介は目を白黒させた。アルノーだって驚いているし、シェーンヘルデンでさえ僅かに目を丸くしている。
バルドが速攻で明礬に嫌味を言って、それに対して明礬はヘラヘラと笑っている。そんな二人を避けて、皐月はさっさと研究室へ入って行った。
「――今回、君はそちらなのだね」
明礬の雰囲気は、一瞬だけ変化した。
今回、裕介もバルドも、自分自身の体の中にいる。明礬はそれを、ちゃんと感じ取ったようだ。
「イイネ! 僕も準備万端さ!」
明礬は羽織っていたローブを、バサリと翻した。
「丁度、今日の朝、届いたところだ! 賢者のコスプレローブ!」
「――付き合っていられるか」
そう言ったバルドが、慎重に研究室へ入って行った。
バルドの後を追った明礬がドアを潜ると、聞きなれた魔女の笑い声がする。バルドはまた肩を跳ねさせたに違いない。
頭痛がする……。今朝ぶつけた額の痛みを、今頃になって体が思い出したのか。
「変わった人間がいるものだ」
「ご、ごめんね……。良い人なんだけど……」
シェーンヘルデンの言葉に、何故か裕介が羞恥心を抱いた。
彼と目を合わせられず、裕介はアルノーの手を引いて、一歩を踏み出した。
「うわっ!」
瞬間、アルノーの体だけが、何かに軽く弾かれた。
反動で裕介とアルノーは繋いでいた手を離してしまい、アルノーだけが尻餅をつく。呆然として、裕介はそんなアルノーを見つめるだけだった。
「狼避けの結界だ。これしきの子供騙しにも気付けぬとは、何たる未熟者。鍛練が足りぬから、かように無様な醜態を晒すのだ」
「ごめん……」
傷ついて落ち込むアルノーに、裕介の心臓は握り潰されたかのように痛くなった。
まるで、敦史に罵倒された時の裕介のよう。アルノーを自分と重ねてしまい、裕介は何も言えずに、アルノーの頭を撫でた。
「アルノー。お前は何者だ?」
そういったシェーンヘルデンが、研究室の入り口に手を翳した。
その手の向こうには、こちらの様子を窺っているバルドたちの顔が見える。
「モーントリヒトの狼、次期族長であるぞ。これしきのまじない、族長代理の私より先に気付け」
音もなく目に見えない波動が、裕介の体を通り過ぎていった。フワリと舞った髪が、ゆっくりと肌の上に戻ってくる。
今、駆け抜けた波動は、シェーンヘルデンがまじないを破った為に起きた現象か。
それに気付いた裕介がアルノーを見ると、アルノーの顔は悔しそうに、そして悲し気に歪んでいた。
「ああ! そう言えば、随分と前にその場所辺りで、よく分からない呪文を試したことがあった気がするよ! 何の呪文だったかは、さっぱり思い出せないけれどね!」
明礬は、途徹もない人間なのではないかと、裕介とバルドの認識が一致した。何せよく分からない呪文で、本物の人狼を弾き飛ばしたのだから。
事も無げに研究室へ入って行ったシェーンヘルデンに、立ち上がったアルノーと共に後を追う。
数日前に足を踏み入れた研究室と、様子は何も変わっていなかった。ただし、間もなく陽が沈む頃である為、証明は蝋燭ではなくちゃんとした電灯である。
「キシャー! シャッシャッシャッ!」
魔女の魔女狩りトラップが発動した。寄りにも寄って、シェーンヘルデンに向かって。
静寂な時間が流れる。
シェーンヘルデンの後ろを歩いていたアルノーが驚く理由は分かるが、少し離れた所にある椅子に座っているバルドの体が飛び上がった意味は分からない。
片足を掴まれたシェーンヘルデンが、自由なままだった足で、魔女の手を踏み潰した。
「下らぬ。この様なものに驚く腰抜けがいるのか?」
「ハッハッハッ! それがいるのだよ!」
シェーンヘルデンの言葉を受けて、明礬が盛大に笑い飛ばした。皐月に至っては、『ブフッ』と破裂音を発し、顔を背ける。
「――黙れ、ミョーバン。サツキ! 顔を隠しても、笑っているのは分かるぞ!」
バルドの唸り混じりの声に、裕介だけが恐れ戦いている。
皐月と明礬は誤魔化そうとしているが、完全に失敗だ。明らかに肩が揺れていた。
バルドの眉は吊り上がり、今にも殴りかかりそうだ。バルド自身の顔で怒りを見せると、こんなにも迫力があるとは……。
「――バルドゥイーン殿。長くお目に掛からぬ
「お前が一番、煩わしいな! シェーンヘルデン!」
バルドにとって明礬の研究室は、トラウマになるだろう。絶対に。
◆◇◆
流石に今回は、皐月が気を回した。スピーカーの電源を落とし、魔女の笑い声などの音響を完全に遮断する。それができるのなら、前回もやっておけというのは、バルドの悪態だ。
明礬にアルノーたちの紹介をし、彼らの正体も明かしたが、それを信じたかは定かではなかった。明礬のあの調子で、また訳の分からないマシンガントークで流されたからだ。
また一つ、沈黙が落ちる。
バルドの溜め息は合図となって、話しは本筋に戻ろうとしていた。
裕介たちはまた輪になって椅子に座っていたが、裕介の隣にいるアルノーは益々縮こまっているように見えて、裕介は何度もチラチラと白い子供を見遣っていた。
「――族長代理とは、どういうことだ? シェーンヘルデン」
バルドは横目でシェーンヘルデンを睨んだ。
「モーントリヒトはどうした!」
一気に張り詰めた空気に、バルドの怒気に、その場の誰もが身動きできなかった。
先ほどまでの、不本意に笑いを買っていたバルドからは想像もつかない彼の雰囲気に、裕介は知らずに冷や汗をかいた。
「我らが故郷を追われた、百二九年前の“白森の戦い”で――モーントリヒトは崩御された」
ガラガラと、バルドの足元が崩れていく音の幻聴が聞こえる。
愕然と目を見開いたバルドが、悔恨を隠そうともしないシェーンヘルデンをジッと見つめている。
モーントリヒトがどんな存在だったのか、聞かなくても分かる気がした。大切な、大切な存在だったのだ。バルドにとって、今の今まで。その存在の死を、こんな形で知るなんて……。
「――モーントリヒトは上古の狼……そう易く散るはずはない!」
「如何にも。モーントリヒトには知恵も力も、有り余るほどにあった。しかし内側の毒と外からの悪には、到底抗えぬ」
ハッと、バルドが表情を変えた。
「裏切りか……!」
シェーンヘルデンが無言で頷く。アルノーはどんどん項垂れていった。
裕介に向けて、決して裏切るなと言ったシェーンヘルデンの真意が読み取れた。彼は、よく知っていた。この行為の汚さを。
「内側の毒は、あっという間に我らを掌握した。外からの悪には、貴方も想像がつくことであろう、バルドゥイーン殿。吸血の悪魔、“呪われた母”――」
「モルガーナ……!」
音を立てて、バルドが立ち上がった。椅子はそのまま後ろに倒れて、大きな悲鳴を上げる。
その名に聞き覚えはない。バルドがここまで動揺する意味が分からず、裕介と皐月、明礬は、揃って顔を顰めた。
「狡猾なモルガーナは、我らの同胞に甘言を垂れ、唆したのだ。内側に毒を流し込み、我らを弱らせ、その上で外から悪をぶつける。如何に上古の狼、モーントリヒトと言えど、太刀打ちは敵わぬ」
◆◇◆
闇の中、素早く動く影が無数に飛び交う。夜目が効く狼だとて、その影を目に写す、あまつさえ捕らえることは、不可能に近かった。その影は、吸血鬼たちだ。
狼の姿で走るシェーンヘルデン。その傍で、はたまた遠くで、一族の仲間が倒れ伏す音が聞こえる。ある者は無念の断末魔を上げ、ある者は掻き切られた喉から鮮血を散らす。
今でも思い出せば、打ち震えるような地獄絵図だ。
走って走って、漸く辿り着いた、長のモーントリヒトのお膝元。そこにいたのは、いや、あったのは。仄かに輝いていた光は消え失せ、真っ白い毛並みだったはずの体が血に染まり、真っ赤な物体と化した、大狼の亡骸だった。
「実際に手を下したのは、モルガーナの手下どもではない。我らの同胞――否、裏切りのゲオルク」
ゲオルクの野心に気付けなかったことに、シェーンヘルデンは自分を責めた。あの闇に溶け込みそうなほど黒い毛皮に包まれたゲオルクの、汚い欲望にまみれた本心を見抜けなかったのだ。
力無く倒れるモーントリヒトの喉に、鋭い牙を食い込ませて、ゲオルクは邪悪な笑い声を発した。
『モーントリヒトは討ち取った! 白森の長の座は我の物、我の勝利だ! 先代の子は災いの種である。探せ、モーントリヒトの白い髪、白い瞳を! 月光を映す身を! 探し出して、殺してしまえ! 上古の狼の血は、我が世に不要である!』
崇拝していた。モーントリヒトを、敬愛していたのだ。何よりも気高い、その姿を。何よりも高潔な、その意思を。
人間を襲うべからずと掟を定め、一族を化け物から純粋な生命体に変えた。隠れて暮らすことに変わりはないが、それでも平穏な時代を長く築いた、賢明な王だ。
それをゲオルクは、自分の欲と野心の為に、汚した。あの月光の宿る白い毛を、血で染めた。
赦せるはずはなかった。
シェーンヘルデンの全身は怒りで震え、燃えたぎるような熱い血を巡らせた。
モーントリヒトに手を掛けた上、更にその子供を狙っている。それだけは阻止しなくては。モーントリヒトを守れなかった分、その血を引く者だけは、決して失ってはならない。
シェーンヘルデン。白森に棲む、モーントリヒトの狼。その身もその心も既に、モーントリヒトに捧げていた。モーントリヒトの腹心の側近、筆頭である。
悦に浸るゲオルクを目掛け、シェーンヘルデンは銀色の閃光となって駆けた。
不意を突かれたゲオルクは僅かに反応が遅れたが、寸での所で避け、痛手は最小限に留めた。それでもその左目は抉れ、血の塊を吹き出している。
『……シェーンヘルデン……』
あの一撃で、仕留めるつもりだった。ここで仕留めきれていれば……!
『――俺に構っていていいのか? 俺の手駒たちは血眼になって、モーントリヒトの一人息子を探しているぞ』
シェーンヘルデンの攻撃で、ゲオルクはモーントリヒトの亡骸から遠退いていた。それを好機と、シェーンヘルデンはモーントリヒトの亡骸を背負い、ギロリとゲオルクを睨み付けた。
シェーンヘルデンの口許には、ゲオルクの血。それを吐き出し、草を汚した。
まるでそこから、白森が闇に染まっていくような。月光を宿したモーントリヒトの光を失った白から、ゲオルクの黒に移り変わっていくような錯覚を見た。
シェーンヘルデンの銀色の毛が、モーントリヒトの血で濡れていく。
『今日の日を忘れるでないぞ、ゲオルク。未来永劫、月光の差さぬ安息なき夜に、私の影に怯え震えて眠れ』
シェーンヘルデンの言葉に、ゲオルクは堪えられないと言った風に嘲笑を漏らした。その声は次第に大きくなり、白森全体を覆っていく。
ゲオルクの嘲笑から逃れるように、シェーンヘルデンとモーントリヒトの息子、一族の生き残りたちは、白森を後にした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます