第23話 邂逅と記憶

 時は、百四十年程前に遡る――


 場所はドイツの北部。霧深い森だった。

 森の中を歩くのは、斧を担いだ男。装いからして、木こりを生業としている者のようだった。

 夕闇が迫りつつある森。帰宅の途を急ぐ男は、気づいてはいなかった。その背を追う影があることを……。


 喉が渇く。腹が減る。目の前には、良い匂いを放つ獲物が呑気に歩いている。

 汗が滲むその首筋に噛みつけたら。牙が骨を砕く程に。この欲望のままに、血を飲めたら……!


「――襲わぬのか?」


 唐突に背後から投げつけられた冷たい声に、影は――バルドは素早く振り返った。

 吸血鬼の聴覚でも拾えぬ足音で、こんなにまで至近距離にいたとは。

 バルドは憎らしげに、白い大狼を睨み付けた。その毛並みは仄かに光を纏って放ち、体長は三メートルに迫り、頭の高さはバルドの視線の位置と変わらない。飛び掛かられたら、恐らくバルドなど一捻り……。


 木こりの男は、遠ざかっていく。獲物を逃がし、空腹は極限を迎えているが、後を追うつもりはなかった。何より、この大狼に背を向けるほど、バルドは愚かではない。


「口出しをするな、獣風情。」

「ここは我が森。人間の血は流させぬ」


 バルドは隠そうともせずに舌打ちをした。

 獣臭い森だとは思ったが、喉の渇きと空腹に堪えられず、足を踏み入れてしまった。もっと早くに気づいていれば……。この森が、人狼族の棲む森だということに。こんなにも強大な力を持つ大狼がいる森だということに。

 吸血鬼と人狼族の関係は極端だ。人狼が吸血鬼の眷属になるか、敵対するか。

 この気高き大狼が、バルドの眷属になるとは到底思えない。いつ攻撃を仕掛けてくるか、バルドは常に警戒していた。


「――人間の血を吸い尽くし死をもたらすことは、俺の主義に反する」

「これは奇なることを申す者よ」


 大狼はグルグルと喉を唸らせ、笑ったかのように見えた。


「吸血の悪魔には、“呪われた母”の声が聴こえると言うが、貴様は違うのか?」

「その女の話を、俺にするな!」


 バルドは一気に大狼までの距離を詰め、その太い首を片手で掴んだ。

 荒い呼吸を鎮めようと、肩を上下させる。そんなバルドのギラギラとした眼光に、大狼の白い瞳はスッと細められた。


「――貴様、“凪の者”であるな?」


 『その話も聞き覚えがあるぞ』と、大狼は言った。

 バルドは大狼の首から手を離し、また十分な距離を取る。大狼を注意深く見る目は、変わらなかった。


「化け物の生き方を変えるは、並大抵のことではないぞ」

「――そう生きろと、俺を救ってくれた人に教わった」

「愉快、愉快! 実に愉快!」


 ついに大狼は大声で笑った。


「化け物の身に抗う、その強靭な意思を讃えようぞ。我が身も化け物であるが、人間は襲わぬと己に課した者。今日のこの日を同志に出会うた日と祝おう。我が名はモーントリヒト。貴殿の名をお聞かせ願えるか?」

「……バルドゥイーン」


 大狼の体は変化へんげを始めた。四つ足だった者が二本足で立ち、淡く光る白い毛並みはそのままのローブとなる。それを肌を隠すように体に巻き付け、裸足で一歩を踏み出した。

 白い髪、白い瞳。体躯は丈夫そうで、丈高い。大狼から聴こえていた深い声からは想像し辛かったが、彫刻のような美貌を備えた青年だった。


「バルドゥイーン。今より貴殿を我が同志、我が友と定めよう」

「俺の意思はお構い無しか、狼が」


 この時、バルドは吸血鬼となって八十余年を経ており、モーントリヒトは四百より先の年月を数えなくなって久しかった。

 吸血鬼と人狼が主従ではなく友情で結ばれた、稀有な縁であった。



◆◇◆



 回想から立ち戻ったバルドは、目の前にいるシェーンヘルデンをジロリと眺めた。

 思い出せば、思い当たることは多いにある。

 シルバーブロンドの毛並み、瑠璃色の瞳。今は人の姿ではあるが、狼の姿の時のシェーンヘルデンも簡単にイメージできた。


「お前、モーントリヒトの傍で、いつもコロコロと転がっていたチビだな」


 そう。あの当時、シェーンヘルデンは幼かった。今のアルノーと似たり寄ったりだろう。

 バルドの記憶に戻ってくることができたシェーンヘルデンは、光栄だと言わんばかりに、また頭を下げた。


「バルドゥイーン殿とは露知らず。私の非礼にどうかご容赦を」

「止めろ。狼どもは頭が堅くて、どうも面倒臭い」


 手で払う素振りをして、ウンザリとした表情を浮かべながら、バルドは裕介たちの方へ振り返った。

 モーントリヒトによく似ている。アルノーのことだ。モーントリヒトのように淡い光を放ってはおらず、彼のような筆舌に尽くし難い程のオーラはない。それでもモーントリヒトが年若い頃は、アルノーのような雰囲気だったのだろう。

 ジッと見つめてくるバルドに、アルノーは居心地が悪そうに身を竦め、裕介の腕に縋りついた。


「それでコイツは、モーントリヒトに連なるチビか」

「如何にも。モーントリヒトの孫に当たる」


 アルノーの体が硬直したのが、裕介にはよく分かった。

 モーントリヒトとは、どんなに偉大な狼なのだろう。モーントリヒトの孫という立場はあまりにも重く、アルノーにのし掛かっている。その構図は、父と兄の存在をプレッシャーと感じていた裕介によく似ていた。


「――モーントリヒトの狼たちが何故、白森を離れ、この日本にいる?」


 今度はシェーンヘルデンの顔が凍りついた。

 バルドの声と表情は険しく訊ねる口調ではあったが、どこか答えを予測しているようでもあった。アルノーたちが、何か不測の事態で森を離れたという、最悪の状況を。

 裕介はアルノーと手を繋いだまま、バルドとシェーンヘルデンの会話を聞いていた。聞いてもいいものだと思っていたのだ。この中ではある意味、自分だけが異質だということを失念している。


「この人間は何故、貴方を恐れぬ? 我らが人狼と知っても、アルノーから離れようとはしない」


 ここで漸く、シェーンヘルデンは裕介を警戒しているのだと悟る。

 裕介は苦笑いを浮かべながら、口のなかでモゴモゴと言葉を紡いだが、はっきりとは説明できなかった。そんな裕介に苛ついたのはバルドだ。横目で裕介を睨み付け、一つだけ舌打ちをする。


「事情がある。その内、お前にも分かるだろう」

「貴方が記憶操作を施さないとは。後にも先にも、あの御方だけかと――」

「その話はいい。俺の質問に答えろ」


 “あの御方”――それは一体、誰なのだ。

 バルドが記憶を消さなかった人間がいることは、本人が以前に口にしたから知っている。そしてその人は、たった今、シェーンヘルデンが言った“あの御方”と一致するのだろう。でもその人についての詳細は、ここでも分からなかった。


「人間、名を申せ」

「ゆ、裕介と言います……」

「では、ユースケ。貴殿をバルドゥイーン殿の友と見なし、信頼を寄せることを宣言する。決して裏切るな」

「ハ、ハイ……」


 バルドが言っていたことが分かった。確かにシェーンヘルデンは堅苦しい……。

 肩を落とし、溜め息を吐いた裕介に、アルノーが下から見上げてくる。『何でもないよ』とそれに返して、裕介はまたバルドとシェーンヘルデンへ視線を送った。


「バルドゥイーン殿。我ら、モーントリヒトの狼は今、白森を追われ、放浪の身へと堕ちた」


 バルドが鋭く息を吸い込んだ。


「故郷の白森を、我らは失ったのだ」


 裕介は素早くアルノーを見た。小さな白い子供は、悲しそうに顔を歪めている。

 帰れないと、アルノーは言った。やはり迷子などではなく、どうしようもない理由があったのだ。

 故郷を追われ、この遠い日本までやってきた。追われたということは、彼らに害を与えた、何らかの力があったということだ。


「場所を移すぞ」


 バルドの言葉に、裕介も頷いた。

 こんな公園で、こんなに重大なことは話せない。どこの誰に聞かれてしまうか分からないからだ。


「でも、どこに行けば――」

「明礬の研究室」


 裕介の言葉を遮って、右方向から声が掛かった。

 四人が慌ててそちらへ顔を向ければ、皐月が無表情で片手を上げて挨拶をしてくる。


「皐月兄さん、どうしてここに?」

「車を運転してたら、裕介たちが見えたから。深刻そうな顔をしてるし、何だろうと思って」


 近づいてくる皐月に、シェーンヘルデンが警戒したように身構えた。


「この人間も、バルドゥイーン殿の馴染みか?」

「ユースケの兄だ――信頼できる」


 『よろしく』と、人見知りせずに皐月が挨拶をする。

 皐月の表情が動くことはなかったが、裕介は内心でヒヤヒヤしていた。シェーンヘルデンのことを信じていないわけではないが、彼は先ほど、躊躇いなく裕介を狙った。皐月に対しても、同じような行動を取る可能性はある。


「狼避けのまじないの気配がする」


 裕介とバルドは、シェーンヘルデンの言葉がよく分からなかった。皐月からは何も感じない。


「ああ。明礬の実験でしょ」


(明礬くん! 皐月兄さんをどれだけ実験台にしてるの!)


 思わず心の内で明礬にツッコミを入れ、裕介は呆れてしまった。

 きっとその時も、皐月は無表情で気だるげに、明礬に付き合ったのだろうと察する。


「へぇ、人狼か。それは話を聞かれたくないよね。でも悪いけど、既に十分に目立ってるからね」


 またサラリと、アルノーとシェーンヘルデンの正体を言い当てた皐月に、裕介は何も言うことはできなかった。勘がいいのも考えものだ。

 皐月の言葉通り、アルノーとシェーンヘルデンの容姿は目立つ。片や白い髪で、片や銀の髪だ。帰宅時間が差し迫っている今、四方を公道で囲まれた公園は注目を集めやすい。


「シェーンヘルデン……皐月兄さんは、バルドの事情も知ってて……僕たちに協力してくれているんだ。今、話しに出た明礬くんも。だから、信じてくれないかな……?」


 疑う気持ちはよく分かる。でも、皐月も明礬も、決して悪い人間ではないから。きっと、力になってくれる。


「バルドゥイーン殿とユースケを信じると決めたのだ。撤回はせん」


 シェーンヘルデンの言葉に、裕介はホッと息を吐いた。つまり皐月たちのことも信じてくれるということだ。


「じゃあ、行く? 明礬の研究室」

「断る!」


 それまで黙っていたバルドが、いきなり声を張り上げた。

 この前、その研究室に行った時、散々な目に遭っていたのを相当に根に持っているらしい。皐月を睨んでいるようにも見えるが、実際はそのまた向こうにいる明礬へ向けているのだろう。


「明礬の研究室なら、人が来ないの知ってるでしょ。話を聞かれたくないなら、最適だと思うけど」


 グウッと、バルドが唸った。


「バルド……諦めようよ……」


裕介は思わず、諭すように呟いた。

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