モーントリヒトの狼

第20話 また明日

 長いようで短かった停学期間が明け、裕介は自分の体で登校していた。

 謹慎中、バルドとの入れ代わりが起きる気配はなかった。

 裕介は文字通り、泣きながら停学中の課題をこなして終わらせ、それを裕介の体に入ったバルドが提出するという、裕介の苦労を誰も労ってくれない構図を覚悟していたのだが。

 謹慎が終わるという今朝になって、入れ代わりが起こった。


「痛いなぁ……」


 額に貼り付けた湿布を撫でて、ジクジクと響く痛みを煩わしく思う。

 この怪我をしたのは今朝で、現在はもう夕方の下校時間だというのに痛みは引かない。バルドの体に入っていたからか、痛みにてんで弱くなっている気がする。

 テーブルから落ちていた布巾が悪いのだ。バルドの体に入っていた裕介が気づかずに踏んで滑ってバランスを崩し、後ろにいた裕介の体の額に強く後頭部をぶつけてしまった。それが今回のトリガーだ。

 悶絶する裕介に対し、バルドは平然としていた。寧ろ喜んですらいた。馴染みある自分の体に、久しぶりに戻れたからだ。


「学校までサボるし、あの人……」


 謹慎の原因になったのはバルドなのに。正確に言えば、二人とも当事者だけれども。

 それでもバルドがいれば、少しは慰みにはなっただろう。クラスメイトや他の生徒から向けられる、奇異の目に堪える苦痛の。

 あっという間に噂は広まったらしい。目立たなかった一年の灰村が、教師を辞職に追い込み、鉄輪たちを退学させたと。

 事実ではあるけれど、裕介ではない。バルドだ。そして、兄の敦史の横暴……。


「大体、別行動って……。何でいきなり?」


 自分の体に戻って、一回だけスンッと鼻を鳴らしたバルドが、いきなり目の色を変えて、『僥倖だ』と言った。

 今日、入れ代わりが起こったのは、最高のタイミングだと。裕介にはその言葉の意味が分からなかった。バルドの体に入っていた時も、裕介には何も感じ取れなかったのに。

 一瞬にして周囲の異変を察知したバルドの目と雰囲気に、ほんの僅かに緊張して押し黙った。剣呑な空気を醸し出しながら、窓の外をジッと見つめるバルドに、裕介は何も言えなかったのだ。警戒して剣呑な一方で、動揺して震えているような、その視線に。


『今、入れ代わりが起こっては面倒だ。お前には近づかないぞ、ユースケ』


 裕介とバルドが近くにいて、何らかの事故でトリガーを発動させる。正しく今朝のように。

 そんな事故を防ぐために、別行動をしたかったのだろうけど。学校をサボるまでのことだろうか。お陰で裕介は一人で、遠巻きに見られる痛い視線に一人で堪えなければならなかった。鉄輪たちにいじめられていた時とは、また違った辛さだ。


「獣臭いって、何なの?」


 バルドが言った言葉だ。

 獣臭いから、入れ代わりが起こっては困るって? どんな理由だ。バルドは細かく説明してくれる気はないようだった。

 別行動によってバルドが裕介の前から去る可能性も考えられたが、明礬から聞いた話もある。バルドだってそこまで愚かではないし、裕介はひとまずその別行動という話を呑んで、一人で学校に行ったのだった。


 今日は塾はない。まっすぐ家に帰る。

 バルドはもう帰宅しているだろうかと考えながら、トボトボと歩を進めていた時だ。


「灰村ー!」


 後ろから呼び掛けられ、裕介は少しビクついて、ゆっくりと振り返った。


「堀田くん……」


 クラスメイト。バルドの隣の席の堀田だった。

 あの日、一番初めに謝ってくれて、鉄輪たちのイジメを証言してくれた男子だ。

 駆け寄ってくる姿を見ながら、動悸のする胸を何とか宥める。今日、彼に何か悪いことをしたかという無意識な思考に、裕介は自分に呆れた。

 この小心者の根性を叩き直すには、まだまだ時間がかかりそうだ。


「家、こっち?」

「うん……」


『途中まで、一緒に行っていいか?』と聞かれ、裕介は驚きながらも何とか頷いた。


「今日、部活がスケジュールの都合で休みになったから、この時間に帰ってるんだ」

「そ、そうなんだ……」


 緊張する。ただのクラスメイト。同じ年齢の男子なのに。

 裕介にとっては、そんな平凡なことが臆する理由になっていた。今までそんな人物たちに虐げられて来たのだから当然だ。

 バルドという友人ができて、どんなに解放された気持ちになっても、高く高く積まれてきたトラウマは消えない。

 裕介の硬い表情に気づいたのか、堀田は少しだけ悲しそうに笑った。


「ごめんな、急に。謝ったからって、全てを許されるわけじゃないって分かってる」


 鉄輪に同調して、嫌がらせをしてきた人もいた。それに比べて堀田は、嫌がらせをしてきたわけではないけれど、見て見ぬフリをした方の人間だ。

 多分、裕介が『助けて』と手を伸ばしていたら、その手を無慈悲に振り払っていた人だ。


「自己満足なんだよな、結局」


 罪の意識に苛まれ、謝ったとしても。それは自分を正当化する手段でしかない。

 振り払われた手を力無く落とす裕介に、きっと気づいてはくれなかった。背を向けて目を逸らし、二度とこちらを見てくれることはない。


「今日だって、教室で灰村に話しかけることもできたのに……。まだ、まだ怖くて……」


 もう鉄輪たちはいない。それでも彼らに毒された他のクラスメイトが、どんな行動を取るのかは想像できない。再び裕介を標的にすることも考えられるし、はたまた堀田がターゲットになる可能性だって。事実、あの日の鉄輪たちは、堀田を攻撃しようとしていた。

 標的が自分ではない喜びを、裕介は望みもしていないのに、あの時に味わった。同時に嫌悪感も、そして沸々と煮える怒りを。その怒りは鉄輪たちに向かうものと、自分に対してだ。


「――怖いよ。それは当然だよ」


 喜びを感じた自分は、なんて醜かったのだろう。その感情は確かに一瞬ではあったけど、でもその時の自分は化け物だったのだ。

 化け物になった自分に怒り、裕介は堀田を守ろうと足を踏み出した。心に、心で返そうと。示してくれた心は、疑いたくないから。


「ご、ごめんね……。正直に言うと、ムシがいいなとも思うよ……」


 堀田は申し訳なさそうに肩を落とした。


「でも堀田くんは、一番に声を挙げた。その勇気は、凄いなとも、思う……」


 鉄輪という暴君が君臨していた、あの教室の地獄で。堀田の声はよく響いた。どれほどの力が必要だったのだろう。化け物に成り下がろうとしている自分に抗うのには。

 抵抗する気力というのは、裕介自身も失っていたものだ。瞬く間に奪われてしまうものだから。それを堀田は、ずっと抱えていたのだ。

 例え裕介の手を振り払っても。背を向け目を逸らした向こう側で、歯を食い縛って堪えていたのかもしれない。


「堀田くんの勇気は見えたから、僕はそれを信じるよ」


 自己満足でもいい。所詮、どんな感情でもそれを他人に向けてしまえば、それは自己満足だ。あとはそれを受け取る側の問題。

 バルドが聞いたら、また『お人好しが』なんて言われるだろうか。でも、鉄輪たちのような化け物より、ずっとマシだ。


「――ありがとう」


 そう言った堀田に、裕介は初めて笑顔を向けた。


「それから……今日、ずっと気になってたんだけど……そのおデコ、どうした?」


 裕介を見ていた堀田の視線がスッと上向いたと思ったら、問いかけられたのがそれだ。

 急に恥ずかしくなって、慌てて額の湿布を剥がす。


「また喧嘩? あの日、鉄輪たち全員を伸すくらい、喧嘩が強かったのに……。よく我慢してたんだな、灰村」


 誤魔化すように、ハハハと笑う。

 バルドくらいに喧嘩が強ければ、確かに我慢しなくて済んだのだろうけど。しかしあの日、この体を乗っ取っていたのは、そのバルドだ。残念ながら、裕介が強くなったわけではない。

 頭が痛いのは、ぶつけた額のせいか。それとも思いがけず、こんな話になったことへの戸惑いのせいか。


「そう言えば、シュヴァルツくん。まだ具合は良くならないのか?」

「ええっ? 何の話?」


 動揺して驚いた裕介に、堀田もまた驚いた。


「シュヴァルツくんもあの日から、体調が悪いとかで学校を休んでるだろ?」


 そう言えばそうだったと、裕介は何度も頷いた。

 吸血鬼であることや、体の入れ代わりのことなど、秘め事はあまりに多すぎる。唐突にバルドのことを突っ込まれると、臨機応変に対応できそうにないというのが、再び確認できた。


(な、何で今、ここにいてくれないの? バルド……)


「もう一日、様子を見ようって、今日は休んだから……。明日は行くんじゃないかなー……?」


 そう適当に言って流す。なんとかコレで納得して欲しいと思いながら。


「そっか。あ、俺、こっちだ」


 そう言った堀田が、脇道を指差した。


「また、明日な。明日は教室で話そう」


 立ち止まって、堀田の顔を見つめる。

 また、明日。そんな言葉を使ってクラスメイトと別れるのは、いつ以来だろう。記憶の中では、自分は随分と小さかった気がする。

 明日なんて来なければいいと願ったのは数え切れない。眠る為に目を瞑り、夜の暗さが永遠でも構わないと思ったのはどれくらいだ。

 太陽が昇れば、朝が来れば、目を覚ませば。自分は行かなければならないから。地獄の教室へと。


(そんな地獄、もうないから)


「また、明日。堀田くん」


 明日への希望を抱いて、この台詞を言おう。久しぶりに、クラスメイトへ向けて。


 裕介の言葉に、堀田はクシャリと笑い、脇道の方へと歩いて行った。暫くその背中を眺めていたが、やがて裕介も歩き出す。

 堀田に話したように、バルドも明日は学校へ行くだろうか。もし行ってくれるのならと、想像する。

 裕介とバルド、そして堀田。三人で取り留めのないことを話す。普段、他の生徒たちがしているような、平凡なことだ。今までの裕介には何も縁がなかった光景。

 想像して、何だかどうしようもない高揚感が沸いてくる。自分の表情が崩れていることにも気付けなかった。


「――キャンッ!」


 鋭く響いた音に、裕介は少し肩を竦め、音の出所へ視線を走らせた。

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