第19話 兄弟

 浮上してきた意識に、バルドはゆっくりと目を開けた。

 天井からぶら下がる小さな人形の首が視界に入り、思いっきり顔をしかめた。ここはまだ『オカルト・ホラー研究サークル』の部屋らしい。できれば夢であってほしいとも思っていたのに。

 寝転んでいる体勢で、額には濡れたタオルが乗せられていた。知恵熱みたいなものが出ていたのかと、裕介の体のことを考える。


「ああ、起きた?」


 横から聞こえてきた声に、視線だけを動かすと、皐月が本を持って椅子に座っていた。

 寝転がって見上げる形だからか、皐月が持つ本の表紙が見える。それはあの吸血鬼の本で、ウンザリしたバルドはゆっくりと起き上がった。


「アイツらは?」

「第二研究室に行った。行く?」


 裕介たちのことを聞いてみると、そんな答えが返ってきた。

 こんな部屋がもう一つあるのか? 御免被りたい。『行かねぇよ』と言ったバルドは、痛む腹部を擦った。

 散々な目に遭った。気味が悪いし痛いしで、思い出すだけで気分が悪い。おまけに気を飛ばしてしまったようだ。吸血鬼である自分が。

 貧弱な裕介の体と、恐怖に負けた自分のせいで胸糞悪い。バルドはイライラしながら舌打ちをした。


「お前、本当にアイツの友人をしているのか?」


 バルドが明礬に対して恨み節を溢すと、皐月はキョトンとして首を傾げた。


「世間一般で言えば、そうなんだろうね。よく一緒にいるから」

「ああ、そうかよ」


 皐月に八つ当たりをしても仕方ないが、苛立ちを抑えるには他に方法がない。

 片膝を立て、後ろ手に手を付いて体のバランスを取る。部屋を見回しながら、あの辺りにトラップがありそうだと考えると、また怒りが込み上げた。

 蝋燭を全部倒して、この部屋を燃やしてやろうかと思考を巡らせていたら、皐月が本を机に置く音が聞こえた。


「変わった奴だけど、いい奴だよ」


 そう呟く皐月に、バルドはゆっくり視線を送った。


「俺はこんなだから――感情を表に出さないから、よく敬遠されるんだよね。何を考えているか分からないって」


 女性に限って言えば、そうではないだろうがと、バルドは思った。

 整った容姿は、それは異性の意識を惹き付けるだろう。実際、この大学に付いた時に、女性たちはこの皐月に対して歓声をあげていたし。

 しかしその無表情は、近寄り難い空気にするには十分だ。それが益々拍車をかけ、女性に夢を見させている可能性も捨てられない。


「明礬だけは違ったよ。いきなり話しかけてきて、そのまま居座ってる。俺の何が気に入ったのか知らないけど。いつもあの調子だから、楽なんだよね。何も考えなくていいし、取り繕わなくていい。自分のままでいられる」


 無言のまま、バルドは皐月を見つめ続けた。

 裕介の兄。こうして二人きりになるのは、出会ってから数日が経ってから今までで、これが初めてのことだ。こんなに話す皐月を見るのも初めてで、物珍しいと思う気持ちもあった。


「俺は実の母を知らない」


 少し考え、それからバルドは思い出した。

 裕介の母は、父の後妻だ。三人の兄とは母が違い、それが裕介のコンプレックスだというのはよく分かっている。

 後妻ということは、先の妻はどうしたのだろう。離婚したのか。しかし、皐月の口振りから察するに……。


「俺が一歳になる前に亡くなってるんだ。元々、体が強い人ではなかったらしいし。三人も子供を産むなんて、大きなダメージだったんだろうね」


 この話をバルドが聞く必要はないのかもしれないし、皐月だってどうしてもバルドに聞かせたいというわけでもないのかもしれない。

 それでもお互いに止めようとする気持ちはなかったし、無意識に続きを求めていた。


「俺を産んだせいで、母さんはいなくなったんだって、思ってた頃もあった」

「そんなわけがあるか」


 唐突な皐月の自虐に、バルドは思わず口を挟んだ。『今は違うよ』と、皐月も小さく頷く。


「――母さんはいなくて、父は仕事人間で。二人の兄とは、年が離れている。兄たちはもう、学校の友人と遊ぶ方が楽しい年頃だったから――身に付けようがなかったんだよ。笑うも、泣くも。いろんな感情表現の仕方を」


 そう語る皐月の表情は、確かに動かなかった。

 小さな男の子が見るのは、父と二人の兄の背中だけ。寂しいと思っても、それをどう表現していいか分からない。それを教わるほど、家族たちは向き合ってくれなかったからだ。

 母親さえいてくれたら、と。当時の皐月は、現在のバルドは、心の底から思っていた。


「父の再婚は、兄さんたちの反感を買ってた。二人は実の母のことをよく覚えているし、何より裕里さんが若すぎて。自分と四、五歳しか違わない人を、母とは呼べないよね」


 『まぁ、そうだろうな。』と、バルドも同意した。


「俺は、嬉しかった。やっと俺にも母さんができるって」


 裕介の兄弟たちの年齢差から考えると、そこまでの認識の違いが生まれるのは当然かも知れない。

 上の兄二人は、恐らく当時、中学生くらいだ。思春期の真っ只中で、父のそんな話を呑み込むには幼すぎる。

 対して皐月は、やっと自我が芽生え始めた頃。まだまだ母が恋しい時で、皐月の生い立ちを考えると、余計に納得できる話ではある。


 寂しい幼少期を過ごした皐月が、漸く光明を掴もうとしていた。


「でも、裕介が産まれた」


 なんて、切ない巡り合わせなのだろうかと思う。


「赤ん坊の裕介を抱く裕里さんを見て、奪ってはいけないと思った。裕里さんはこの子だけの母親なんだから」


 そうして結局、皐月は母を知らずに育った。無表情という副産物を抱えて。

 何も知らずに産まれてきた裕介のせいではないし、裕里のせいでもない。ただただ、重なったタイミングの悪さのせいだ。

 そんな切ない理由のせいで出来上がった皐月の無表情が、周囲の人を遠巻きにしてしまうというのも、やるせないものである。しかしそれをぶち壊して、自分の傍にいてくれる明礬を皐月が友人と呼ぶのは、よく理解ができる話だった。


「そんな理由がありながら、お前がユースケに優しい理由は何だ? お前だって兄のアツシと同じようになる要因はあるだろう」


 敦史の裕介への接し方は、思い出すだけで反吐が出そうになる。つい今しがた、皐月から聞いた話を加味したとしてもだ。

 裕介には、何の責任もないのに。敦史のあの態度のせいで、裕介の自己肯定感は著しく低い。気弱で卑屈で。見ていて腹が立つくらいに、あまりにも理不尽だ。


「俺だって小さかったけど、赤ん坊だった裕介を抱っこした時のことは忘れない」


 そう言った皐月の表情に、バルドは僅かに目を見開いた。


「この世に、こんなに小さくて、こんなに温かいものがあるのかと思った」


 握った拳を見つめる皐月。その手には、赤ん坊の裕介を抱いた時の温もりが、今でもしっかりと残っているのだろう。

 口角が少しだけ上に上がるのが、自分でも分かった。何故なら、目の前にいる皐月と、全く同じ表情をしていると思うからだ。


(しっかり、笑えているぞ。サツキ)


「奪えないのなら、与えよう。笑うも泣くも、俺は知らないけれど、それなら俺と同じにしてはいけない。たった一人の、弟だから」


 寂しい幼少期に、一度だけ見えた光明。しかし裕里はすぐに裕介の母となって、皐月はあっという間に引き下がった。

 だけど、また見つけたのだ。裕介という光を。

 大切にする理由は、それだけで十分だ。


「でも俺だってチビで、敦史兄さんには敵わなかった。守ろうとしても守りきれない。いつだって隠れて泣く裕介の傍で、黙って一緒にいるだけだった」


 非力だった自分を悔いる感情が、皐月の声色に滲んだ。


「――兄弟揃って、どうしようもないグズだ」


 呆れたように鼻で笑ったバルドに、皐月が視線を寄越してくる。


「ユースケにとっては、それだけで良かったんだ」


 何も、身を挺して守ってくれなくていい。今ではできるようになったかも知れないが、敦史に向けて喧嘩を仕掛けなくても良かったのだ。

 敦史の言葉に、態度に打ちのめされ、辛く苦しい涙を流していたあの孤独な時間を、皐月が隣で黙って一緒に過ごしてくれるだけで。裕介にはどんなに心強く、慰めになったか。想像は難しくない。


「お前は、良い兄だ。サツキ」


 他の二人とは、比べ物にならない程に。きっと裕介だって、そう口にする。


「裕介の顔で、そう言うのはズルいよね」


皐月はまた確かに、微笑んだ。



◆◇◆



 何だかとても疲れたと、裕介は思った。

 バルドが目覚めるまでと、明礬に着いていった第二研究室で、明礬の訳の分からないハイテンションオカルト話に付き合わされたからか。そもそもスピーカーから聴こえる大爆音の魔女の笑い声で、何度も驚かされたからか。


 裕介たちが皐月の車に乗り込む時、明礬に『またおいで』と誘われたが、内心では遠慮したいと思っていた。バルドははっきりと、『もう来ねぇよ!』と怒鳴っていたが。

 それでも、きっと明礬との付き合いも長くなると、裕介は考えていた。


「皐月兄さん、もう卒論の準備とかしてるんだね」


 明礬と二人でいた時に、彼から聞いた話だ。

 皐月はよく第二研究室で自習をしているらしい。第一研究室は明礬が改造しすぎて、スピーカーの音で気が散るそうだ。


「まぁね。もうすぐ卒業だし」


 バックミラー越しに、皐月と目が合った。


「テーマって何?」

「児童心理と児童福祉について」


 (児童……?)


 思ってもみなかった答えで、裕介は少し驚いてしまった。

 そう言えば、どんな職に就きたいかとかも聞いたことがなかった気がする。大学で何を学んでいるのかも。

 皐月の卒論のテーマから考えると、何となく皐月が目指すものは分かった。


「皐月兄さんが子供が好きなんて、知らなかったな」


 それまで黙っていたバルドに、ペシンッと軽く頭を叩かれた。

 痛みはないけれど頭を擦りながら、理由の分からないバルドの行動に目を丸くする。


「グズが」


 何の前触れもないバルドの罵倒に、ほんの僅かに傷ついた。


 皐月の進路に、幼少期の自分が関わっているとは、裕介自身が知る由はない。

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