第21話 白い子犬と男の子
すぐ側には緑地公園がある。その公園の広場で、五人くらいの小学生たちが集団を作っていた。
公園と公道とを隔てる生け垣に歩み寄り、小学生たちを注視する。彼らは笑い声混じりで騒いでいた。
顔を顰め、その光景に嫌な気分が沸くのを抑え込む。小学生なのに、まるでその声は鉄輪たちのようだった。
その時、やっと気づいた。さっきの鋭い音は、鳴き声だったのだと。小学生の彼らが取り囲むのは、小さな真っ白の子犬だ。
小学生たちは鉄輪。子犬は裕介。彼らはいじめているのだ、小さく弱い存在を。
気づいた時には、足を進めていた。
立ち向かう強さをバルドに教わり、勇気を堀田に分けて貰った。その矛先が小学生というのは、ちょっと格好悪いとも思うけれど。それでも、小さく丸まり震える子犬の姿は、自分によく似ているから。
「――何、してるの?」
後ろから声をかけると、小学生たちは一斉に振り向いた。
小学生から見ると、気弱な裕介でも大きくは見えるのだろう。怯んだ様子の彼らに、裕介はちょっとだけ安堵した。
「あ、逃げたぞ!」
「追え、追え!」
隙を突いて子犬が逃げて、背の高い草むらに駆け込んだ。
小学生たちはまた賑やかさを取り戻して、子犬を追いかけようとしている。
「やめなよ」
静かに呟いて、また小学生たちを制止した。
「そんな歳の内から、予備軍にならないほうがいいよ。化け物の、ね」
いじめっ子という、化け物の予備軍だ。小学生の内からこんなことをしていて、将来が心配である。
昔の裕介なら、こんな場面はスルーしていた。見て見ぬフリだ。でも今は、そんなことできない。いじめられる辛さも、守ることの眩しさも、どちらも知ってしまったから。
バルドみたいにド派手な立ち回りはできない。でも裕介は自分にできるだけの全力で、弱い存在を守ろうとしていた。
「……わ、訳分からねぇこと言うなよ! オッサン!」
(オ、オッサン?)
小学生の精一杯の反撃は、裕介に多大なダメージを与えた。
『行こうぜ』と言って、連れ立って去って行く小学生たち。その背中を見送ることもできず、裕介は衝撃に堪えていた。
(小学生にとって、高校生はオッサンなの? 子供って怖い……)
痛む胸を撫で、子犬が逃げ込んだ、背の高い草むらを見遣る。
驚かせないように、ゆっくりと静かに近づいた。逃げ込んでから草むらが大きく動いてはいないから、まだそこにいるのだろう。
母の裕里は犬が好きだっただろうか? もし我が家で飼えないなら、里親を探さないといけない。
「おいで。もう大丈夫だよ――」
今後を考えながら、草むらの奥を覗き込んで、硬直する。
「……え?」
そこにいたのは子犬ではなく、さっきの小学生よりももう少し幼い、明らかに西洋風の顔立ちの子供だった。
真っ白い髪。これはさっきの子犬と一緒だ。でも全体の見た目は似ても似つかない、外国人の子供。まだ少し暑さを感じる季節なのに、身に纏っている服は毛足の長いファーリー調で、これも真っ白だった。
全く事態を呑み込めなくて混乱する。それでも辺りを見回して、さっきの子犬がいないか探してみた。
「あの……こっちに、子犬が来なかった……?」
そう口に出して、自分の馬鹿さ加減にウンザリする。相手は子供。しかも外国人のようだから、日本語が通じるかも怪しい。
髪は透き通るような白。そして怯えたように裕介を見るその目も。白目から虹彩を縁取るように灰色っぽくはなっているが、中心に向かうにつれて白くなっている。小さく丸い瞳孔だけが黒く浮いていた。
浮世離れした、白い髪に白い瞳の子供。見れば見るほど次第に、裕介はその子供から目を離せなくなった。
「えっと……日本語は話せるかな?」
「――日本語なら、一日で覚えた」
(一日で覚えたって……何それ?)
言語の習得に、一日だけで済むなんて信じられない。しかもこんな子供に、そんな芸当ができるとも思えない。
裕介は益々戸惑って、土の上に片手を付いた。その反対の手で、頭を抱える。
「さっきの人間みたいに、貴方もオレをいじめる?」
悲しげに言ったその子の言葉に、裕介はハッと顔を上げた。
「そんなことしない!」
そう言って、裕介はまた目を丸くした。
この子は今、なんと言ったか。『さっきの人間みたいに』と言った。さっきの小学生たちにいじめられていたのは、子犬だったはずだ。
呆然と、小さな白い髪の男の子を眺める。
「――とりあえず、ベンチに座らない? 僕が一緒にいるから、誰も君をいじめないよ」
そう言って手を差し出すと、男の子は恐る恐るといったように手を重ねてきた。
草むらに逃げ込んだ子犬。いつの間にか同じ草むらの向こうにいた男の子。その男の子が発した、『さっきの人間みたいに』という言葉。
考えて、導き出した答えは一つ。この子が、さっきの子犬だ。
(最近の僕の周り、どうなってるんだろう……?)
吸血鬼に襲われ、その吸血鬼と体が入れ代わって。今日は子犬が人間に変身した。
本物の吸血鬼がいたのだから、子犬が人間に変身してもおかしくはないのだけれど。それにしたって、どうして自分の周りばかりなのだ。
いや、自分の周りで起きるからこそ、こんな事件を知るのであって。本当は世界中で起きているのかもしれない。
次に明礬に会ったら、このことを話してあげよう。きっと喜んでくれる。オカルトはたまに現実になるんだって。でも信じてくれるかどうか。またロールプレイがどうのと、真剣に受け取ってくれないかも。
裕介のそんな現実逃避が行われていると、二人はいつの間にかベンチに辿り着いていた。気づけば手を引いていたのは男の子の方で、裕介が案内されるような形になっていた。
「ジュース、買ってこようか?」
「いらない」
「そっか」
すげなく断られ、会話が終わった。
肩を落として、男の子の隣に座り、ぼんやりと夕焼けの空を見上げた。
額が痛い。頭痛がすることばかりだ。内心、とても驚いてはいるが、どうしても問い質す気にはなれない。もしこれがバルドの正体に並ぶような、この男の子の秘密だったらと思うからだ。
もし聞いたとしても、裕介は言い触らすつもりはないけれど、この子が裕介を信じてくれなかったら話は別だ。それなら追求は避けるべき。
「僕は裕介。君のお名前は?」
「アルノー」
それでもせめて、名前だけでも。そう思って聞けば、ちゃんと答えてくれた。それが嬉しくて、思わず笑顔になる。
「よろしく、アルノー」
「よろしく、ユースケ」
(呼び捨て……。小学生にはオッサンと言われるし、なんて日だ……)
落ち込んだけれど、すぐに立て直す。
バルドだってそうだった。外国では呼び捨てやニックネームが主流だし、アルノーにとっても普段通りなのだろう。
下の方にある、アルノーの頭を見下ろす。
透き通るような白い髪。加齢などによって色が抜けた髪ではない。きっと生まれつきだと思う。風にサラサラと揺れ、夕焼けの朱を映す。
「帰りたくなったら教えてね。送っていくから。家はどこか分かる?」
「――“白森”……」
『しろもり?』と、裕介は首を傾げた。
この辺りにそんな地名はあっただろうかと考えるが、思い当たる所はなかった。
「ごめん……僕、分からなくて……。スマホで調べるよ」
「いいよ。どうせ帰れないから」
悲し気に言ったアルノーに、裕介は言葉を失って、胸を締め付けられた。
見た目は五、六歳くらい。まだまだ子供で、大人に守られるべき存在だ。それなのに、『帰れない』と語ったその表情は、あまりにも大人びていた。
迷子なのか、どうなのか。もし単なる迷子であるなら、余るほどに悲痛。
帰りたいけれど、帰れない。切望しているのに、叶わない。迷子にしては、その表情は辛すぎる。
「――絶対に、僕が送り届ける。アルノーの力になるよ」
バルドみたいに、絶対的な力があるわけではないけれど。ただの非力な人間ではあるけれど。
帰りたいという夢を諦めないよう、励ますことはできるから。いつまでだってこうして、隣にいて。
「ユースケが送ってくれなくていいよ。それにすぐにシェーンヘルデンに見つかる」
(あ。見つけてくれる人がいるのか……)
勝手に意気込んで、勝手に裏切られた気になる。乾いた笑い声を発して、気落ちした自分を誤魔化した。
「シェーンヘルデンって、名前? お父さん?」
「違うよ。シェーンヘルデンはオレの伯父。両親はもういないよ」
ドキリとして、踏み込んでしまったことに罪悪感が募る。
「ご、ごめん……」
「いいんだ。もう随分と昔のことだから」
(そんな子供の姿で、昔のことだと言われても……)
アルノーの正体は不明だ。でもバルドと同じように、何らかの事情があるのだろう。
帰れない場所、もういない両親……。どんな暮らしをしているのか、想像もできない。
「オレは、逃げたんだ……」
アルノーが呟く。
裕介は静かにゆっくりと、その小さな白い頭を見下ろした。
「一族からも、シェーンヘルデンからも……。シェーンヘルデンは凄い存在だから、一族のみんながシェーンヘルデンを求めてる。オレなんかじゃない。それなのにシェーンヘルデンは、オレにつきっきり……。それならオレなんか消えた方がいいんだ……」
『だから、逃げ出した』と、アルノーが吐き出した。
話の流れは全く掴めない。でもシェーンヘルデンという人物が、どれだけ偉大なのかはよく分かった。そして本来、その地位にいるのは、アルノーであるべきことも。
比べられる対象が大きい程、こちらにとってはプレッシャーだ。裕介にはよく理解できる。しかもその対象を、自分自身が定めてしまったら特に。
アルノーに関して言えば、そのシェーンヘルデンがつきっきりだというのだから。詳しいことは分からないにせよ、それがどんなに重圧であるのか。アルノーの小さな体で堪えられるものでないことは、ある程度は予想できた。
「逃げてもいいんだよ、アルノー」
サラサラと柔らかい、白い髪を撫でる。
「でも、逃げる方向は間違ってはダメなんだ」
裕介だって、つい最近、それを知ったばかりだ。
「引き返せない方へ行かないで。行き詰まる方へも行ってはいけない。いつかきっと本筋へ戻れる道を選ぶんだ」
逃げてばかりだった裕介は、いつの間にか通るべき道を見失っていた。他の人の手によって寸断された道。兄によって破壊された道。先へ繋がるはずの道はなく、裕介は後退させられてばかり。
バルドとの出会いで変わった。道は再び前へ伸び、裕介は今、ゆっくりと歩みを始めている。
逃げてきた道が全部正しかったとは思わない。でもそれは確実に迂回して、本筋へと繋がった。裕介が生きる人生へと。
「僕は、アルノーのこともシェーンヘルデンのことも、何も知らないけれど。ちゃんと分かるよ。君たちはきっとお互いに、それぞれが大切なんだね」
どちらも欠けてはいけない。消えた方がいいなんて、あるはずない。
アルノーがいきなり腕の中に飛び込んできた。それに驚いた裕介だったが、慌てて抱き留める。
小さな背中に回した手のひらが震えを感じ取った。次いで聞こえた鼻を啜るような音に、アルノーが泣いているのだと知る。
この体にどれほどの重圧がのし掛かっているのか、想像だにできない。でもきっと、裕介の想像を遥かに凌ぐものだ。
漸く垣間見えた、アルノーの年齢に見合った子供らしさに、裕介はトントンと背中を叩きながら小さく微笑んだ。
「――探したぞ、アルノー」
不意に後ろから聞こえた、深く低い声。
アルノーは素早く顔を上げ、そちらへと視線を送る。それに続いて、裕介も後ろを振り返った。
「シェーンヘルデン……」
アルノーの声に、かすかに恐れが含まれていたのは、気のせいではなかった。
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