第16話 誰も彼もがマイペース
研究室に着いたのは、それから程無くしてからだった。
周辺には学生たちの姿はあまり見られず、普段から殆ど人が近付かない場所なのだろうと窺える。それは果たして、この研究室から醸し出される雰囲気からなのだろうか。
窓には全て黒いカーテンが引かれており、照明は全て蝋燭だ。床には歪な魔方陣が描かれていて、本棚と机の上にはよく分からない本が沢山積まれている。
「ようこそ、我が城へ! ゆるりと存分に寛いでくれたまえ!」
「寛げるか!」
そう言ったバルドが、入り口ドア付近に立っていた、人間の骨格標本の頭部を引っ叩いた。
皐月は慣れた様子で室内へ入って行き、部屋の隅にあった冷蔵庫を物色し始める。
『オカルト・ホラー研究サークル』と、研究室の入り口には書いてあった。こんな不気味な部屋で、サークル活動に励む学生はいるのだろうか。まさか皐月も一員なのか? いや、明礬だけであってほしいと、裕介は首を振った。
ホルマリン漬けにされた、得体の知れない生き物の濁った目と視線が交差した気がして、裕介は慌てて皐月に近寄った。
「違うよね?」
「え?」
ペットボトルと、ドクロ型のカップを持った皐月が振り返る。
どうやらお茶の用意をしようとしていたらしい。でもそのドクロ型のカップが変にリアルで、四つも並ぶとやはり気色悪かった。
「皐月兄さんは、このサークルに入っていないと言って……」
「入ってないよ」
裕介は大袈裟な程、胸を撫で下ろした。
「残念なことにね! 活動しているのは、このサークルを作った僕だけなのだよ! 残念なことにね!」
「そうだろうな。勝手にやっていろ、気味が悪い」
明礬に向けてシッシッと手で払う仕草をしたバルドが、裕介と皐月に近づこうと一歩を踏み出した。
「あ、ちょっと――」
「キシャーッ! シャッシャッシャッ!」
「うぐっ……!」
皐月の呼び掛けを掻き消すような音量で、変な音響が鳴り響く。言い表すのならそれは、魔女の嘲笑。
驚いたのは裕介もだが、バルドの身に降りかかったのは、更に災難だった。
踏み出した足を、机の下から現れた影に掴まれ、盛大にすっ転んだのだ。その直前、スピーカーから響いた魔女の笑い声に、飛び上がらんばかりに驚いていたのも、裕介は目撃している。
裕介の体に入っているバルドが、こんなに鈍臭い失態を見せるのは初めてだ。
魔女の声に怯えるのも、何かに足を取られて転ぶのも、その体を操っているのが裕介だったならば日常茶飯事である。
「ごめん。言うのが遅かった」
「何だぁ? これはぁ?」
座り込んだままブチ切れたバルドが、足に絡み付く腕の模型のようなものを持ち上げた。
怒り心頭といったバルドの矛先がこちらへ向かないよう、裕介は素早く視線を逸らす。
「僕のお手製の、魔女の魔女狩りトラップさ!」
「下らねぇ物を作ってんじゃねぇ!」
バルドが腕の模型を投げつけると、それをヒラリと避けた明礬がケラケラと笑った。
「この部屋、そういうの結構あるから気をつけて」
『はい、お茶』と、ドクロ型のカップを裕介に差し出しながら、皐月が言った。
それにまた青筋を浮かべたのがバルドで、スッと立ち上がると、こちらへと近づいて来た。
裕介はバルドと視線を合わせることが出来ず、オロオロとしながらドクロ型のカップを受け取る。
「サツキ! よくも俺をこんな所へ連れてきやがったな!」
『はい、お茶』、『要らねぇ!』と応酬を続ける二人を横目で見ながら、裕介は苦笑した。
皐月が通うのは名門大学で、それがここだ。
もし裕介が大学まで進学するとしたら、皐月と同じ大学だと思っていた。今の裕介の学力で受験に合格できるかはさておき。
その大学に、こんな側面があったなんて。いや、明礬とこの研究室の印象だけで、この大学を語ってはいけないのだろうけど。
皐月は変わった感性をしている。裕介とバルドの入れ代わりも、バルドの正体が吸血鬼だということも、何の疑いもなく信じてしまった。
皐月の友人が明礬で驚いたのは事実だけれど、実は引き合う何かがあったのかも知れない。二人とも変わっている部分がある。
「――面白いね」
それまで演劇をしているかのように大声で喋っていた明礬が、急に声量を落として呟いた。
「皐月くんとは似ても似つかない方が兄さんと呼び、皐月くんの面影がある方が兄を呼び捨てにするんだね」
裕介もバルドも、明礬に言われて初めて気づいたかのように、顔を見合わせた。
明礬は人のペースを惑わせるような態度であっても、ここまでずっと裕介とバルドを観察していたらしい。『なるほど、なるほど。』と呟きながら、一人で納得している。
変な人が通いやすい大学だと裕介は考えたが、撤回する。ここは紛れもなく、名門大学。皐月にもあった思考の柔軟さと鋭い観察眼は、きっと明礬にも備わっている。
「裕介くんがバルドくんで、バルドくんが裕介くん。と、いう認識で合っているかな?」
そう言った明礬を、バルドがギロリと睨んだ。明礬はそれに退くことなく、ニコニコと笑みを浮かべている。
皐月は話しても大丈夫だと言った。裕介にしても、オカルトに詳しいという明礬のことを知って、会ってみたいと思ったのも本当のこと。
問題はバルドだ。この数日で、自分の秘密を知る人物が増えてしまっている。
彼が今まで、どんな思いで、どんな行動をして、自分の正体を隠してきたのか。どんなに寂しい思いをして、孤独に堪えてきたのか。
暗い闇の中。ポツンと一人でいるバルドを想像してしまって、裕介は思わず泣きそうになった。
他者を信じて、自らの秘密を打ち明けるには、あまりにもバルドの孤独が長く重すぎた。
裕介にはそれがよく理解できていたから、この場での決断を全て、バルドに委ねるつもりでいる。
「――付け加えると、その片方は吸血鬼だ」
深く溜め息を吐いたバルドが、次の瞬間には躊躇いもなくそう言った。
裕介の体で、ズボンのポケットに手を突っ込んで。堂々と背筋を伸ばし、ちゃんと正面から明礬に向き合って。
裕介はイジメに遭っているという秘密を、誰にも打ち明けることはできなかった。そんな勇気はとっくに失っていたからだ。
バルドは違う。自分がどう思われようが、例え秘密の内容が恥ずかしいことであったとしても、ちゃんとこうして話すべき時に話せるのだろう。
格好良いと、思う。自分の体を見ながらそう思うのは、なんてナルシストなんだと笑われるかもしれないけれど。
「いいね! そういうロールプレイは、僕も好きさ!」
「はぁ? ロールプレイだと?」
格好良いバルドだったのだから、明礬にもちゃんと汲んでほしかった。
思わず落胆して、隣の皐月の方を見てしまう。その間にバルドは明礬に詰め寄りながら、『俺は事実を言っている!』と訴えていた。
「信じる流れじゃなかったの? 何だったんだろう? さっきの明礬くんの雰囲気……」
「言ったでしょ。アイツは変態なんだって」
『おかわり、いる?』とペットボトルのお茶を差し出す皐月に、裕介は益々脱力しながら、『ううん。要らないよ……』と答えた。
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