第12話 はじまりのおわり

 皐月が母と一緒に来た理由は、やはり連絡が来た時に在宅中だったからだそうだ。

 狼狽える母からゆっくりと事情を聞き出して、運転ができない母も車に乗せ、共に駆けつけてくれたらしい。因みに、大学は休講だったとのこと。

 皐月と敦史の違いを、ぼんやりと考える。同じ両親から生まれたのに、どうしてこんなにも違うのだろうか。

 裕介ならまだ分かる。あまり言いたくはないが、母が違うから。でもあの二人は完全な兄弟で、同じように育ってきたはずだった。年の差だろうか。敦史は三十二歳、皐月は二十二歳。

 皐月も、裕介のことを煩わしいと思ったことがあるだろうか。そんなことを考えてしまって、少し悲しくなった。


 夕飯に食べた唐揚げが、漸く消化された気がする。自分のベッドに潜り込んだまま、裕介はそれを感じて胃の辺りを撫でた。

 昨日はバルドの体に入って気を失ってしまったから、昨夜の食卓をしらない。でも今日は楽しい夕食だった。学校であったことに思い悩むことなく、心の底から楽しめた時間だった。母がいて皐月がいて、何よりバルドがいて。あんな時間を、過ごしたことはない。母だって、夕飯の料理を作るのが楽しかったはずだ。今まで、裕介との二人分だけだったから。

 楽しい時間を知った分、それが消え去ってしまうことが怖い。二度と訪れなくなるかもしれないという予感で、裕介は苛まれていた。


 ゴソリと、音がする。その音に、『ああ、やっぱりだ』と、裕介は落胆した。


「行ってしまうの?」


 布団を被ったまま、その人物に問いかけた。

 ベッドの右脇、床に敷いていた布団に、バルドは寝ていた。その彼が起き上がり、動き始めたのだ。

 寝ていると思った裕介が声を掛けてきたことに、バルドは僅かに驚いたようであった。


「寝ろ。人間には睡眠が大事だろ」


 その言葉に、布団を跳ねのけて起き上がる。

 バルドの方を見ると、彼は片膝を立てて、窓から見える月を眺めていた。もう、“枯渇の月”は終わっている。

 月から、バルドが視線を動かす。こちらを見た彼はフッと笑った。裕介の顔に焦燥が浮かんでいたからだろう。


「もう、用はないだろう?」


 そう言われて、グッと押し黙る。

 いつまで続くか分からなかった入れ代わりも、一日で終わりを迎えた。体が戻るまでは傍にいて協力しようという話だったけれど、その必要はない。もう、用はないのだ。

 せっかくできた友人が、感謝してもしきれない恩人が、目の前から去ろうとしている。悲しくて、寂しくて、言葉にできない。


「吸血鬼と人間。元々、違う世界の住人だ」


 『別れなんて簡単だよ』と、バルドが言う。


「簡単じゃないよ」

「簡単だ。お前も、使っただろう? この力」


 記憶操作。分かっている。そして今回は洗脳ではなく、忘却だ。


「僕に使うの? 貴方のことを忘れさせるの?」

「使うさ。お前と違って、俺は無慈悲にこの力を使える」


 バルドのいう、違う世界の住人が出会ってしまった。それもここまで関わってしまった。彼が生きていくのに、情報を秘匿するのはとても大切なことだ。裕介は誰にも言わないと心に決めているけれど、どんな露見の仕方をするか分からない。

 彼を守りたい。それなら、忘却をしてしまうのが、理に敵っている。


 (だけど、僕の気持ちはどうなる?)


「忘れたく、ないんだ。貴方のことを、覚えていたい」


 怖い人だ。その荒い気性に、何度怯えたか。だけど初めてできた友達だ。誰よりも裕介のことを理解してくれた。そして心を読み取ってくれた。母も皐月もいるけれど、バルドは違う。


 (僕の、たった一人の友達だ!)


「お前と同じことを言った人間が、過去に一人だけいた」


 遠い目をしたバルドに、思わず心を奪われる。

 郷愁、悲壮、思慕……。いろんな感情がない交ぜになって、複雑そうな表情を浮かべるバルドに、裕介は思わず眉根を下げた。

 長い命を生きるバルドだ。どんな過去があってもおかしくない。だから驚きはない。


「その人の記憶を、操作した?」

「いや。せずに別れた」

「だったら、僕にもそうして!」


 心からの、願いだった。


「よく考えて物を言え。分かっているのか? その後の俺がどうなるか」

「どういう意味?」

「激しい後悔に襲われる。俺のことを知っている人間が、この世界に一人だけ残っていると、気持ちのどこかで安堵するんだ。それははっきりとした情となって、俺の心に残り続ける。未練を絶ちきれずに、終わらない命を生きるんだぞ」


 バルドが記憶を操作しなかった、たった一人。その人が今現在、どうしているのかは分からない。でもきっともう、他界してしまっているのだろう。バルドを置いて。彼の中に消せない記憶を残して。

 考えてみれば、確かに酷なことだ。バルドだけが、ずっと覚えている。楽しいことも、悲しかったことも、全部を。彼はそんな、特定の誰かを作るのが、もう嫌になってしまっているのだろう。


「それなら、いつか僕を一緒にすればいいよ。僕を吸血鬼にしてくれていい」


 小さく、呆れたように笑ったバルドが、自分の額に手を当てた。


「お前は、どこまでもアイツと同じことを言うんだな」


 (ああ。その人もきっと、バルドのことが好きだったんだ。僕と一緒だ)


 自分を忘れられること。自分が忘れられないこと。悲しいことだって、よく分かる。でもそれなら、これから一緒に解決していこう。バルドが裕介の悩みを打ち破ってくれたように、裕介だって惜しみ無く力を貸す。


 (だって貴方は、友達になってくれたじゃないか)


「僕の血が特別だって言ったこと、覚えてる? 一滴で十分だって。幾らでもあげるよ。だから、去っていかないで」


 そう言った裕介に、バルドはふと優しく笑い、そこから素早く動いて裕介をベッドの上に縫い付けた。

 見下ろしてくるバルドに、裕介はまったく動けなかった。ガッシリと両腕を押さえられ、呆然とバルドを見上げる。


「悪いな――さようなら、ユースケ」


 ああ。記憶を操作される。彼を忘れる。


 そんなの。そんなの、絶対に――


「嫌だっ!」

「ぐっ!」


 腕は動かなかったけれど、頭は動いた。バルドの目を見ていたら、記憶を操作されると思ったから、反射的に目を閉じて思いっきり頭を上へ振った。

 ゴチッと音がして痛みを感じた次の瞬間には、視界の中に痛みに悶える自分の体があった。


 (あれ、何が起こったの……?)


「ふっざけんな! クソガキがぁ!」

「ご、ごめん。ごめんね!」


 起き上がる自分の体と、目が合う。それが段々と見開かれて、驚きに染まっていった。裕介は冷や汗を流しながら小さく笑って、そんな彼を何とかやり過ごそうとする。


「また! 入れ代わってんじゃねぇかよ!」


 『痛ぇわけだ!』と、バルドが悪態を吐いた。

 罵詈雑言といった風に叫ぶバルドに、裕介は怯えながら謝罪を繰り返す。夜中に騒ぐ二人に、母が怒って乱入してくるまで、あと数分。


 (とりあえず、僕とバルドはもう暫く、一緒にいることができるようです)

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