第11話 長兄のご利用は計画的に
敦史はスタスタと歩いて、校長室の中へ侵入してきた。
その間、母と皐月に視線を遣り、裕介のことだけをその眼鏡の奥の厳しい目で睨み付けた。彼の心中は恐らく、『面倒を起こしたな!』といった風な感じだろう。
それにしても何故、長兄である敦史までこの場に来たのだろう。連絡が行ったのは母だけであろうに、そういえば皐月がいるのも不思議ではあるが。しかし皐月の場合は、家に連絡が行った時に、たまたま在宅だったという理由が想像できる。
グルグルと思考は巡るがその反対で、敦史に対する恐怖を、裕介はなんとか押さえ込んでいた。そんな裕介を横目に見ながら、バルドは新たな登場人物である敦史を見上げた。
「こんにちは。私はコレの兄で、灰村敦史と申します。因みにこの高校の卒業生です」
『いや、変わりませんね。我が母校は』と、敦史は朗らかに笑いながら、校長に握手を求めた。それに戸惑いながらも校長は応じて、敦史の手に自らの手を合わせ、軽く何度か振っている。
ギラリと、敦史の目が色を変えたのに気づいたのは、裕介だけだっただろう。
「私の父も、二人の弟も、この学校を卒業している。伝統ある汚れなき我が母校です。その伝統に我が末弟によって汚点をつけられるなど、我が家にとっても大きな恥。先ほど聞こえましたが、穏便にというのは、こちらとしても全くもって同じ意見です」
よくもまぁ、ここまでベラベラと舌が回るものだとは、バルドの感想である。
敦史が、着ているスーツの内ポケットに手を差し入れた。そこから何やら白い封筒を取り出し、握手をしていた校長の手に握らせる。
「――どうか、お納めを。理事会への寄付金です」
ガンッと、頭を殴られたかのような衝撃を、裕介は受けた。母が鋭く吸い込んだ息が、背中側から聞こえた。
寄付金? どこがだ。ただの賄賂ではないか。
校長の顔が、醜く歪む。やがてそれは恍惚と悦に入り、『いや、まぁ、こちらとしても……』などと、ブツクサと何事かを呟いている。
それをニコニコと見ていた敦史は、まるで仮面を取っ払ったかのように表情を変え、校長と取り合っていた手を勢いよく切り離した。そしてポケットから引き出したハンカチで、汚いものを触っていたかのように念入りに拭っている。
「こちらは、腹を切りました」
裕介がよく聞いていた声色だった。高圧的で、相手を萎縮させる、敦史の低い声だ。
冷や汗をかきながら事態を見守っていた亀川を、冷たい横目で睨み付ける。敦史のその顔に、亀川が背筋を伸ばした。
「――そちらも、“切るものを切って”、下さいますね?」
地の底に叩き落とされたような表情を、亀川が浮かべた。
それからすがるような顔で校長を見たが、校長の腹は決まっている。校長はもう、金の亡者だ。『必ず、最善を尽くします』と校長が宣言する。事実上の、担任へのクビ宣告だ。
『相手の生徒たちへの処遇も同じように』と敦史が言えば、校長はもう逆らうことはない。
敦史の独壇場だった。誰一人として口を挟めず、誰もが彼の思い通りに動かされた。あまりにも恐ろしい。これが自分の兄なのかと、裕介は戦慄する他なかった。
「――よく分かった。一番に腐っているのは、お前の兄貴だ」
バルドの小さな言葉に、裕介は頷いた。
◆◇◆
『我が弟にも責めはあります。自主的に停学させますよ、一週間ほど』と敦史が勝手に言い、裕介の処分は一週間の停学となった。恐らくはその間に、担任と鉄輪と他の三人は、この学校を去ることになるのだろう。
教室から鞄を取って来て、トボトボと校門へ向かう。朝はバルドの体へここへ来たけれど、帰りは自分の体だ。
昨夜から今日にかけて、あまりにもいろんなことがあった。目まぐるしい。人間の自分の体に戻ったからか、ドッと疲れを感じて、裕介は残りの気力で足を動かしている状態だった。
「おい」
隣にいるバルドからそう声を掛けられて、裕介は俯かせていた顔を上げた。
敦史がもの凄い形相で、こちらへと向かってきている。裕介は立ち止まり、そんな敦史に冷や汗を流した。敦史の後ろには、母と皐月も続いている。
「この、灰村の恥晒しが!」
怒鳴り付けられ、その残響に裕介は何度も傷つけられた。
「身の程を弁えて行動しろと、何度も言ってきたはずだ!」
『お前はでき損ない』、『兄弟の中でお前だけが違う。』、『お前だけは弟と呼びたくない』、何度も言われてきたのは、その言葉だけではない。他にももっとある。
敦史の特技とも言える。裕介のことを傷つけることは、敦史にとって何よりも簡単なことだ。
坂道の上から蹴り落として、それを指差しながら嘲笑している。そんなことを幼い頃から繰り返されれば、自己否定の癖がついて当然だった。
格の高い灰村家。そこの長男として生まれた敦史には、自覚も自尊心も、そして重圧もあっただろう。その捌け口に選ばれた裕介は、見えない暴力に何年も晒されてきた。サンドバッグにできる身近でひ弱な、逆らってこない末弟だ。
「敦史くん! やめて!」
母の叫びが悲痛に響いた。
「裕里さん。貴女の躾はどうなっているのですか? 貴女がちゃんと手綱を握っていないから、こんなことになるのですよ」
ほら。それだ。それが嫌だった。何もかも、全てを母のせいにして、母から居場所を奪う。母に出来損ないを生んだと思い込ませるのだ。
「それなら、私にだけそう言って。裕介に聞かせることじゃない」
『それに、私は裕介の育て方を間違っているとは思わない』と、母が言った言葉に、裕介の心臓は掴まれたように痛くなった。
イライラしていたバルドが、今にも敦史に飛び掛かろうとしていたが、母の言葉を聞いた途端に静観の構えを見せ始めた。
こうやって、母はいつも守ってくれた。裕介は何も間違ったものなど持っていないのだと、何度も何度も教えてくれていたのに。裕介は弱々しく育ってきてしまった。
「貴女がそんなだから、灰村家は――」
「敦史兄さん、そろそろ会社に戻りなよ。邪魔だし」
母と敦史の間に漂う険悪な空気を切ったのは、眠そうな表情をしている皐月だった。
邪魔、なんて。もしも裕介がそんなことを言えば、敦史はそれはもう烈火の如く怒り狂うに違いないが、言い放ったのは皐月だ。敦史と完全に血が繋がっている弟。敦史が心の底から認めている弟の一人だ。
「な! 元はと言えば、お前が私を呼び出したのだろう、皐月! それをそんな――」
「うん。ありがと、ありがと。役に立ったから嬉しいよ。でももう用はないから戻っていいよ。じゃね、バイバイ。バイバイ。バイバイ」
無表情で手を振る皐月を見て、敦史は苛立ちを隠さずに裕介と母を一瞥した。それからこの家族の輪に混じっているのが不思議であるバルドに目を留めて、分かりやすく顔をしかめた。
裕介がまずいと思った瞬間に、バルドも力を使ったのだろう。敦史の表情は一度気が抜けて、再び険しいものになっていった。
「――ホームステイしている少年とはいえ……」
バルドの頭からつま先から舐めるように見回す。そんな敦史に不快感を抱いたのは、裕介とバルド、どちらもだった。
「裕介。付き合う友人は選びなさい。良い影響を与えてくれる友人を作れ」
カッと体温が上がった。
敦史の言い分では、まるでバルドが良い友人には値しないかのようだった。
昨夜から今日までの出来事を、何もしらないくせに。実の兄である敦史とは違って、何度も何度も助けて救ってくれた人物なのに。
(恩人を貶めることは、誰だって許さない!)
「バルドは僕の友達だよ。良い影響が何か、僕と敦史兄さんでは意見が違うみたいだね」
齢十六にして、初めて。恐怖の塊である兄に、裕介が歯向かった瞬間だった。
ブフッと、皐月が破裂音を響かせる。校長室で聞こえたあの音は、彼が笑いを我慢する音だったのか。それに気づいた裕介は、今度は母の方へ視線を移した。優しく、微笑んでいる。少しは誇らしいと、思ってくれただろうか。
音もなく、敦史が怒りを露にした。その表情を見たら、裕介は怯えていたものだが。今はもう、大丈夫だ。
「頭にの――」
「バイバイって言ってんじゃん。早く行きなよ」
怒声をあげようとした敦史の背中を、皐月がバシンッと叩く。もう一つ、『バイバイ』と言って、裕介とバルド、そして母に手招きをする。『みんなで俺の車で帰るよー』と、ポケットから取り出したキーを指の先でグリグリと振り回している。
未だにワーワーと喚く敦史を残して、四人は一斉に歩き出した。『裕介!』と敦史が叫ぶけれど、振り返らない。隣を歩くバルドと不意に目が合って、二人で声を上げて笑った。
「裕介」
先頭を歩く皐月が、肩越しに振り返ってそう呼び掛けてくる。小走りで駆け寄って、今度は皐月の隣に並んだ。
「良かったな」
「え?」
いつも、無表情で気だるげな皐月が、ほんの僅かに笑っていた。
「友達、できて」
そう言った皐月に、裕介は満面の笑みを浮かべた。そして、精一杯の喜びを込めて、『うん!』と言って頷く。
できた友人はたった一人。だけど世界は大きく広がった。しかもその友人は吸血鬼だ。これは誰にも言えないけれど。でも、大切なことに変わりはない。そう思いながらバルドを振り返ると、彼はわざとらしく顔をしかめて、こちらを睨んできた。
「敦史兄さん、呼んでごめんな」
「ううん、いいんだけど……。どうして呼んだの?」
「利用できる奴だから」
「えっ」
「あの人なら絶対に、ああいう手段でくると思った。簡単に話が進むだろうと思ったよ。計算通りだった。金を使うしか能がないんだ。裕介もそういう利用の仕方をすればいいよ」
皐月の思わぬ辛辣な言葉に、裕介は思わず思考を停止させる。そして次には、堪えきれなかった笑顔を溢した。
「ただし、ご利用は計画的にねー」
そう言った皐月のやる気のない声と表情が面白くて、裕介はまた声を上げて笑った。
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