第10話 「腐ってやがる」

 『保護者に来てもらった。今日のことを話し合おう』と強張った表情の亀川に言われて、裕介とバルドはあの休憩室を後にした。

 亀川の後ろを、二人で並んで歩く。

 学校はもう既に放課後の賑やかさの中にあって、家へ帰るのに友へ挨拶する生徒の声や、部活動に励む者の声がそこかしこで聞こえた。

 不思議と落ち着いている。母に連絡が行ったと聞いた時は焦ったが、腹を決めてしまえばもう怖いものはない。

 バルドと出会って体が入れ代わって、それが元に戻ったことで、生まれ変わった気がした。

 昨日までの自分は過去に消えていって、これからは新しい自分で生きていく。

 他人に植え付けられた不信感は、そう簡単に消えるものではないだろう。でも、暗闇を追い払ってくれた存在があった。それなら、今のこの晴れやかな心持ちから、再び自ら暗がりに戻る必要はない。

 強くなろう。力ではなく、心で強くなるのだ。


 亀川に連れられて、ついた先は校長室だった。『失礼します』と言って担任が開いた扉の向こうに、母と皐月の姿があった。


「皐月兄さんまで……」


 無表情で手を軽く上げた皐月に目を瞬かせると、その隣に座っている母が視界に入って、不安げな表情に少し申し訳なさが募る。


 (ああ、ごめんね。母さん。そんな顔をさせたかったわけじゃないんだ)


「二人はこっちに座りなさい」


 上座に座る校長が、左側のソファーを指差した。それに従い、バルドと共にそちらへと移動する。母と皐月が座るソファーは更に左にあって、担任だけが向かいの一人掛けソファーに浅く座った。


「早速、話を聞こう。灰村裕介くん、君は今日、クラスメイト四人に暴力を奮ったね。それは何故なんだ?」


 まるで、こちらだけが悪いというような言い方だった。

 校長を見据え、それから目の前に座る亀川へ目を遣る。何か、緊張しているかのような、その担任の様子に、裕介は心の底からガッカリした。


 (僕を守ってくれようとは、しないんですね……)


 知っていたはずなのに。見て見ぬふりをしていたくせに。それを校長に説明してくれていない。自分の保身にかまけて、裕介だけを悪者にしようとしている。


「僕は、この高校に入学してから今までずっと、鉄輪くんたちに嫌がらせを受けていました」


 母が息を飲んだ音が聞こえた。思わずそちらへと視線を動かしてしまって、母の表情を見てしまう。ショックを受けた顔だ。知らなかったと、後悔している顔だ。

 悲しませたかったわけじゃない。ただ自分の心が弱かったせいだ。恥に堪えられなかった。だから母を誤魔化し、普通の高校生を演じてきた。

 ごめんね、と。母が謝らないでほしい。母には感謝しかしていないのだから。こうして強くなろうと思えるようになるまで、母だけが支えだった。


「で、ですが、鉄輪たちも遊びのつもりだったのでしょう! それをこんな、暴力でやり返すようなやり方。良くないと思うぞ、灰村!」


 (遊び? 痛みを伴うことが、貴方にとって遊びなのか?)


 よりにもよって、そんな言葉で挽回を図ろうとする亀川を、裕介は信じられないという面持ちで見た。


「反省するんだ、灰村。今日はもう鉄輪たちは下校しているから、明日、彼らに謝るんだ。いいね?」


 (反省? 何故、僕の方が?)


 こうやって押さえ込まれるんだ。よく知っている。こちらの弱さを見抜いて、的確にそこを突いてくる。まるで自分の方が強いのだと、力尽くで裕介の心を鷲掴みにするんだ。やがてそれは裕介の思考を乗っ取って、反論をできないようにさせる。そうすれば相手の勝ちだ。裕介は傀儡となって心を失う。瞳から、光が消えていく。


「親御さんも、ご家庭での指導を――」

「――腐ってやがる」


 沈み込んでいく意識の中、聴こえたのは、希望の音だった。

 亀川の台詞中に割って入ってきたバルドの言葉に、この場の全員が目を見開いた。

 しかし次の瞬間には、皐月だけがブフッと破裂するような音を口から出したかと思ったら、『失礼』と言いながら咳で誤魔化した。


「世界の空気は昔、腐っていた。臭く、茶色く澱んだ色をしていた。それを人間たちが必死になって環境を整えてきた。それが今はどうだ? 人間の方が腐り始めた」


 立ち上がったバルドが、前にあったテーブルに手を付いて、おまけに膝まで乗り上げた。右手に筋を立たせながら、亀川の顔の前をその手で覆う。


「その、腐った人間が! 教師を騙って、ガキを育ててんじゃねぇよ!」


 バルドの剣幕に、亀川が小さく叫び声をあげたのが聞こえた。


 (今日だけで、僕は何度、貴方に助けてもらっただろう。引き上げてもらってばかりで、僕はやっぱり情けない奴だ)


 テーブルについていたバルドの左手を、ゆっくりと引き寄せる。彼がまた隣に腰を下ろしたのを見て、硬直している亀川へ視線を送る。


「確かに、鉄輪くんたちは遊びのつもりだったかもしれない。でも僕は嫌だった。嫌なことはするべきではないと、先生は子供の頃に教わりませんでしたか?」


 先生。先に生きる人。何の為に、先に生きている? 人間としての賢明さや理性を、教え伝える為ではないのか。裕介はそれを、吸血鬼であるバルドから教わった。決して、同じ人間である亀川からではなく。

 隣で荒く息を吐くバルドを眺めて、裕介は小さく笑った。


「堀田くんも、君のクラスメイトだね?」

「はい」


 徐に校長から問い掛けられて、裕介は慌てて頷いた。


「彼から確固たる証言を得ている。後々、クラスの全員にも聞き取りをする予定だ」


 堀田は、助けを呼びに行ってくれただけではなく、教師たちに説明までしてくれたのか。彼ももう帰っているだろう。ちゃんとお礼を言えたらいい。


「ただ、昨今はこういった問題に世間は煩い。できることなら、公にせず穏便に済ませたい。どうでしょうか、灰村さん。ここは一つ、喧嘩両成敗だということで……」


 校長の言葉に、また冷や水を浴びせられた感じだった。

 ヘラヘラと笑うその顔に、隣のバルドの体温がまた上ったのが分かる。

 怒りの気配がしたのは、そんなバルドだけではない。母や、その隣に座る皐月も無表情ではあるがイライラしている様子が見てとれた。

 喧嘩両成敗。つまり、裕介の暴力は不問にするが、鉄輪たちの所業もなかったことにするということ。こんなに簡単に、裕介への理不尽は処理されてしまうのか。これもまた、理不尽によって。

 バルドの言葉を借りれば、腐っている。校長も十分、腐っている側の人間だ。


「失礼する!」


 急に開け放たれた校長室の扉に、全員が振り返った。

 聞き覚えのある声に裕介が身を竦ませ、その人物を見上げる。灰村家の長男・敦史あつしだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る