第9話 ハジメマシテ
始まりは、何だっただろう。理不尽の始まりのことだ。
中学ニ年の頃の、ある日の教室だったかもしれない。
誰かが持ってきていた雑誌に、父のことが書かれた記事が載っていたんだ。一代で財をなし、日本を代表する企業を作り上げ、一躍トップとなった父を、生徒の一人が『凄い人』だと褒め称えた。それに有頂天になって、『僕の父だよ。』と口走ってしまった。そこからだ。
妬み、嫉み。いろんな感情が生まれて、歪んだ利用価値すらも抱かれてしまった。
殴られて蹴られて、金銭を要求されて、断ればまた殴られて蹴られる。その内、彼らの中に『家が金持ちだから』なんていう意識は消えていったのだろう。目的はお金ではなくなり、裕介はただの鬱憤の捌け口へと成り下がった。正に、サンドバッグ。
それは中学を卒業するまで続いて、高校へ進学したら同じ中学出身者から情報を聞いた鉄輪たちに、目を付けられた。
我慢すれば。我慢さえしていれば。そう自分に言い聞かせて、でもそれはいつしか諦めに変わっていた。
暗闇の中で生きてきたのは、バルドだけではない。裕介だって、暗く長いトンネルのような場所に、縮こまったまま独りでいた。出口は見えなかった。手を伸ばしても何も掴めなかったし、誰もその手を取ってくれなかった。
黒く淀んでいた意識が、ゆっくりと覚醒していく。きっとトンネルの出口だ。陽の光に照らされて、目を細めるに違いない。これが、待ち望んだ、暗闇からの脱出口だ。
はっきりとしていく意識の中、自分の体が横たわっていたことに気づく。布団の上。頭の下には枕だってある。額が冷たい。氷が乗せられているようだ。
緩慢に、目を開けた。そこに見えた景色に、裕介は目を細めた。
(陽の光じゃなかった。でも、同じくらいに眩しいよ。貴方の金色の髪は)
「バルド……」
呼び掛けると、バルドがこちらへと振り向いた。
朝、鏡で見た、自分が入っていた時のバルドの体とは全く違う。本来の持ち主が宿って、体が喜んでいるかのように、不思議な雰囲気を醸し出しているバルドがいた。
金色の髪。ブルーグレーの瞳。青白い血色。でも、一見したら裕介と変わらない少年。彼が吸血鬼だなんて、誰も気づかない。
(僕たち、元に戻ることができたんだね……)
「おう。起きたか」
その声を操るバルドの言葉を、裕介は初めて聞いた。そのことに気づいてクスリと笑い声が零れる。
「初めまして、バルド」
「――ああ。ハジメマシテ」
おかしな話だ。今ごろこんな挨拶をするなんて。でもこの対面を言い表すには、その言葉が一番しっくりくると思ったから。
横たわっていた体を起こすと、全身に痛みが走った。それに驚いて変な体勢で硬直すると、額に乗せられていた氷が太ももの上にボトリと落ちる。
沈黙する裕介とバルド。変な空気が流れて、時間が止まった気がする。
「痛い! 何で、こんなに痛いの!」
「お前の体が軟弱だったせいで、俺が考える動きに着いてこられなかったからだろうが! お前のせいだ。体を鍛えろ! そんなヒョロッちぃと、出来るものも出来やしねぇぞ!」
一を言えば、何倍にもなって返ってくる。昨夜から何度も学んだことだ。
ビキビキと眉を吊り上げるバルドに怯えて、裕介は体を小さくしながら完全に体を起こした。その時に感じた体の痛みは、思わず絶叫したくなるようなレベルのものだった。
鉄輪たちを相手に繰り広げた、バルドのあの大立回り。バルドの言葉を推察するに、彼の頭の中ではあれよりももっと凄いものがイメージとしてあったに違いない。
運動神経が皆無なはずの裕介の体を操って、あんな動きをしていたにも拘わらず、バルドがイメージしていたものとは程遠かったようだ。確かにバルド本来の体なら、誰の目にも止まらぬ内に鉄輪たちを捩じ伏せることができただろう。裕介は、それを体感している。背中を狙われたバルドと鉄輪の間に滑りこんだ時に。
吸血鬼が人間の体で普段通りの意識のままに動こうとしたら、それは差違が生まれるだろう。そしてそれは反動となって、人間の体に顕著に影響するのだ。筋肉痛となって。裕介が感じている痛みは、正にそれだ。
「だが、お前の体に入って、思い出したことはある」
バルドが自分の右手に視線を落とした。
「痛みだ。もう随分と長い間、感じることがなかった。忘れていた。“痛み”とは、痛いものだな……」
吸血鬼の体は、痛みを感じない。裕介もそれを知った。
生きてきた二四〇年間で、命を危険に晒すほどの怪我をしてこなかったのかもしれない。そもそも怪我を負うことがないのだと思う。人間のように血を流すことも、恐らくはない。そんな生き方をしてきたから、痛みに鈍感になって、やがて忘れた。
(でも。でも、貴方は……)
「でも貴方は、“痛み”が何であるかを知っている」
裕介の呟きに、バルドは右手からこちらへと目を移した。
血を流すだけが痛みではない。目に見える怪我だけが、怪我ではない。自分でそう言っていたはずだ。感覚としての痛みを忘れてしまっていても、痛みの理由は覚えている。
「化け物じゃないよ。貴方は、化け物なんかじゃない」
ちゃんと痛みの意味を知っている、ひとつの命だ。裕介と何ら変わりのない。
人間の皮を被った化け物はごまんといる。鉄輪たちがいい例だ。
人間ほどに残酷な生き物はいない。バルドはきっと、そんな人間たちに押さえつけられてきた。長い年月を、暗がりの中で生きていくように強いられたのだ。
恐ろしく凶暴な生物だと勝手なレッテルを貼られ、空想のものとして葬り去られた。だけど、長い長いトンネルから裕介を引っ張り出してくれたのは、彼だ。
恩人だ。彼を化け物と呼ぶのは、誰人たりとも許さない。例えそれが、本人であっても。
「ユースケ」
「え、何?」
「偉そうに、俺に語るな。グズが」
何が彼の逆鱗に触れるのか分からない。
バルドの怒気にあてられて、裕介が恐怖に震えていると、唐突に頭上に重みを感じた。バルドが裕介の頭に手を乗せて押さえつけた後、それと分からないくらいにサラッと撫でていく。
照れ隠しだろうか。分からないけれど。
裕介は僅かに笑って、今いる場所を見渡した。布団を敷いて寝かせられていたからてっきり保健室かと思ったが、どうやら違うようだ。
「ここって、どこなの? 鉄輪くんたちは?」
「教師どもの休憩室だとさ。お前が起きるまで、俺もここで待機するように言われている。あのクソどもは保健室だ。まぁ、もう放課後だからとっくに帰っているかもしれないけどな」
「え、放課後? 僕、何時間くらい寝てたの?」
『ザッと一時間』とバルドが事も無げに言い放つ。
昨日、二人で頭をぶつけた時は、気を失っていたバルドはわりとすぐに目を覚ましていたと思う。
元に戻った今も、裕介の体感としては数分の感覚だったが、思っていたより時間が経っていたようだ。
バルドは気を失うことはなかったのだろう。教師たちに言われた通り、ここで裕介が目を覚ますのを大人しく待っていてくれたらしい。
「少し、まずいことになっている」
「ま、まずいって?」
「お前の母親に連絡が行った」
あんぐりと、顎が外れるくらいに口を開けてしまった。それでもバルドは涼しい顔をしていて、窓の外を眺めている。
「ど、どうしよう!」
「さぁな」
(他人事だと思って……!)
二の句を告げられず、裕介は小さく唸った。
「使えるぞ」
裕介の眉間に、バルドが人差し指を当てた。それを呆然と眺め、ハッとしてバルドの目を見つめる。
「元に戻ったんだ。お前みたいにみみっちぃ使い方はしない。この学校中の人間の記憶を操作してやる」
記憶を操作して、今日に起こったこと全部、忘れてしまうということか。
忘れるのは、誰だ? 母か、教師か、クラスメイトか、鉄輪たちか。それだけで済むだろうか。裕介はどうなる? 自分も、今日のことを忘れてしまうのか。
バルドの手を掴んで、それをゆっくりと彼の膝の上に戻す。顔を上げて、もう一度バルドの目を見た。
「僕の、戦いだよ」
忘れたくない。忘れるものか。助けてくれたバルドのことも、暴君に初めて立ち向かったことも。忘れて、たまるか。
「上出来だ、ユースケ」
そう言ったバルドが、フンッと鼻で笑う。
その時、この部屋のドアが開かれ、その向こうに担任の亀川が姿を表した。
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