第8話 拳
「――おら、しっかり歩けよ!」
聞こえてきた声に、裕介は顔を上げた。聞き覚えのある声、聞き覚えのある言い回しだ。
校舎の影へと消えていった制服の裾を見て、裕介はそちらへと歩いていった。その後をバルドも追ってくる。
裕介がいつも誘い込まれていた場所はここではない。でも分かっていた。こんなことをするのは誰なのか。こんな、教師たちの目にもつかない場所に人を引っ張り込んで、何をするのかを。
「なぁ、堀田。お前、何を勝手に灰村に謝ってんの?」
「ごめんな、今まで、だって。ちょーだせぇ!」
壁に追いやられているのは、堀田だった。悔しそうに顔を歪めている堀田は、きっと裕介に似ている。
堀田を取り囲むのは、あの三人の取り巻きだ。少し離れた場所に立つ鉄輪は、我関せずといった雰囲気を醸し出しているけれど、顔は愉快そうな醜さだ。
隣にいるバルドが、呆れたように息を吐く。まるで『どうするんだ?』と言いたげに、裕介を横目で見た。
見て見ぬふり。簡単だ。標的が移る。あの苦しみから解放される。バルドとの入れ代わりが解消されたら、裕介には新しい日常が待っているかもしれない。
なんて嬉しいんだ。なんて、明るい希望だ。
自分に少しは自信を持てるかもしれない。怯えなくて良くなるのなら、授業にだって身が入って、勉強もできるようになる。落ちこぼれを脱却できる。母が胸を張って、自分のことを息子だと言えるようになる!
(それは、本当に?)
不意に、思い出した。バルドの言葉を。
『力で物を言う暴君にはなるな。例え力は弱くとも、強い心を持った、心で人を動かせる賢帝になれ』
力に暴力で返すのではない。心に、心で返すのだ。それが心で人を動かすということ。
(堀田くんが、僕にしてくれたことだ!)
「――ださいのは、どっち?」
落ち着いた声で、目の前にいる五人にそう問いかけた。彼らは一様に驚いた表情で、こちらを見ている。
クスリと小さく笑ったのは、後ろにいたバルド。彼もゆっくりと歩きながら、裕介の隣に並んだ。
「可哀想なことを聞かないであげてよ、バルドくん。言えないでしょ? 自分たちのことを格好悪いなんて」
今まで嘲笑していた相手に、逆に嘲笑を返されるなんて、どんな気持ちだろう。そんなことを思うけれど、本心を言えばそんなに知りたいことではない。彼らのように、裕介には他人を嘲るという趣味がないからだ。それに何より、彼らの表情が如実に語っている。バルドの言葉に、心の底から怒っている雰囲気だ。
「本当に今日は、随分と調子に乗ってんなぁ、灰村」
「今さら高校デビュー? 遅すぎだろ!」
ゲラゲラと下品に笑う。裕介はその笑い方が好きではなかった。
顔をしかめながらも、堀田に手招きをする。『行っていいよ』、『逃げていいよ』、そんな思いを込めて。
苦しいから、悔しいから。こんな経験をするのは、自分だけで十分。標的を変えさせたりしない。見て見ぬふりなんてしない。
(心には、心で返すよ。堀田くんが一番始めに見せてくれた、優しい心に。それにもう、僕は独りじゃない!)
「どこ行くんだよ、堀田!」
「お前ら三人、まとめて痛い目を見せてやる!」
こちらへ走り出そうとした堀田を、取り巻きの一人が引き戻した。そして腕を振りかぶり、堀田を殴ろうとする。
その拳を受けた方が、どれほど痛いのか、裕介はよく知っていた。だから一歩を踏み出して、止めようとした瞬間。真横を、一陣の風が吹き抜けた。
目にも留まらぬ早さとは、このことを言うんだろうと思った。だけど吸血鬼であるバルドの目は、コマ送りのようにそのシーンを鮮明に捉えていた。
振り下ろされた腕を左腕で凪いで、思いっきり捻った腰の反動を使って、右手の拳で相手の頬を殴り飛ばす。相手が怯んで堀田の腕を離すと、それを待ち構えていたかのように、バルドが堀田を突き飛ばした。
本当に、正に一瞬の出来事。揉め事の中心に、あっという間に飛び込んでいったバルドは、自らが台風の目となって、ニヤリと笑いながら鉄輪とその取り巻きたちを眺めた。
「痛い目? 痛い目ねぇ。言葉は考えて言えよ、クソガキども!」
そういったバルドを、呆然と見ているのは鉄輪たちだけではなかった。出鼻を挫かれた裕介も、ボケッと彼を見物してしまっている。
(暴力! 力には暴力で返すなと、貴方が言ったのに!)
ヨタヨタと近づいてきた堀田が、若干怯えた顔で裕介を見る。
「と、止めよう! 灰村はそんなに強くない!」
「分かってるよ。強くないよね。でも、今は違うよ」
『行って』と、堀田の背中を押す。そんな裕介を驚いたように堀田は振り返って見たけれど、もう視線が合わないことに気づいて、悔しそうに走っていった。
裕介は運動神経がいい方ではない。足は遅いし、持久力はないし、力だって弱いし、特筆すべきものは何も持っていない。
イジメられる原因は幾つも持っている少年ではあるが、イジメられていい理由は一つもない。そんな当たり前のことに気づかないで、イジメてきたのが鉄輪たちと、中学の頃の同級生だ。
その少年が、人を吹き飛ばす程の殴打を繰り出してきた。鉄輪たちが唖然となるのも、当然の道理である。殴り飛ばされた一人が、地面に蹲って痛みに悶えている。それを見ながら、鉄輪たちが歯噛みした。
「何だ、お前……。今まで、やり返してきたことなんてなかっただろ」
「おい、大丈夫か!」
「ほんのマグレ当たりだろ」
鉄輪が苛立ったように言うと、取り巻きの一人が蹲っている一人に駆け寄って、残された一人が顔を引きつらせながら負け惜しみを言う。
それを聞いていたバルドが、再び歪な笑みを浮かべた。
「やり返されて怖じ気づくのか? だっせーな! 弱い犬ほどよく吠えるとは、お前たちのことだ」
分かりやすい挑発。頭に血が昇っていなければ分かることなのに、鉄輪たちには効果覿面だった。
いつぶつかり合ってもおかしくない、この局面。普段の裕介ならすぐにでも目を逸らしているけれど、今は何故か目を離せなかった。だってバルドが怒っているのは、裕介のためだから。
徐に、バルドが流し目でこちらを見てきた。口が小さく動いて、裕介にだけ理解できる言葉を発する。小さな声でも、吸血鬼の耳ならば幾らでも拾えるからだ。
『これは、お前の戦いだぞ。よく見ておけ』
違うんだと、裕介は瞬時に理解した。バルドが見せてくれているのは、暴力ではない。これは裕介の心に、バルドが心で返してくれているものだ。堀田を助けようとした裕介の心を、バルドがちゃんと受け取ってくれたから。
走り込んできた取り巻きの一人の顎に、掌底を見舞って払い除ける。その勢いのままもう一人の取り巻きの懐へ飛び込んで、脇腹を右足で蹴り飛ばした。
水が流れるようにサラサラと、稲妻のように俊敏に、鉄輪たちの間を走り抜ける。
手数は多くない。一撃が必中する。だからこそその一撃が重く、取り巻きの三人をものの数秒で制圧してしまった。
掌底を入れた手が痛いのか、バルドはそれを何度も振っていた。そうしながら、鉄輪の前に立ち、捕食者の目をして睨みつける。
「――な、何だよ……。お前、化け物だったのかよ!」
次々と倒れ伏していく仲間に、鉄輪の恐怖心が膨れ上がったようだった。
「化け物?」
バルドが低く唸る。それを見た鉄輪が、冷や汗を垂らしながら後ずさりしていく。
バルドは顔を上げない。きっと鉄輪には、バルドの顔が見えていないだろう。それが余計に怖いと思う。でも裕介には、同情の気持ちなど全く抱けなかった。
「おい。そこに突っ伏している、犬の糞ども。痛かったか? 痛かったよなぁ?」
三人にゆっくりと視線を送り、彼らが顔に滲ませる苦悶を目で確かめる。見回した後、バルドは軽く鼻で笑った。
「怪我をすりゃ、そりゃ痛ぇ。血が出りゃ、そりゃ痛ぇだろう。だけどな、血も出ねぇ痛みってのもあるんだよ。お前らに分かるか? お前らが日常的に、ユースケに奮ってきた、心を踏みにじるような見えない暴力だ!」
裕介が、自分のことを名前で呼んだ。冷静ならそのことに疑問を抱くだろうけれど、今の鉄輪たちは冷静ではない。もう完全に、バルドへの恐怖で支配されている。
「俺に言わせりゃ――」
掌底を打ち込んだ手は、きっとまだ痛いはず。でもバルドはその手を握り締めて、少しだけ腰を落とした。
「その痛みを理解できないお前らの方が――」
後ずさっていた鉄輪へ、殆ど一足飛び。バルドは一気に、鉄輪へと距離を詰める。
「よっぽど、化け物だ!」
気持ちの篭った、重い拳が振り抜かれる。拳は的確に鉄輪の左頬を捉えて、彼は後方へと吹っ飛ばされた。
(バルド。貴方は、吸血鬼だ。だから化け物という言葉に、こんなにも反応したんだろうね。長く生きてきて、そんな風に呼ばれて迫害されてきたのかな。でも、僕は思うよ。貴方は、化け物なんかじゃない。どんな人間より、大きくて、眩しくて、優しい心の持ち主だ)
消えていく。苦しかった日々と、悔しくて流した涙が。胸のすくようなあの拳が、全てを打ち破ってくれた。
肩を上下させて荒く呼吸するバルドが、こちらへと振り向いた。顰めっ面で黒いオーラを撒き散らしているから、全然絵は良くないけれど、きっとこの光景を忘れない。
素晴らしい光景だったのに、バルドの後ろに影が立った。慌てて声を上げようとしたけれど、口から出たのは、音にならない叫びだった。
「――調子に乗るなって、言ってんだろうがぁ!」
痛みを堪えて立ち上がった鉄輪だった。バルドも振り返るけれど、間に合わない。考えようとする頭より先に、足は一歩を踏み出していた。
地面がめり込んだ。それほどにバルドの体の一歩には破壊力があったのだと思う。砂ぼこりを巻き上げ、裕介の体に入っているさっきのバルドよりも早く、裕介はバルドと鉄輪の間に割り込んでいた。
鉄輪が全力で振り下ろしてきた拳を、右手の一本だけで捉えて、左の口角から血を流す鉄輪を睨み付ける。
(ああ。勿体ないね、その血。でも、要らないよ)
「散々、我慢したよ。だからもう、十分でしょ? 僕はもう、痛いことを我慢しない。痛いことを、ちゃんと痛いと言える人間になる!」
バルドが教えてくれたことだ。その心を持って。
殴りたいほど憎い相手だった。でも殴れなかった。
こんな時に発揮される、自分の小心者さ加減に嫌気がさす。それでも、ちょっとくらい。やっても許されるかなと、バルドの体の全力で、鉄輪を突き飛ばした。
彼の体が五メートルほど吹き飛んだのを見て、すぐさま少しだけ後悔したけれど。
「わ、わ……。やりすぎた? ど、どうしよう?」
「締まらねぇなぁ、ユースケ」
そう言って笑ったバルドが、右手を掲げて来た。
瞬時には理解ができなかったけれど、裕介は照れ臭そうに笑って、パァンッとお互いの手を合わせて打ち鳴らした。
『お前ら! 何をやってるんだ!』と、少し離れた所から声が掛けられる。裕介とバルドがそちらを見れば、堀田が三人の男性教師を引き連れて、こちらへと駆け寄ってくる所だった。
それを見て、怯えたのは裕介だ。『ヒイッ』と情けなく悲鳴を上げて、後方へと足を下げる。その時に小さな石の出っ張りに足を取られて、思わず傍にいたバルドの制服の袖を引っ張ってしまった。不意に引っ張られたバルドが、持ちこたえることができるはずもなく、二人はもつれあって後ろに倒れ込んでいく。
お互いの額がぶつかって眼球の奥で火花が散った。
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