第7話 暴君

 バルドの体に入っている裕介に与えられた席は、廊下側の一番後ろだった。バルドが座っている席からは、四列も離れている。

 朝会が終わって、すぐさまバルドの方へ行こうとしたが、急に回りに人が集まってきた。

 転校生、更にはドイツ人ということが珍しいのか、彼らはウキウキとした表情を浮かべている。その逆に裕介は一気に緊張して、息が詰まるような思いをしていた。


「ねぇ、髪の毛を触らせてー?」

「ドイツ人ってことは、サッカー上手い?」


 矢継ぎ早に掛けられる言葉に、裕介はどんどんと追い込まれていく気分だった。

 こんなに注目を集めたことはない。何より彼らは普段、裕介の存在を見て見ぬふりをしてきた人間たちだ。そんな彼らと、どうやって交流すればいい? こちらが抱く印象は、とっくに地に落ちているというのに。


「なぁ、ドイツ語を話してみてよ!」


 (煩い、煩い、煩い! 僕は、君たちが、嫌いだ!)


Scheiße!クソが


 いきなり聞こえた不思議な響きに、周囲にいたクラスメイトたちは一気に静かになった。

 『シャイセ!』と、言ったんだと思う。意味は分からなかったが、その言葉を言った人物の方へ、裕介も含めて全員が視線を向けた。

 ギラつく目のバルドが、ズボンのポケットに手を突っ込んで、こちらを睨んでいる。彼の視界に入っているのは、クラスメイトたちなのか、それとも裕介ただ一人なのか。


「えー何ー? 今の灰村なの?」

「遂に狂ったんじゃねぇ?」


 クスクスと、嘲笑が聞こえる。まるで自分に言われているようで、いや、彼らは実際に裕介に言っているつもりなのだろうが。それを聞きながら、強張る体を落ち着かせようと何度も浅い呼吸を繰り返す。


「――ほらね、ドイツ語を話しても、なーんにも分からないくせに」


 きっと誰も見たことがない。裕介自身でさえも。こんな、嫌味な笑みを浮かべる、灰村裕介を。


「分かんねぇくせに、強要してんじゃねぇ。クソガキども」


 嫌味な笑みがパッと消えて、獲物を狙うような鋭い眼光の捕食者へ。その変貌に、クラスメイトたちが身を縮ませたのが分かる。

 弱者と強者の図が、完全に入れ替わったのが分かる。バルドはほんの一睨みで、裕介が怯えていたクラスメイトたちを掌握してしまった。


「彼ら、イジメっこだから。仲良くしない方がいいよ、バルドくん」


 この声色は、裕介がいつも使っているものだ。バルドは器用にそれを操って、普段の裕介の振りをしようとしている。正直、間違ってはいるけれど。全然、似ても似つかないけれど。


「な、何を言ってんだよ! 俺ら、灰村をイジメたことなんてないし!」

「信じないでね、シュヴァルツくん! 私たち、そんなことしてないから」


 必死に、自分を取り繕う彼らを、裕介は何の感情も篭っていない目で眺めた。


 (信じない? 何を? 今までの君たちを? 昨日会ったばかりでも、僕の味方になってくれるバルドを?)


 『助けて』と言った時、クラスメイトたちは何をしてくれた? 何もしてくれなかったではないか。それどころか、彼らも楽しんでいるようではあっただろう。同じ人間を虐げ、踏みつけるその行為を。

 バルドはどうだ。言わずとも裕介が置かれた状況を完全に把握して、たった一人でも助けようとしてくれている。励ましてもくれた。彼だけが違ったのだ。


 (信じないよ。今の僕は、絶対に、君たちを信じられない!)


「僕は裕介くんの家にホームステイしているんだよ。だから、君たちの狡さは、知っているよ」


 知っている。この身を持って。だから別に取り繕わなくてもいい。本性を現せばいい。

 裕介の言葉に、周囲に集まっていたクラスメイトたちは凍りついた。新たに加わった生徒に、自分たちの行いを知られてしまった。それを恥じるのなら、彼らはきっとまだ立ち返ることができるだろう。逆に後悔もしないような厚顔無恥なら、どうしようもない人間性だ。

 クスクスと笑いながら、バルドが隣に来て、裕介の肩に肘を置いた。


「クリティカルヒット。敵に一万のダメージ」


 その言葉に、果たしてどちらが悪役なのかと嘆息する。

 バルドの目を見ると、『よくやった』と誉めてくれているようで、裕介は何だか恥ずかしい気持ちになった。

 実の所、こういうのはきっと、自分自身の体で言わなければならないことだったのだと思う。裕介は今、バルドの体も借りて、彼の力も借りてばかりだ。


「――は、灰村……」


 一人の男子生徒が、そうやって声を掛けてきた。もの珍しい転校生に寄って来ず、隣の席に静かに座っていた男子だった。確か、名前は堀田ほりただったはず。

 呼ばれたのは裕介だったけれど、裕介もバルドもそちらへと視線を向けた。


「……ごめんな、今まで……」


 見て見ぬふりをしてきた一人。そして、自分を恥じた一人だ。

 分かっているんだ、本当は。裕介にだって。自分以外が的になれば、自分はとても楽だから。だから見て見ぬふりなんて事態が起こる。誰だって怖い。標的になるということは、あちらこちらから攻撃されるということだ。それがたまたま、裕介だっただけで、彼が傍観者だっただけ。逆の立場だったら、裕介もきっと……。

 『どうする?』と、バルドが視線で聞いてきた。許すのか、許さないのか。自分で決めろと、彼が聞いてくる。

 簡単に許すなんて、言えないけれど。堀田はきっと、軌道修正ができる人だ。

 ゆっくりと頷いて、バルドの目を見つめる。それを見たバルドが、呆れたように目を細めた。きっと『お人好しが。』くらいに思われているのだろう。


「――もう、いいよ」


 バルドが発した声は、とても優しかった。


 一人を許したことで、一気に雪崩が起きた。四方八方から謝罪の言葉が飛んでくる。

 嬉しさはない。これはある意味、一種のムーブメントで、乗らなければ損と思われているような波だ。勿論、本心から申し訳ないと思っている者もいるだろう。でもそれを今ここで見極めるのは、裕介にはあまりにも難しくて人間不信になりすぎていた。

 辛い日々は和らぐのかもしれない。バルドがいるだけで、十分に和らいだものだけど。クラスメイトの目が、痛くなくなるのなら。それに越したことはない。

 あまりにも謝罪が続くため、裕介もバルドも閉口を貫いていた。謝ってくる一人一人に『もういいよ』と言って許すつもりはないのに、彼らは自己満足で思いを押し付けてくる。それに先に嫌気が差したのは、バルドだったようだ。


「ああっ! 鬱陶しい! 散れ、クソガキ!」


 そんな暴言に、クラスメイトも、裕介でさえも目を丸くした。

 クラスメイトたちの驚きは、手に取るように分かる。あの、灰村が……。なんて。


「灰村ぁ」


 凶悪な声が聞こえた。その声だけで、裕介を恐怖のどん底に突き落とすには十分で、世界で一番嫌悪するものだった。クラスメイトでさえ、自分の悪事がバレたかのように震え上がっている。

 呼ばれた裕介とバルドが、声のした方へと視線を送る。


 このクラスの、所謂、暴君。三人の取り巻きを従えた、鉄輪かんなわという名の男子生徒だ。


「調子に乗るなよ、お前」


 ピキッと、バルドのこめかみから怒りの音が聞こえた気がした。


 バルドと鉄輪の間に走った一触即発の空気を切ったのは、次の授業を担当する教師だった。

 裕介の回りにいたクラスメイトたちは一斉に散らばり、最後まで残っていたバルドが、鉄輪と睨み合いながら席へ戻っていく。それを見てハラハラしたのは、裕介の方だった。

 ああ、怖い。勝ち気な人たちって、どうしてあんなに喧嘩っ早いのだろう。自分とは正反対だ。そんなことを考えていると、授業はあっという間に進んでいった。



◆◇◆



 休み時間の度に、バルドが鉄輪の方へ向かうのを止めなければならなくなるとは、計算外だった。授業が終わったチャイムが鳴った瞬間、裕介はバルドの方へと走り寄り、手を引いて中庭まで連れ出した。

 何故、そんなに素早く行動していたのか。それは二時間目に、転校生を見に来た他のクラスの生徒たちに取り囲まれ、足止めを食らったからだ。主に女子生徒が多かった気がするが、そんなことを気にしている場合ではなかった。その時はバルドの制服を引っ張って、何とか傍に留めてやり過ごしている。


 中庭にあるベンチに腰かけて、重い溜め息を吐き出す。疲れた。本当に疲れた。飄々と目の前に立つバルドが、あまりにも憎たらしい。


「さっきも言ったけど、鉄輪くんに喧嘩を売るのはやめて……」

「先に吹っ掛けてきたのは向こうだ」


 話を聞くと、『調子に乗るなよ』と言われた時のことではないらしい。

 朝会の時、あんなにも機嫌が悪かったのは、朝一番に鉄輪に仕掛けられたからだったようだ。

 机へ向かうバルドに足を掛けて転ばせ、それを見て囃し立てて大笑いする。いつも裕介が受けてきた嫌がらせだ。その時は、流石のバルドも驚いて、怒りすらも忘れたみたいだ。

 予め裕介から聞いていた席に向かう途中で、転けたことによって被った痛みと共に沸々と怒りが生まれたらしい。そしてダメ押しの、『調子になるなよ』だった。


「よくやってきたな、お前」


 いろんなことを思い知ったと、バルドの表情に書いてあった。

 不登校になるという手段もあった。でもしなかった。一重に、母を悲しませたくなかったからだ。裕介が不出来な息子になることで、母は一層、灰村家で肩身の狭い思いをする。それでなくとも、既にそんな思いをしているのに。父は大会社の会長、三人の兄は三人共に優秀。母の血が混じっている自分だけが、落ちこぼれ。


 (子供の頃から、何度も何度も、泣きながら母さんに謝ってきた。生まれたのが、僕でごめんね、と)


「今だけ、堪えればいいと思ってきたんだ。」


 そう呟いた裕介に、バルドが何とも言えない表情を浮かべた。

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