第6話 賢帝

 兄は、何を勘違いしたのだろう。

 別に何かに落胆した様子ではなかったけれど、兄は確実に弟である裕介に何らかの新しい解釈を生み出したに違いない。

 顔を手のひらで覆って、悲観する。兄に変な誤解をされたままなんて、生きていけない……。

 登校中、トボトボと歩く裕介の隣で、バルドが身を包んだ制服を物珍しそうに眺めている。それを横目で見ながら、裕介はバルドがしてくれた説明を思い出していた。

 昨夜、裕介が眠った後。眠ったというより、あれは仮死状態に陥っていたらしい。吸血鬼は眠らない。一時的に体を仮死状態にして、エネルギーを補填するそうだ。閑話休題。

 リビングに戻ったバルドはいろんな会話を母や皐月として、皐月が裕介の高校の卒業生だと知ったらしい。そしてバルド用の制服や教科書を手に入れたという。朝、皐月が持ってきた荷物はそれだ。

 バルドが母と皐月と交わしたという会話に、裕介は一抹の不安を覚えたが、朝食を食べている時の二人に変わった様子はなかった。

 バルドは本当に、上手いこと話を進めてくれたのだろう。これは彼なりの処世術とも言えるのか。人間世界で生きていく為に培った、彼の生きる術なのかもしれない。

 数年前まで、兄が袖を通していた制服だ。感慨もひとしおである。先程までバルドがしていたように、裕介も制服へと視線を落とした。


「覚えているだろうな?」

「分かってるよ」


 不意にバルドに話しかけられ、裕介は一つ頷いた。

 学校に行って、記憶操作をするのは教師だけだ。生徒にまで気を配っていたら、絶対にまた仮死状態に陥るまで疲弊する。

 教師だけが対象なら、学校内だけの記憶を操作すればいい。何の変哲もないドイツ人留学生が一人増えるだけだ。

 それだけなら、そこまで疲弊しないだろうというのが、バルドの見解だった。母と皐月の場合は、あまりにも記憶している時間が多かったから。だから反動も大きかったという。

 バルドの体に入っているのがバルド自身なら、こんなことは造作もないことだと彼は言ったけれど。体が入れ代わっているのだから、仕方がない。


「バルド」

「何だよ?」


 体が入れ代わっているから、彼に言っておかなければならないことがある。学校に着いた後に、自分の身に降りかかるであろう、不幸と理不尽を。

 イジメられているなんて、母には言ったことがない。勿論、皐月にもだ。隠して、隠し通してきた。恥ずかしい思いもあったし、悔しい思いもあった。だからこそ助けを求めるなんてできなくて、この悩みを抱えたまま苦しんでいた。

 それをいきなり、昨日会ったばかりのバルドに話すことができるのか。否、できなかった。

 言おうと決意したのに、口が開かない。鎖でグルグル巻きにされたかのように、顎が動かない。喉が締め付けられる。


「王は何故、王と呼ばれると思う?」


 唐突なバルドの問いに、裕介は一瞬だけ呆けてしまった。


「偉いから?」

「違う。人の心を掴むからだ」


 トンッと、バルドが裕介の心臓の辺りを指差した。


「力には暴力で返す、それが暴君。今のお前は、それに怯える平民でしかない」

「へい、みん……。」

「しかし、平民の中からでも群衆の心を掴めば、ソイツは簡単に王へと化けられる」


 やっぱりバルドは、裕介がイジメに合っていることに気づいている。それを今、自分の口から告白しようとして言えなかった裕介にも、気づいているんだ。


「力で物を言う暴君にはなるな。例え力は弱くとも、強い心を持った、心で人を動かせる賢帝になれ」


 『そんな奴を、俺はこの二四〇年間で何人も見てきたぞ』と、バルドが意地悪そうに笑う。

 賢帝だなんて、時代錯誤もいいところだ。だけど長命なバルドだから、もしかしたら歴史上の偉人をみたことがあるのかもしれない。

 イジメてくるクラスメイトは暴君。力で虐げてくる嫌な奴らだ。真っ向でぶつかれば、絶対に敵わない相手。でも強い心さえあれば、それを凌ぐことはできる。

 今からでも、間に合うだろうか。これまでに散々に痛め付けられてきたこの心を、強く鍛え直すには時間が足りるだろうか。


「バルドは平気なの? 僕の体に入っているということは、絶対に辛い目に合う。相手はとても陰湿だよ」

「ナメんな、クソガキ。赤子の手を捻るように、返り討ちにしてやる」

「バ、バルド……。言ってることが違うよ。暴力はダメなんでしょ?」


 バルドが考え込んだ為、一瞬の間が空いた。


「時と場合によるさ」


 (彼の言葉には説得力がない。うん。学んだ)



◆◇◆



 バルドが教室で何をやらかすか分からない不安を抱え、裕介と彼は昇降口の手前で別れた。裕介は職員室へ行かねばならず、バルドは登校時間ギリギリであったからだ。

 職員室の扉の前で、大きく深呼吸をする。今から教師全員の記憶を操作するんだ。それは緊張もする。

今日から転入してきた、ドイツ人留学生。バルドゥイーン・シュヴァルツ。クラスは元の裕介と同じ、一年三組。


 (絶対に、成功させる!)


 勢いよく職員室のドアを開いて、先手必勝とばかりに力を使う。職員室にいた教師たちが驚いてこちらへと振り返っていたが、瞬時に色を失った表情を浮かべて、また次の瞬間には笑みを浮かべて『おはよう』と挨拶をしてきた。


 この感じは、成功している。ちょっと頭がふらついて体が重いけれど、昨日よりはマシだ。

僅かに上がった息を整えていると、目の前に誰かが近づいてきた。1-3の担任の男性教師、亀川かめがわだ。


「おはよう、シュヴァルツくん。今日からだよね。もうすぐ朝会が始まるから、一緒にクラスへ行こうか?」

「はい。よろしくお願いします」


 (僕は貴方のこと、信じていないよ。気づいていなくて当然だけど、僕は灰村裕介だから)


 自分のクラスのことを統率できない亀川を、裕介は信頼していなかった。裕介がイジメられていることを、彼は絶対に勘づいていると裕介は思っていた。

 この教師は何に怯えているのか、クラスで起きている問題を公にしたことはない。怯えている対象は校長か、それより上の組織か。イジメをしている生徒たちか、或いは裕介の家の方にか。何にせよ、体が入れ代わっていても、裕介がこの教師を信頼する可能性は低かった。

 亀川の後に続いて、廊下を進んでいく。教室が近づいてくるにつれて、いつものあの嫌な感じが襲いかかってきた。

 教室は嫌いだ。あのクラスが嫌いなんだ。行きたくない。苦しいんだ。でも、行かなきゃならない。

 亀川が教室のドアを開ける。深呼吸をして、覚悟を決めた。亀川の背中が三歩ほど遠ざかってから、裕介も教室へと足を踏み入れた。

 一気に注目を集めて、無数の視線を感じる。この空気は苦手だ。居心地の悪さを感じながら、裕介はゆっくりと視線を上げた。

 本来の自分の席へと視線を走らせる。そこにはバルドが座っているはずだ。窓際の、一番後ろ。外から差し込む太陽の光に、黒髪が照らされている。


 (何があったの? バルド……)


 一目見て、ドン引きするくらい怒っている表情のバルドが、黒いオーラを纏って裕介を睨んでいた。


「今日は最初に、転校生を紹介する」


 今、裕介が一番怖いもの。それは後から浴びせられるであろう、バルドの罵倒だった。

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