第4話 母と兄

情けなく頭を垂れて、スタスタと玄関へ向かうバルドの後を追う。


「ま、待って。でも力を使うってどうやるの?」

「はぁ?」


 バルドの口から大きな声が出て、裕介は慌てて『シーッ!』と小声で叫ぶ。

 家の中にいる母と兄に聞こえてはまずい。まだ裕介は記憶操作の方法をしらない。


「――気合いだ」

「えっ」


 そんな根性論みたいな簡単な話でいいのか。


「ち、違うよ。何かほら、あるでしょ? 呪文とか技名みたいな――」

「あるか、そんなもの」

「な、え、どう……」


 混乱して言葉を言えない裕介に、バルドは何度めかの呆れたような溜め息を吐いた。そのまま裕介の襟ぐりを掴み、自分の方へグイッと引き寄せる。


「お前、息を吸うことに呪文を唱えたことがあるのか? 腕を振り上げることに、技名を叫んだことがあるのかよ?」

「な、ないです」

「俺にとって、それくらい自然なことだ。記憶操作は。だから絶対に、俺の体は完璧に応える。お前の力を使うという意思に」


 引き込まれそうなバルドの強い瞳に、裕介は無意識に頷いた。

 分からない。分からないけれど、絶対に大丈夫。バルドの体は、必ず裕介の意思に従う。バルドがそう信じているのなら、大丈夫だ。


 玄関の扉に手を掛ける。ノブを引く前に、バルドの方へ振り返った。


「ただいまって、言ってくれる? 母さんが好きな言葉なんだ」

「息子も変なら、母親も変わっているんだな」


 一言多いバルドの言葉を無視して、裕介は扉を開いた。


「たでーまー」


 (うん。僕が間違っていた)


 なんてことをしてくれたんだと、隣に立つバルドを無言で見つめる。

 まだ力を使っていないのに、母に疑われたらどうするんだ。そんなことを悶々と考えている裕介を尻目に、バルドは涼しい顔をしている。

 リビングのドアが開いて、スリッパを履いている一歩目が見えた時、裕介は『来た』と身構えた。


「裕介? 今のは――」


 母の顔が見えた瞬間、バルドが言ったように気合いを入れる。

 裕介の性格は少し変わった。自分はドイツ人の留学生。この家にホームステイしている少年だ。


 (信じて、母さん!)


 何が起きたのかは分からない。バルドの体から何かが放出されたのかもしれないし、何も出なかったのかもしれない。

 でも、長い黒髪をバレッタで留めて、裕介より少し身長の低い母は、一瞬だけボンヤリとした表情を見せた後、パッと笑みを咲かせてこちらへと小走りで近づいてきた。


「おかえりなさい、裕介。バルドくんもおかえり」


 (バルドくん?)

 

 不思議に思ってバルドの方へ振り向けば、彼は裕介の顔でニヤリと笑っていた。その顔が何だか怖くて、裕介は一歩だけ後ずさりした。


「成功だ。ユースケ」


 その怖い笑みは、記憶操作が成功したことへの、喜びの表情だったのか。それならもっと晴れやかな顔で喜んでほしいと、裕介は思った。

 母に聞こえないくらいの小さな声で褒めてくれたバルドに、僅かに頷いて返す。


「今日は遅かったね。迎えに行ってくれたバルドくんと、寄り道でもしてたの?」


 これは、記憶操作したことの効果なのか。バルドはもうずっと前からこの家に存在していて、今夜は塾帰りの裕介を迎えに来てくれたことになっているらしい。

 何となくそう理解した裕介は、チラリとバルドの方へ視線を遣った。


 (母さんが質問してきたのに、何で答えてくれないの?)


「そ、そうなんです、裕里ゆうりさん。ちょっと遠回りして帰ってきたんだよね。ね? 裕介?」

「おう」


 思わず肩を掴んで、バルドの体を揺する。


 (おうって何? おうって。僕、そんな返事したことないよ!)


 多分、そんなことは気にしなくてもいいんだろうけど。きっと記憶操作の効果でカバーされているはずだ。でもこんな状況に慣れていない裕介は、一人だけパニックの中だ。そんな裕介を見ながら、バルドは楽しんでいる節さえある。それが分かった裕介は、バルドをジトリと見つめた。


「それならもっと早く連絡をすればよかったね。皐月くんが帰ってきてるの。裕介が喜ぶと思って」


 『早くおいで』と手招きする母が、先にリビングへと入っていった。

 母の姿が見えなくなると、途端にバルドがクスクスと笑いだす。その笑いは絶対に、さっきの裕介の狼狽えぶりへの嘲笑に違いない。


「笑い事じゃないよ……」

「悪い。面白かった」


 謝っているのに悪びれた風はない。その様子に裕介は溜め息を吐いて、バルドの体が履いていたブーツを脱ぐ。先に靴を脱いだバルドが、玄関の段差を上がってこちらへ振り向いた。


「お前のことは呼び捨てなのに、兄のことは“くん”で呼ぶのか。変わっているな」


 その言葉に一度体が固まったけれど、裕介はすぐに立て直して、顔を上げた。


「僕と上三人の兄は異母兄弟だよ。母さんは父さんの後妻なんだ」


 言わなくてもいいことかもしれない。でも言わなくてもいつか分かる。それならいつまでも燻る前に、自分で棘を抜いて傷口を広げた方がマシだ。

 そんなことを考えている裕介を、バルドは無言で見つめた。バルドの前を通過していく裕介を、ゆっくりと視線で追う。


「僕は皐月兄さんが好きだ。お願いだから、さっきみたいなことはしないで」


 長兄は明らかに裕介を嫌っている。次兄はまるで無関心。残された三番目の兄にさえ、自分を見てもらえなくなったら……。

 そんな悲しいことは想像もしたくないのに。バルドがどんな行動を取るか分からない以上、不安で仕方がなかった。


「俺の力は、ある程度のことまでカバーする」


 そう言ったバルドは、ほんの少し悲しんでいた裕介の頭をガシッと押さえて、僅かに撫でた。


「お前が兄を慕っているのなら、素直に表現すればいい。俺の体であっても。兄はそれを不思議に思ったりしないさ。ホームステイしているバルドゥイーンは、自分のことを慕っているのだと疑問にも思わない」


 何故、彼に伝わったのだろう。バルドの体では、今まで兄に接してきたようにはできないだろうという不安が。

 優しい兄だ。少し変わっているところはあるけれど、いつも優しい兄だった。小さい頃、長兄に言われた意地悪な言葉に泣いていると、皐月は必ず慰めてくれた。

 大きくなってからは、それとなく守ってくれていたことを知っている。六つ上の、優しい兄。

 その兄の前で、変わらずにいていいのだと、バルドが教えてくれた。


 (それなら僕は、母さんの時みたいに。バルドのこの力を使いこなしてみせる)


 リビングのドアを開いて、ソファーに座っている皐月を視界に捉えた瞬間、裕介は眉間に力を入れた。何となく、力を使うイメージで。


「――ああ、おかえり、裕介。君もおかえり」


 無表情ではあるけれど、その下には温かい気持ちを持っている人だ。知っている。何故なら、自分の兄だから。

 久しぶりに会えた皐月に、隠しきれない喜びが込み上げる。ウズウズとしながら、笑みを浮かべた。


「ただいま。皐月兄さ――」


 ガツンッと後頭部に衝撃が走る。痛くはない。代わりに頭を殴ってきたバルドが痛がっている。振り返ってそんなバルドを眺めた後、何かに気づいてハッとした。


 (兄さんって、呼んじゃダメだ)


「た、ただいま。皐月くん」


 他人行儀な呼び方をしてしまって、思わずショックを受けたけれど、仕方がないとなんとか押し隠す。


「裕介! 何でバルドくんを叩いたの!」


 母の声に飛び上がり、怒られたんだと思って謝りそうになる。でもその前にバルドが母に向かって謝っていて、それに何故かホッとした。


「――謝ってほしいのはこっちだ。クソッ! 痛ぇ……」


 バルドが発したその声を無視して、ニコニコと笑いながら母に『大丈夫』と伝える。


「バルド?」


 不意に聞こえた皐月の声に、呼ばれているのは自分だと即座に判断して、そちらへと振り返る。


「何?」

「……何でもない。呼んだだけ」


 皐月の様子に、首を傾げた。

 少し変わった所のある兄だ。皐月のこんな言動には慣れていた為、裕介は特に深く考えず、ニコニコと笑いながら皐月に頷いて返した。

 その時、急に頭がふらついて、額に手を当てた。母や皐月の血に反応したのかとも思ったが、これは吸血欲求ではないと何となく分かる。

 フラフラと頭が揺れる。体には岩が乗ったかのように重い。頭の揺れに堪えられなくなって、足が一歩だけ後ろに下がった。そんな裕介の体を、後ろに立っていたバルドが支えた。


「――帰りにバルドが言ってたよ。少し調子が悪いって」

「えっ! そうなの?」


 この場を乗り切ろうとバルドが吐いた嘘に、母は素直に騙されてくれた。

 裕介が力なくバルドを見ると、彼もこちらを見つめている。


「もう休ませてあげるよ。部屋に連れていく」


 そう言ったバルドに、母が『一人で平気?』と尋ねる。それを朦朧とした意識の中で聞きながら、裕介はバルドに支えられてリビングを後にした。

 後ろ手にバルドが母に手を振って、『大丈夫。』と答えたのが分かる。


「こ、これ……何?」

「言っただろう。力の反動。俺なら何てことないが、お前は二人でも堪えられないみたいだな」


 母と皐月に聞こえないよう、二人でボソボソと喋る。

 裕介の部屋へ案内するために、二階へ繋がる階段を指差した。


「寝ろ。あとは上手くやっておく」


 バルドのその言葉は到底信じられないが、裕介はもう重くなる瞼に逆らえなかった。ゆっくりと意識が沈んでいく中、『頼んだからね、バルド……』と呟いた。

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