第3話 力の使い方

 連絡をしてきたのは母だった。『ちゃんと帰ってきてる?』と、開いていた受信メールの画面から、即座に『もうすぐ帰り着くよ』と文章を打つ。長い爪のせいで少しもたついたが、ちゃんと返事は送信した。

 時計を見れば、いつもの帰宅時間より三十分は遅れている。母が連絡をしてくるわけだ。


「帰らなきゃ……」


 そう呟いた所で、自分の体と目が合う。

 帰ろうと、したくても……。体は今、他人の物。自分の意思は、他人の中にある。この状況にまたパニックに陥りそうになって、言葉にならない発声を繰り返した。


「あの……」

「帰ればいいんだろ、お前の家に」


 どうしよう、と、こちらが言う前に、彼はあっさりと解決策を打ち出してきた。


「でも、こんなこと、母に言っても信じてもらえるかどうか……」

「言わなければいい」


 吐き捨てるようにそう言った彼は、音も無く立ち上がった。ただしその行動で体に痛みが走ったのか、口汚く独り言を言っていたけれど。

 『家はどこだ?』と聞かれて、帰路の先を指さす。歩きだした彼の後を、鞄を持って追いかけた。


「言わなければいいって……。絶対にバレますよ、こんなこと」


 言い募っても、彼は横目でこちらを見るだけだった。


「隠し通す方法はある」


 制服のポケットに手を入れたことはない。隣を歩く彼は、自分がしたことのないその動作を、慣れているかのように行った。


「無理ですよ。僕と貴方じゃ、違いすぎます」


 自分は『俺』とは言わない。言葉遣いも悪くない。ポケットに手を入れないし、歩くのだってこんなに早くない。それに何より、こんなに堂々と道を歩けない。

 あまりにも違いすぎる。母を欺くことなんて、絶対にできない。


「――さっき、言ったはずだ」

「え?」

「吸血鬼。お前は今、二四〇年間を生きている吸血鬼の体に入っている」


 少し強い風が、二人の間を吹き抜けた。


「闇の中で俺が生きていられるのには、それなりの術がある」


 そうだ。今の時代、吸血鬼なんて伝承の中の生き物が実在していたら、そのニュースはあっという間に世界を駆け巡る。それなのに現在も彼らが空想上の生き物とされるのには、情報がないからだ。彼ら自身が何らかの術を持って、隠れて密かに生きているからだ。


「問題はお前だ。お前がちゃんと、吸血鬼としての力を使えるのか。家族の血を求めるのを制御できるかだ」


 自分の家に帰らないという手はない。世界中でただ一ヶ所だけ、心休まるのは自分の部屋だけだから。

 でもこの体でこのまま家に帰って、母と対面した時、自分はちゃんと自制ができるだろうか。彼に襲われた時のように、自分も母に危害を加えるのか? 自分を守ってくれていた存在を?


「絶対に、襲いません。絶対に、母だけは」

「マザコンのクソガキだったか。気持ち悪い」


 そんな暴言を吐かれて、愕然とする。

 『まぁ、その言葉は一応、信じておいてやるよ』と、彼は悪びれることもなく更に言い放った。


「あ、あの……貴方はもう、この先のことを考えて計算できているみたいですけど……。こんなことはよくあるんですか?」


 『ああ?』と言って、ギロリと睨まれる。その形相にまた『ヒッ』と悲鳴を上げて、肩を縮ませた。そんな自分の反応に呆れたのか、彼はフンッと視線を逸らした。

 もう一つ、違う所があった。自分はこんな顔はしたことがない。絶対に。


「呪いは理不尽だ。理不尽だからこそ、呪いなんだ」


 つまりは、よくあることなのだろう。彼にとって理不尽は。入れ代わりなんてことが初めてなのだとしても。呪いには、慣れているのだ。


「お前も随分と落ち着いているな。吸血鬼と聞いても、体が変わっても」


 違う所はあまりに多い。自分と彼はあまりに似ていない。でも――


「僕も、理不尽にはなれています」


 これは自分の人生に対する諦観だ。

 溜め息を吐くと、彼から刺さるような視線を感じた。


「――お前、ムカつくな」

「ええっ……」


 唐突な強い言葉に怯える。


「俺の顔で、そんな言葉遣いをするな。俺の体を貸してやってんだ。もっと堂々としていろ、クソガキ!」

「ぼ、僕の癖なんです! 母と三番目の兄以外には、敬語を使う癖が付いてて……。昔、そうしろって命令されたから……」


 そこまで言ってハッとして、慌てて口を閉じる。

 理不尽が始まった、中学二年の頃。その時にこの言葉遣いを強要された。年上ではない。同級生に。相手は自分より上なのだからと、見下した態度でそう命令された。


 彼にはもう分かってしまっただろう。自分は学校でイジメを受けていると。

 またジッと凝視され、居たたまれない気持ちになる。


「誰に言われたかは知らないが、俺はお前にそんな命令はしていない。無関係の俺の前でまで、そんな下らない戯言に従うな」


 自分の顔なのに。自分の肩なのに。自分の背中なのに。自分がその体を使っていた時より、何故か大きく見えた。とても、とても大きかった。

 泣きそうになる。今までに他人から掛けられた言葉の中で、一番に優しい響きだったから。


「重要なことを聞き忘れていた。お前の名前は?」

「――ユウスケ。灰村裕介はいむらゆうすけだよ」


 もう何年間も詰まっていた呼吸が、久しぶりにスッと通り抜けたようだった。他人に怯えず、敬語を使わなくていいというのは、こんなにも息が楽になるのか。


「俺はバルドゥイーン・シュヴァルツ。バルドでいい。よろしくな、ユースケ」


 まさかの外国人だった。裕介の体に入っているバルドは、流暢に日本語を話していたから、そんなことに思い至らないのも当然だ。

 視界に入る前髪を、よく見えるように少し引っ張ってみる。白っぽい薄い金髪だ。鏡がないから確かめることはできないけれど、きっと瞳の色素も薄いに違いない。

 いや、吸血鬼って鏡に映らないんだったか。影もないという話だったかもしれない。でも自分の足のつま先からは、黒い分身が長く伸びている。何かもう、理解の範疇を越えてばかりだ。

 よくよく話を聞けば、バルドは元はドイツ人だと言った。『ドイツ語なんて、僕は話せないよ!』と的外れな主張をすれば、バルドが『いや、話す必要はないだろ。』と呆れたように返してくる。

 すったもんだを繰り返して、長かった帰路が漸く終わりを見せようとしていた。


「ここか、お前の家。随分デカいな」

「父が大きな会社の会長だからね……」


 そう言って、車庫の方へ視線を移す。

 今日も父は帰っていない。相変わらず会社の近くにある、ホテルの一室で生活をしているのだろう。

 母はどんな思いで、今夜の食事を用意したのだろうか。毎日毎日、母と息子の二人だけの為の食事。母はきっともう何年も、父に帰ってきてと言えていない。本音をさらけ出せていない。


 (僕が、出来損ないだから――)


 そんな風に自虐して、またふと目を移した。

 車庫の空いているスペースの、更に横。そこには一台、車が停まっていた。


皐月さつき兄さんの車だ……」


 大学生である三番目の兄が、帰宅している証拠だった。

 彼もここ暫くは家を空けていて、帰ってくるのは一ヶ月振りくらいかもしれない。母のメールでは兄の帰宅を知らせる旨は書かれていなかった。もしかしたら、帰ってきてから間がないのだろう。


「家族か?」

「うん。母と三番目の兄が家にいるよ」


 ふむ、と、バルドは考えだした。

 白い壁の家を見上げ、腕を組んでいる。


「二人か。それなら何とかなるかもな」

「え。何が?」


 裕介の疑問に、バルドが右手から一本指を立てる。その指先に気を取られていると、彼はまた話し始めた。


「俺が隠れて存在する為の術」

「さっき、言ってた……?」

「そうだ」


 バルドの指が、ゆっくりと眉間に迫ってくる。それにほんの少しだけ怯えて、何をされるのだろうと身構えた。


「この中だ。この中を操作する。吸血の的になった相手、吸血の現場を見た相手。そういう奴らの記憶を操作して、俺は生きてきた」


 ゴクリと息を飲む。

 なるほど。それで彼らという生き物の存在が、広まらないわけだ。知られた相手の記憶を操作してしまえば、彼らは次の瞬間には闇の中へ戻ることができる。


「洗脳と忘却。その時々で使い方は違うが、実に使い勝手のいい力だ。ただし、デメリットはある。使いすぎれば反動は大きくなり、苦しむのはこちらだけ。まぁ二人だけなら、その反動を乗り越えられるはずだ」


 今の話の流れからすると……。


「えっ! 母さんと皐月兄さんの記憶を操作するの?」

「対象が傷つくわけではない」

「で、でも……」


 (僕のことを唯一見てくれる二人に、忘れてほしくはないよ……)


「今回は洗脳の方だ。お前のことは忘れない」


 バルドに簡単に思考を読み取られて、裕介は居心地の悪さを感じた。


「入れ代わった、俺とお前。このクソつまらない状況に対処するには、俺たちは共にいるしか方法はない。お互いの体に戻ることができる、その時までな。その間、少しでも環境をよくしよう。お前はこの家にホームステイしている、ドイツ人留学生だ。それを母と兄の記憶の中に叩き込め」


 本来ならバルドは、裕介の血を奪った後に記憶を操作して、また闇に帰るつもりだったはずだ。

 裕介は単なる食料に過ぎなかった。それが今、こんなことが起きて、彼は秘密を明かしてまで、共にいようとしてくれている。協力することを申し出てくれている。

 自分の体に戻りたいのは、どちらも一緒。それならどうする? 決まっている。力を合わせて、この状況を打ち破るだけ。


「やるよ、僕」

「お前の決意なんかどうでもいい。やるしかねぇんだ、今は」


 心を決めて力強く宣言したつもりなのに、バルドにすげなく言い捨てられて、裕介の心は一気にシュンッと萎れてしまった。


 (彼はイチイチ、言葉が強い……)

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