第2話 彼の正体

「――人格の入れ代わりなぁ。どう思う?」


 自分で自分を貶めていたら、傍に座る人物はそう聞いてきた。それに驚いて、呆然と彼を見つめる。


「わ、分かりません……」


 動揺して声が裏返りながらも、やっとその言葉だけを返せた。そんな自分を横目で眺めた後、彼は小さく溜め息を吐く。

 自分に何かを聞いてくる相手は、殆どがどこか高圧的だ。それもそうだ。彼らは自分を下に見ていて、虐げていい存在だと思っている。いてもいなくても困らない存在。でもいたらいたで、余興的な遊びができる存在だ。

 そんな自分に、目の前の彼は、小馬鹿にした風にも脅すような素振りでもなく、普通に話しかけてくれた。


「月が赤い」

「え?」


 ボソリと呟いた彼に倣って、自分も空を見上げた。

 今夜の月は赤い。それに怯えて、自分は帰宅を急いでいたのに、何か訳の分からない事態に巻き込まれ、冷たいアスファルトの上に座り込んでいる。知らない人の意識が宿った自分の体と、知らない人の体に宿ってしまった自分が。


 (何なんだ、コレは。本当に)


「月が赤いのは、月が血を吸うからだ。そのせいで枯渇が起き、喉の渇きに咽ぶ」


 そう言って、彼はゆっくりとこちらへと振り向いた。


「渇かないか? 喉が」


 何の変哲もない言葉だった。だけどその言葉が何かの呪文だったかのように引き金となり、他人の持ち物であるこの体がざわめき始めた。階段から落ちたショックで、或いはこの身に起きた変事で、こんな衝動を忘れていたようだった。

 喉が熱い。痛い。痒い。張り付く、ヒリつく。チクチクする。苦しい、辛い!


「――あああ……っ!」


 口から呻き声が零れ出す。

 こんな症状は知らない。こんな、何か一つに執着するような、喉の渇きを。あの一つに焦がれる、この執念を。


「欲しい……欲しい……」


 不意に鼻腔の中に、求める物の匂いが入り込んできた。素早く視線でその元を辿ると、視界に入ったのは自分の体にあったあの怪我だった。


「欲しいだろうな。よーく分かるよ」


 虚ろな意識の中で、彼の言葉はよく響いた。


「お前が求める物はただ一つ。血だ。俺は吸血鬼。その俺の体に入っているお前も、今は吸血鬼だ」


 見せびらかすように、目の前に差し出された傷のある左腕。もうそこから目が離せなかった。


「悪いな、少年。渇ききって石になるのは御免だ。お前の血を、いただくとする」


 そう言って、彼は腕を更に押し出した。

 彼が心配しているのは、本来の自分の体。今現在、自分が入っている体のことは何も考えていない。

 自分の血が欲しいなんて。自分の血を飲もうとするなんて。

 彼はさっき、何と言った? 吸血鬼だって? そんなお伽噺、どうして信じられるんだ。そもそもそれが本当だったとして、本来の自分の体はどうなる? 危なくないのか? 死ぬのではないのか?


 (もう、どうだっていい。僕は今、僕の血が欲しいんだ!)


 力任せに自分の腕を掴んで、勢いよく口元へと引き寄せる。傷口から漂う血の匂いに、至上の喜びを感じた。


 プツリ――牙が、肉を引き裂いた感触。


「――痛ってぇ! ふざけんな!」


 鳩尾の辺りに衝撃が走った。それに驚いて思わず腕を離してしまう。

 血を飲めたというより、舐めたといった方がいい時間だった。でもさっきまでのあの執念は、跡形もなく消えていた。喉の渇きもなくなっている。そのことを不思議に思いながら、自分の体の方を見遣った。


 (な、何か、つま先を押さえて悶絶しているけど……。僕の体……)


「だ、大丈夫ですか?」

「大丈夫じゃねぇよ! 痛ぇよ! それにお前……いや、俺の体、硬すぎる!」


 ややこしい……。図らずも、そんな思いが脳裏に浮かんだ。

 どうやら鳩尾にあった衝撃は、彼が蹴ったかららしい。しかし逆にその反動を受けて、彼の方に痛みが行ったようだ。


「あの……ありがとうございました」


 我ながら、変な言葉だったと思う。現に彼は驚いたように目を見開いた後、怪訝そうに眉間にシワを寄せた。


「満足したってのか? たったあれだけの量で?」

「よく分かりませんけど……。さっきのような衝動はもう治まってます」


 『はぁ?』と言って、彼は首を傾げた。

 何か変な感じだ。自分がこんな表情をすることを、今まで全く知らなかった。


 吸血鬼なんて、空想上の生き物だと思っていた。それが今、正しく自分の身を持って知った。

 まるで中毒を起こしたかのように血を求め、それを啜って飲む。あんな幸福な瞬間を経験したことはない。

 普段なら怖いことから目を逸らしている。嫌なことには無関心を貫いてきたはずだ。でも今は……。こんなことが起きてしまった今は、事態を受け入れてしまうしかない。


「本来、“枯渇の月”が昇った夜は、たった一人の血で満足はできない。千人の血を飲み干しても足りないくらいだ」


 いや、やっぱり怖いかも……。

 彼の言葉に戦慄して、凍りついた。


「それが、たった一人。お前の血を少し舐めたくらいで、俺の体は落ち着いたってのか」


 まるで、階段を落ちた時と同じように、首を掴まれて生唾を飲み込んだ。

 ギラギラと光る自分の真っ黒い瞳から目を逸らせない。さっきまでは自分が力づくで行動できていたのに、今は完全に支配されている気分だ。

 命を狙っていた方から、命を狙われている方へ。立場が逆転している。自分はただの人間なのに。気の弱い、落ちこぼれの、ただの高校生なのに。中身が違うと、こんなにも変わるのか。


「お前、何者だ?」

「たっ……ただの高校生です!」

「俺の顔して、ただの高校生とか言ってんじゃねぇ」


 ペシンと頭を叩かれたけれど、ほんの少し揺れたくらいで全く痛くない。代わりに自分の体の方は、低く唸りながら叩いた手を押さえて痛がっている。

 殴られたのに、痛くないなんて……。殴られるのは初めてじゃないけれど、痛くないのは初めてだった。


「そもそもが変だった」

「え?」


 思わず聞き返すと、彼はギロリとこちらへ視線を向けた。


「この俺が、こんなヒョロっちぃクソガキに、食指を動かされることなんて滅多にない」


 ヒョロっちぃ……。確かに自分は筋肉もついていない薄っぺらい体ではあるけれど。それが原因で、自分の人生は苦汁を舐めてばかりいる。


「“枯渇の月”で惑わされたか、苦しみの頂点だった渇きのせいか。お前の血の匂いに誘われ、お前を狙った」

「僕の……?」

「常ならば、全く美味そうに見えないお前だ」


 自分の腕にある傷口を見る。あそこから発せられた匂いに、彼は引き付けられたのかもしれない。


「とにかく血を奪おうと飛び掛かったら、この様だ。何だと言うんだ。これも“枯渇の月”の呪いか」


 彼は再び、頭上にある赤い月を見上げた。

 “枯渇の月”が何なのか、詳しいことは分からない。彼がさっき言ったように、あの赤い月が何らかの要因を引き起こして、吸血鬼である彼から血を奪っているのだろう。

 ただ一つだけ分かるのは、彼があの赤い月を心底嫌っていること。忌々しく月を睨み付ける彼の横顔を見て思った。


「あ、あの……もう一回、階段から落ちてみますか? もしかしたら戻れるかも知れな――」


 ガシッと頭を掴まれ、力なく小さな悲鳴を上げる。

 指の隙間から見える彼の顔は、隠せない怒りを纏っていた。


「百十一年振りに昇った“枯渇の月”の呪いから、そんな方法で逃れられると思ってんのか?」

「ひゃ、百十一年振り? 何で分かるんですか?」

「馬鹿にするな。俺は吸血鬼だ。二四〇年以上を生きている。百十一年振りなんて、数えりゃ分かるんだよ」


 二四〇年……。もう、気が遠くなりそうな話だ……。


「絶対にそんな簡単な話ではない。そんな確証のない状態で、この痛みを感じる体で階段から落下とか、冗談はやめろ」


 一瞬、思考が止まった。彼の言葉を反芻して、よくよく考える。

 もう一度、階段から落下したとして、確かに体を戻せるとは限らない。でも万に一つは可能性がある。だからこそ提案をしてみたのだけれど、彼はそれを拒否した。痛みを理由に。


「え……。痛いのが、嫌だからですか?」

「違う。不確定要素のあることに、痛みを伴う試みをする意味を感じないからだ」

「痛いのが嫌だからじゃないですか! 僕だって痛かったですよ、階段から落ちた時。貴方が飛び掛かってきたせいで」

「うるせえ。口答えするな」


 一旦は離れていた手が、再び頭を掴んできた。視界を覆われる感じに、少しだけ身を捩る。

 その時、地面に放り出されていた自分の鞄からスマホの着信音がして、慌てて鞄に手を伸ばした。

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