Switch Buddy
奨馬
はじまり
第1話 出会い
今宵、百十一年振りの“枯渇の月”が昇る。
こんな夜には、世にも不思議なことが起こると言う。
月が赤かった。まるで血を吸い上げたかのように真っ赤になって、先に沈んだ太陽の光を反射していた。
そんな月を見上げ、知らぬ内に身を震わせて、九月であるというのに体に走った悪寒を紛らわせる為に左肘を擦った。すると擦っていた側の右手が不意に、脱脂綿を留めてあるサージカルテープに触れる。角の方が少し剥げかけていた。
「はぁ……」
思わず溜め息を吐いて、テープを剥がしにかかった。
この処置をしてくれたのは、学校の養護教諭だ。時間も下校時だったから、もう三時間も前。怪我をした時にはそれなりに出血はしたけれど、こんなに時間が経っているのなら、そろそろ血も止まっているだろう。
こんな如何にも怪我をしていますという証し、見せたくない。それでなくとも母には、自分のことで大きな心配をかけているのに。
テープが当たらないように制服の袖を捲り上げていたけれど、この袖を下ろせば怪我も見つけられないだろう。母には、見せたくない。
家への近道は、この公園を横切ることだ。入り口に差し掛かり、そっと剥がし続けていたサージカルテープが最後の一枚になった時、少し離れた所にあるブランコが風で揺れた。
「……ビックリしたぁ……」
鎖が錆びているのだろう。夜の闇の中、キィッと高く鳴り響いた音に、飛び上がる程に驚いた。
心臓がバクバクと音を立てて、冷や汗も流れた気がする。自分がこんな反応をしているのは、何も小心者だからという理由だけではないと思う。だって、今夜はあまりにも不気味だ。
通い慣れている公園なのに。気が重い朝の登校中も、怪我の有り無しに拘わらず塾で無い頭を酷使した後の帰宅中も、いつだってこの公園は通っているのに。何で、今夜はこんなに怖い?
自分を驚かせたブランコを凝視して生唾を飲み込む。無意識に剥がし続けていたテープがやっと、ペリリとその役目を終えた。
「い、急ごう……」
思わず立ち止まってしまった足を動かして、何かに追い立てられるかのように歩き出した。若干、早足で。もう今夜はこの公園に用はない。早く帰ろう。
怪我を被っていた脱脂綿を剥がすと、固まっていた瘡蓋も一緒に剥げてしまった。再度出血してしまったかと傷に気を取られ、階段に足を出した時だった。真横の草むらがガサガサと動き、音を立てる。先程から引き摺っている恐怖が限界を超えて、喉から引きつった声が漏れた。
後退り、揺れる草むらから遠ざかろうとする。草むらが動いている原因が、風であろうが野良猫であろうが、もうこの恐怖は消せそうにない。
足が階段を踏み外した、その瞬間――
「う、うわあぁぁ!」
草むらから黒い何かが飛び出してきた。それを避けようとしたが、足は既に地に着いていない。体はあっという間に宙へと舞った。
叫び声を上げた直後、黒い物体から白い物が伸びてきた。その白い物の正体は、長い爪に五本の指。赤い月の下で青白く見える、骨ばった手のひらだった。
その手のひらに首を掴まれ、一気に呼吸が苦しくなる。しかしそれを自覚する前に、今度は背中を階段に打ち付けた。その痛みについに息の音が止まった気がした。
青白い手に首を掴まれたまま、階段から転げ落ちていく。肩も肘も、踵やふくらはぎも打ち付け、時には黒い何かの重みもその身に受けながら。
この状況がいつまで続くのか分からない。死ぬのかもしれないとさえ思う。例え自分が死んだって、悲しむ人はそんなに多くはないけれど、だけど心配ばかりかけている母には、悲しみを与えたくはない。母だけはいつも味方だったから。
謝る母、怒る母、涙を流す母。フラッシュバックする母が最後に見せた表情が、満面の笑みだった。それを思い出して、ハッとした時。後頭部と額に強烈な痛みが稲妻のように走った。
きっと階段から落ちた音は、そんなに大きくなかった。夜の闇の中へスッと吸い込まれ、風に浚われていったのだろう。それでもその音は、まるで映画館で聴く大音量の効果音のように、耳の奥に残っている。
ゴンッと後頭部と額に割れるような痛みが走った後、一瞬の間が空いた。命の終わりを覚悟したのに。
「……痛く、ない……」
思わず呟いた。スタントマンのように、階段からあんな落ち方をしたのに、身体中から痛みが全く無くなっている。
不思議なことはもう一つあった。今、呟いた声。違う。違う声だ。この声は自分の声じゃない。
慌てて首に手を当てた。喉仏の辺りだ。その時にもふと思う。この手の感触を知っている。しかしそれは、自分の手だからではない。ついさっき、自分の首を掴んだ、あの青白い手の感触だ。
「……何……?」
首から手を離し、それをマジマジと見つめる。思った通り、その手は青白く、爪が長い。
頭を打って、何かがおかしくなったのだろうか。呆然と自分が落ちてきた階段を見上げる。尻餅をついたまま視線を落とせば、履いているのは黒色のブーツ。こんな靴なんて履いていなかったのに。
体を支えていた腕から急に力が抜けた。崩れたバランスを焦って立て直そうとしてまた腕を付くと、指の先が何かに触れる。その感触に恐怖が生まれ、勢いよく振り向いた。思わず、叫びそうになる。
「……僕……?」
後方に倒れているのは、自分だった。
「何で、僕が……」
間違えるはずがない。だって自分なのだから。その体で十六年間を生きてきた。
何が起こっているのかを、頭の中で処理できない。見ているものを理解できない。どうして、自分は気を失っているのに、自分はそれを傍観できているのだ。
「ゆ、幽体離脱……?」
混乱して、そんなことを呟いた。
有り得ない。幽体とは正しく文字通り、幽かな存在だ。何かに触れることなんてできないだろう。恐る恐る手を伸ばし、気を失っている自分の頬に触れている今のようには。
温かい……。こんな風に自分の体温を感じているなんて不思議だ。
自分に起きている事態をそっちのけに、そんなことを考えていた時だった。自分の体が唐突に目を開いて、その光景に恐れ戦いた。
「――ヒッ……!」
「痛ってぇ!」
自分の小さな悲鳴と、自分の体が発した声が重なる。
「何だ、コレ! 俺が“痛み”を感じるなんて有り得ないのに!」
自分が聞いている声と他人が聞いている声は少し違うという。だからか、聞きなれた自分の声とは少し違っていたけれど、自分であることには間違いない。
ただ、自分のことを“俺”と言ったことはないし、痛みに対して文句を言う言葉使いは、自分よりも遥かに悪い。やっぱり、何か不思議な光景だ。
ちょっと待て。今、『“痛み”を感じるのは有り得ない』と言ったか?
「クソが! 何なんだ!」
「あ、あの……」
思いきって、そう声を掛けた。痛みに怒り狂っている自分に。その声に気づいたのか、目の前の人物は漸くこちらへと振り向いた。
鏡で見る以外で、こんな風に自分を見つめたことはない。自分が持つ黒い目が、みるみる見開かれていく様を、味わったことのない感覚で眺めていた。
「はぁ?」
驚きの直後、その表情はまた怒りに染まった。話し掛けてしまったことを後悔しながら、ゆっくりと視線を逸らす。
「お前、何をした?」
「な、何もしてません!」
「嘘を吐くな!」
「本当です!」
「返せ! 俺の体を!」
(俺の、体……?)
思考が止まり、目の前の自分を見つめる。
「こ、この体は貴方の物なんですか? そっちの体は、僕なんです……」
まだ痛みが引いていないのであろう。頭を擦っていた自分の体は、その言葉にピタリと動きを止めた。再び驚きに染まった目で、こちらを見ている。
「よく分からないんですけど、草むらから何か飛び出してきて……。ぼ、僕、怖くて! 避けようとしたら階段を落ちて……。そしたらその黒い何かに首を掴まれて、一緒に……」
「もういい。喋んな」
強い命令口調でそう言われた。それに怯えて押し黙り、視線をさまよわせる。
知らない誰かが宿った体が、無言で何かを考えだした。手を開いたり閉じたり、その手を首に這わせたり。溜め息を吐いたかと思えば、いきなりこめかみに筋を浮かび上がらせて、舌打ちをしたりする。その度に喉が悲鳴を上げて、口から小さな音が漏れ出した。
何度目かの舌打ちに肩を跳ねさせた時、それを見た自分の体が怒りを纏ってこちらへと振り向く。
「いちいちビビるな! 鬱陶しい」
「す、すみません……」
「俺の顔で謝るな! 屈辱だ!」
また謝りそうになって、慌てて口をつぐむ。
自分は怒鳴るとこんな風になるのかと、現実逃避のようなことを考えた。
今までに一度も、怒鳴ったことはない。怒りを抱いたことはある。でもそれを表現したことはなかった。
いつだって感情を押し殺していた。悲しいも悔しいも。理不尽に痛め付けられる自分の人生に、どこか諦めも持っている。
体の持ち主は自分であるのに。自分以外の誰かがその体で怒りを表現することを、何故か羨ましく思った。
「あ、あの……。」
勇気を持って話しかけたのに、ギロリと睨まれて、その勇気は一気に霧散していく。
ああ。だから自分はダメなんだ。言いたいことを言えない、我を出せない。だから、周囲の人たちは。クラスメイトは。家族でさえ。
(僕を、見つけてくれないんだ……。)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます