第5話 特別
夢から覚める前は、何となく分かる。夢の中の主人公ではあるけれど、そのストーリーを急に俯瞰で見るようになるからだ。
ああ、これは現実の話ではないんだと思う。途端に夢の中の自分が陳腐な存在に思えてきて、どうしようもない程の悲嘆に暮れる。
夢の中の自分のように、大声で人を罵ることができたら。パンチの一発でも入れられたら、自分は他人に虐げられずに生活ができたのだろうか。
ゆっくりと目を開けて、カーテンの隙間から差し込む太陽の光に目を細めた。眩しい。真夏の朝でもなかろうに、室内であってもジリジリと肌が焼けていく気がする。
ハッとした。今、自分は、吸血鬼の体の中にいる。太陽の光に、当たってはダメだ!
慌ててタオルケットをたくし上げて、太陽の光から逃れる。いきなり自覚した生命の危機に、バクバクと心臓がドラムを打ち鳴らした。
バルドは何処にいるのだろう? 傍にいるだろうか。このシーツの感触は、裕介本人の部屋のベッドで違いない。バルドがこの部屋にいるのなら、太陽から逃れる対処法を聞きたい。
「――何をやっているんだ、グズ」
押しやるような衝撃と共に、裕介は被っていたタオルケットと縺れ合いながらベッドの向こう側へ落ちた。
「バ、バルド? 良かった、傍にいたんだ」
頭の上のタオルケットをそのままに、声が聴こえたバルドがいるであろう方へ顔を向けた。
「あ、あの、太陽の光って――」
バサッと布団を捲られ、太陽の光に全身を晒すことになった。
細く息を吸い込み、これから自分の身に、いや、バルドの身に起こる惨劇を想像する。
きっとこの青白い皮膚は焼け爛れて行くのだ。サラサラとした金糸の髪も、恐らくは綺麗なビー玉のような瞳も、太陽の光に照らされて、輝く間もなく灰になっていくのだろう。
(どうして、バルド! 自分の体に戻りたいんじゃないの?)
「――あ、あれ?」
結論から言おう。裕介が想像したような惨劇は起きなかった。
「お前のその無い頭で必死に考えたか? 吸血鬼は太陽が苦手だ? ふん。そんなもの、とっくの昔に克服している。ナメるな」
それならそうと、先に言っておいてほしい。
寝覚めの一発目から、とんだ冷や汗をかいたものだと、裕介はタオルケットをたたみながら思った。
『ついでに言うと、ニンニクも聖水も十字架も効かないからな。』と、バルドは何故か胸を張って言う。
「吸血鬼なんて化け物にだって、生きようとする意思はあるんだよ」
バルドがいつ、吸血鬼になったのか。生まれながらにそうなのか。そこまでの深い話はまだ聞けていないけれど。240年間も生きてきているんだ。きっといろんなことがあったんだろう。命を脅かすものを克服し、自分にできる全てのことをやって、この世界で生きようとしている。
(嫌なことから逃げてばかりいる僕とは、大違いだ。眩しい人、強い人。それがバルドなんだ)
「ほらよ」
そう言って、バルドが徐に腕を差し出してきた。
不思議に思い首を傾げれば、イラついたバルドが逆の手で頭を掴んでくる。これはバルドの癖なのだろうか。
「これは克服できねぇんだよ。吸血欲求はな」
そうか、と漸く思い至る。
そこまで血を飲みたいという思いはなかったが、バルドが自ら飲ませようとしてくるくらいだ。ここで飲んでおかなければ、この体に不都合なことが起こるのかもしれない。
差し出された腕に手を伸ばして、ゆっくりと口許へ近づける。細い自分の腕に牙を食い込ませて、ジワリと顎に力を入れた。
スパーンッ!
頭に響いた衝撃と軽い音に、腕を離して顔を上げる。
何かの教科書を巻いて武器にしたバルドが、表情をワナワナと震わせてそこに立っていた。手で殴るのは痛いから、教科書で殴ろうと学習したらしい。
「あ、貴方が飲めって、差し出してきたんでしょ」
「痛ぇものは痛ぇんだ! それに何か腹が立つんだよ!」
なんて横暴なのだろう。
ブツクサと文句を言い続けるバルドを見ながら、裕介は机の方へと近づいた。学校へ行く準備を始める為だ。
バルドが持っていた教科書を受け取り、何の教科か確認した後、それを鞄の中へ突っ込んで行く。
「――どうやらお前の血は、俺にとって特別らしい」
「どういうこと?」
昨夜からそうだ。バルドは急に、本来は裕介の顔を、吸血鬼に変えることがある。“枯渇の月”の話をした時、記憶操作の話をした時、そして今。
裕介が飲みきってしまえなかった血液が、バルドの腕から筋を引いて垂れている。それを一瞥して、バルドがまたこちらを見た。
「お前の血の一滴で、吸血欲求を極限まで抑えることができる」
『お前は目が覚めた後、一番に何を考えた?』と、バルドに言われる。
一番に、考えたこと。太陽の光だ。この身が危険だと思ったからである。素直にそうやってバルドに告げれば、彼は一つだけ頷いた。
「俺なら有り得ない。俺ならば一番に考えるのは、血のことだけ。今のお前はそうではない。それはつまり、吸血欲求が満たされているという証拠だ」
常に空腹。そんな感覚を持っているのが吸血鬼だと、バルドが説明してくれた。だから意識が覚醒してすぐに、隣に人間がいれば本能で必ず飛び付く。裕介は起きてから、裕介の体が持つ人間の匂いに気づかなかった。そんなことはまず無いのだと。
太陽の光に怯えてタオルケットを被るという裕介のとった行動に、バルドが『グズ』と罵った理由が分かった。吸血鬼らしからぬ鈍感さを発揮したからだ。必ず飛び掛かってくるだろうと予測して、先に起床していたバルドの予想を裏切ってしまった。
「今、お前が飲んだ血は、言ってしまえば余分なもの。実際は、昨夜に舐めた分で事足りている」
「な、何で僕の血がそんな……」
『そんな事は知らねぇよ。』と、バルドが腕に流れる一筋の血に目を遣った。
「どれだけ美味い血なのか――」
その光景を見て、裕介はヒィッと小さく叫び声を上げた。あろうことかバルドは、腕から流れる血を舐めたのだ。
「うえっ! 気持ち悪ぃ!」
「あ、当たり前でしょ! 人間の味覚で、血を美味しいとは思わないよ!」
バルドの腕を掴んで、その口許から遠ざける。
ペッペッと何かを吐き出すような素振りを見せながら、バルドが裕介を睨み付ける。
「だったら、血が漏れないように傷口まで塞げ! 無駄に垂れ流してるだけで勿体ねぇ!」
怒鳴る論点がずれている気がする。
「大体、お前は下手くそだ! 牙を入れる角度がなってねぇ。だからこっちが痛い思いをするんだろうが! 本来なら、牙を抜いた時に傷口は塞がっているもんだ!」
「知らないよ、そんなこと! 傷口を塞ぐなんて、どうやればいいの?」
「気合いだろ!」
だから、もっと分かりやすく説明してほしい。根性論みたいな抽象的な言い方ではなく。
バルドに対して反感を覚えたが、それを意思表示できるほどの心の強さは持ち合わせていない。グッと堪えた裕介は、また血が滲み始めた腕に視線を落とした。
(気合いで、傷口を塞ぐ。気合いで。気合いで。何なんだよ、ソレ)
そんな事を思いながら、なるようになれと、腕に舌を這わせて傷口付近を舐める。
「――なぁ、バルド。昨日、言っていた俺の――」
ノックもなく開け放たれた、裕介の部屋のドア。
入ってきたのは、裕介が通う学校の制服である紺が基調のブレザーと、何かの鞄を持った皐月で。その皐月に視線を送るのは、裕介の体に入っているバルドと、裕介の体の一部を舐めている、バルドの体に入っている裕介。
向こう側とこちら側の視線が交わり、ほんの僅かな時間が流れた。
「別に俺、そういうことに対して偏見とかないから。安心して、裕介」
「なっ! 何を言ってるの? 皐月に……皐月くん! 何もないよ! 何もしてないよ! 誤解だよ!」
手に持っていた荷物を床に置いて、スーッと皐月が退散していく。その姿に裕介が一生懸命に言葉を掛けたけれど、兄はもう聞く耳を持ってくれない。
パタンとしまったドアに、裕介がゆっくりとバルドの方へ振り返る。バルドは素知らぬふりをして、皐月が持ってきた荷物の方へ歩いて行った。
バルドの腕の傷は、綺麗に消えていた。
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