刺繍
ルークの誕生日が近づいてきた。
本当はヴァンで何か買おうと思っていたのだけど、結局単独行動の機会が全くなくて、何も買えていなくて。
現在の私は、半分臨時雇いの侍女扱いなので、誕生日のプレゼントなど用意する立場ではないのだけれど。今はお仕着せを着ているだけで、ほぼ何もしていないに等しい状態だ。つまり、客人扱いを受けている。ということは、当然プレゼントは用意すべきなのだ。
それに、ルークの誕生日は、普通にお祝いしたい。
ルークにはとてもお世話になっている。もちろん、私が用意できるものなんて、ルークはいつでも手に入れられるものだとは思う。魔術に関するモノですら、ルークには不要だろう。
それで、思い悩んでエリザベスに相談した結果。
エリザベスに教えてもらいながら、ハンカチに刺繍をすることになった。道具も材料もエリザベスのものなので、かなり気が引けるけれど。
学院に戻ったら、エリザベスにはきちんとお礼をしようと思う。
「やっぱり、アリサは器用ね」
「そんなことは。下絵を描いていただいたので」
ヴァンから戻ってきてから、時間があるとエリザベスと一緒に刺繍をしている。
今日は午後から雨が降ってきたから、他にやることがない。公爵夫妻とルークは、近隣に用事があるらしくて、馬車で出かけた。絶好の刺繍日和なのだ。
「でも、初めてなのに、教えることはほとんどないわ」
「繕い物はできますので」
感心するエリザベスに、私は苦笑する。
衣服は高いものだ。破れたり、ほつれたりしたりしても、つぎを当てたりして何年も着ることなんてあたりまえ。そもそも、服のほとんどは、古着だから、サイズ調整なんかも必要だ。
刺繍とは技術の方角が違うけれど、針仕事が出来ないわけではない。貴族の刺繍は教養と嗜みだが、庶民の針仕事は生きていくために必要な技術だ。
それに。ハンカチには、既に下絵を描いてもらっている。それをサテンステッチで埋めていくだけにしてもらっているから、思ったより簡単だ。
「こういうのって、多分、下絵が描けるかどうかっていうのが、一番大事なのではないかと」
絵はエリザベスに描いてもらった、マクゼガルド家の象徴である、睡蓮。緑の葉と、白い花のコントラストが美しい。
私のやっていることは、塗り絵に近い。しかも色指定までしてもらっている。
「でも、初めてって感じではないわ」
エリザベスは不思議そうに私の手元を見つめる。
「こんな上等な布に針を通すのは初めてですよ」
縫っているのは絹の布だ。糸も艶やかな色に染まった絹糸。
「お兄さまも驚くと思うわ。アリサがこんなに上手なんて」
「エリザベスさまがお上手なのですよ」
これはお世辞じゃなくて、本当にそうだと思う。そもそも、さらさらっと描いてくれた下絵がめちゃくちゃ上手い。
刺繍の素養って、やっぱり絵心だと思うんだ。私が一から刺したら、絶対に花の形とか崩れちゃう自信がある。
「アリサって、本当に凄いわ。そこで、『私って天才』って思わないのだもの」
「だって、目の前のエリザベスさまの刺繍の方が百倍素敵ですし」
私は苦笑する。
たとえ私が初心者のわりに上手かったとしても、目の前のエリザベスの刺繍のすごさと比べたら、ゴミみたいなものだ。
エリザベスの刺繍は、本当に細かくて繊細だ。エリザベスは、ハンカチではなく、儀礼用のマント。水色の美しい布地に、丁寧に刺繍された睡蓮は、本当に美しい。
「これは時間がかかっているだけよ。それに私は子供のころからやってるし」
エリザベスは首を振るけれど、そんなレベルじゃないと思う。職人さんレベルの仕事だ。
それとも、全ての貴族女性はこんなに刺繍ができるのだろうか。
「毎年、ルークさまにプレゼントなさっているのですか?」
「ええ。儀礼用のマントは初めてだけど」
刺繍とかそういう類のものって、お金だけかければいいってものじゃない。そういうプレゼントを毎年しているってことは、本当に仲の良い兄妹なのだと思う。
「ひょっとして、殿下にもプレゼントとかなさっていらっしゃいます?」
「え?」
不意を突いてしまったらしく、エリザベスの顔は真っ赤になった。うん。可愛い。
「い、一度だけ、ハンカチを贈っただけよ。その……お誕生日には、アクセサリーの類を贈ることが多くて。刺繍って、ほら、重いじゃない?」
「あの……婚約者同士で重い類のものを、私がルークさまに贈るのって駄目ですよね?」
「そ、そうじゃなくて、えっと」
エリザベスは困ったように私から目をそらした。
「刺繍のプレゼントの定番でしょ? 殿下なら他の方からたくさんいただくでしょうし」
私はグレイに同情した。
どんなに意匠の凝った刺繍をほどこしたものを何枚貰っても、エリザベスの刺繍がいらないってことはないだろう。むしろ、一枚だけもらったハンカチをずっと大事に持っている方に金貨をかけてもいい。
「殿下のお誕生日はいつなのです?」
「年の瀬よ。皇室行事が多い時期だから、大変なの」
「それなら、今年は殿下に刺繍をしたものを贈られてはどうですか?」
「え?」
エリザベスの顔はさらに赤くなる。美少女が照れるのって本当にうっとりしてしまう。
エリザベスがこんな顔するなんて、グレイは全く知らないんだろうな。ヘタレ、もといシャイ殿下は、かなり鈍感そうだから。
「刺繍じゃなくても、エリザベスさまが手をおかけになったものなら、たぶん、殿下は飛び上がって喜ばれますよ」
「……そうかしら?」
どうしてそこで疑問形になるのかわからない。
殿下はあんなにわかりやすく、エリザベスにぞっこんなのに。
「前にもお伺いいしましたが、エリザベスさまは、殿下のことをどう思われているのですか?」
「え?」
エリザベスはびっくりした顔をする。
「エリザベスさまは、幼いころから殿下との婚約が決まっていて、好きとか嫌いとか考えることすら許されなかったのは、理解しております」
二人はたぶん、お互いの感情以前に婚約が決まっていた。
グレイはエリザベスのことが好きで、はっきり自覚している。伝えられないだけで。
逆にエリザベスは、好意は確実にあるけれど、それが恋なのかはわからない状態のようにも思える。
「婚約者として良好な関係をただ保てればいいのであれば、今のままで構わないと思います。そうではなくて、もう一歩踏み込んだ関係になりたいと思われるなら、エリザベスさまの方から歩み寄られるのもいいのではないかと」
というか、エリザベスが歩み寄らないと、話が進まない気もしなくもない。
最近は変わりつつあるとはいえ、なんといっても、グレイだし。
「そうね」
エリザベスは頷いて、ふっと笑う。
「アリサは、他人のことは本当によく見えるのね」
「どういう意味ですか?」
「そういう意味よ。さあ、お兄さまの誕生日はもうすぐよ。早く仕上げてしまいましょう」
「……はい」
エリザベスに促され、私は刺繍を続ける。
エリザベスの刺繍をもらったら、グレイは泣いて喜ぶだろうけど。
私がルークに刺繍を贈っても、ルークには迷惑でしかないのではないだろうか。
ああ、でも。
きっと、ルークも他の女性からたくさんもらっているだろうから。そのうちの一つに紛れてしまうだけなのかもしれない──そう思うと、なぜだか胸がちょっと痛くなった。
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