月夜

 ヴァンの港町を出て、ニーハの街に戻るとすでに夕刻になっていた。

 正直、マクゼガルド公爵家の馬車ですら、一日乗ると身体が痛い。もっとも、辻馬車を乗り継いで、帝都まで行ったことを思えば随分と楽だ。

 茜色に染まる世界に、湖の方角から霧が立ち上ってきていた。

「すごいですね」

 馬車から降りた私は、その世界に驚く。

 五歩先が見えないような、そんな霧だ。先程まで見えていたものが、あっという間に隠されていく。

「今日はかなり濃いな」

 ルークが呟く。

「そうね。ここまで濃いのは珍しいわ」

 エリザベスも頷く。

 ひんやりとした空気で、水がとても近く感じる。濃厚な水のエーテルが辺りを渦巻いている。

「確かに、エーテルが濃いように感じますね」

「苦しくないか? アリサはあまり、水のエーテルとは縁がないだろう?」

 ルークが心配そうに私の顔を覗き込んだ。

「大丈夫です。水のエーテルの濃さがいつもと違って、ちょっと不思議な感じがしますけど」

 どちらかといえば濃度より割合に、少し違和感を覚える。

「アリサの場合、風のエーテルに敏感だから、余計そんなふうに思うだろうな」

「そうね。そもそも水のエーテルを周囲に感じることって少ないから」

 マクゼガルド家は水と光の加護を持つ。ルークは水と氷、エリザベスは、水と光。

 二人とも水とは縁が深い。

 あたりまえだけど、二人が見る世界と私の見る世界は、そういうところでも違うんだなと思う。

 ただ、加護がなくてもこの濃厚な水のエーテルは身体を作り変えてくれるような、そんな気がする。

「この霧を浴びていると、偉大な魔術師になれそうな気がします」

 身体に染みてくるような感覚は、ひょっとしたら霧の水滴で濡れているだけなのかもしれないけれど、魔力量が増えるっていう俗説を信じたくもなる。

「アリサなら、きっとなれるわ」

 くすりと、エリザベスが笑う。

「そんなのは気のせいだ。早く中に入らないと、濡れるぞ」

 ルークは呆れたらしい。

 そう言えば、ナーザントの話を聞いたときも、ルークは俗説だって言っていた。たぶんルークが正しいのだろうけれど、普通の霧ではないのは事実だ。

「アリサ、もっと濃くなると危ないわ。中に入りましょう」

 これ以上濃くなったら、何も見えなくなってしまう。

 私は慌ててエリザベスのあとを追った。



 月が出ている。綺麗な満月だ。

 夜が更けて霧は晴れた。

 私は、マクゼガルド家の別荘の庭に出て、護りの印を自分にほどこす。

 夜風が木の葉を揺らしている。庭に備え付けのテーブルと椅子は、少し湿っていた。

 ここはヴァンに比べて、水のエーテルが濃い分、風のエーテルが薄い。

 神官長に教えてもらった時ほど、うまくいっていない気がするけれど、それでも、身体にオーフェの力が巡る感じはあるので、間違ってはいないらしい。

 ただ、外にいてこの状態だと、学院に帰ってからはどこですべきか悩むところだ。室内に入ったら当然ながら風のエーテルの力は弱くなる。今のうちに少しでも上達しておかなければならない。

「アリサ?」

 声をかけられて振り返ると、手にランプを持ったルークが立っていた。

 シャツはかなりラフなものだ。何故か腰に剣を下げている。

「こんな時間に何をしている?」

 時間的にはかなり遅い。明かりも持たずに、暗い庭にいたことが不思議だったようだ。

「護りの印をほどこしていました」

「ああ、そうか」

 ルークは得心がいったらしい。

「ルークさまは?」

「俺は素振りをしようと思ってな」

 ルークは腰の剣を指さす。

「素振り?」

「ああ。剣の腕は使っていないと、すぐ錆びる」

 そう言えば、ルークは魔術だけでなく剣の腕も一流だった。

「努力なさっているのですね」

 ルークは非の打ち所がない天才に見える。でも、きっと誰よりも努力しているのだ。

「剣を鍛えるからこそ、俺は学院にいる間の自由を得ているわけだし」

 確かに影の護衛の人がいるにしろ、あれだけ自由に出歩くなら、ある程度武芸はできないと危なすぎる。

「いくら強くても、ルークさまは、ちょっと自由すぎだと思います」

「俺は別に普通だと思うが」

 ルークはとぼけるけど、どう考えても普通じゃないと思う。

 他の貴族で、ルークみたいに出歩いている人を見たことがない。

「もちろん庶民の暮らしを知らずして、上に立てないのは事実だとは思いますけれど、公爵家のみなさまは、きっとご心配だと思いますよ」

「……ユアンみたいなことを言うな」

 ルークは口をへの字に曲げた。

「でも、本当のことですし」

 私は苦笑する。

 そんなルークだからこそ、私と親しくしてくれているのだけれど。

「学院は不思議なところですよね。私とマクゼガルド家のお二人は、本来なら絶対に交わらないはずなのに、こうして良くしていただいております。そしてルークさまも、本来なら味わうことのない自由な世界を楽しんでいらっしゃる」

 月の光に照らされたアイスブルーの髪は、闇の中でも映える。

 ルークの秀麗な横顔は、まるで別世界の生き物のようだ。

 いや。

 私と彼は、本来別世界の生き物なのだ。こうして、隣に立っているのは奇跡に近い。

「ルークさまは、卒業なさったら、爵位を継がれるのですか?」

「いや、しばらくは城勤めをする予定だ」

 公爵さまはまだお若いから、ゆっくり息子に引き継いでいくのかもしれない。

「なんにせよ、ルークさまは、いずれ国母の兄君になるわけですから、くれぐれもお気をつけてくださいね」

「国母か。しかし、殿下があれほどエリザベスとうまくいくとはね」

 くすりとルークが笑う。エリザベスの誕生会での二人の仲睦まじいダンスは、社交界でかなり話題になったらしい。

「そういえば、エリザベスさまとお話したきっかけは、ルークさまのご依頼でしたね」

 二人の様子をさぐってほしいと言われたことから、私はエリザベスに思い切って話しかけに行き、そして友達になった。

 グレイが思いのほかヘタレ……ではなく、シャイだと知ったのもそのおかげだ。

「なるほど。では、やっぱりエリザベスより、俺の方がお前と付き合いは長いってことだな」

 なぜか満足げにルークは笑う。

 間違いなくそうなのだけどそんなに変わらないし、なぜそれで、ルークが嬉しそうなのかわからない。

「最初に会った時から、アリサは変わった奴だった」

「……私は平穏に暮らしたいだけなのです。ルークさまが指導係のせいで、未だに他の部員に睨まれてますし」

「そうじゃない」

 ルークは首を振った。

「覚えてないか? お前、入学式の日に始めて俺を見た時、顔面蒼白にして逃げただろう?」

「え?」

 ひょっとして、転んだ時のことだろうか。まさか、覚えていたとは思ってなかった。

「俺の前でわざと転ぶ女は結構いる。大抵は気を引こうとする奴だ。お前もそうかと思ったら、化け物を見たような顔して、逃げて行った」

「えっと。あの時は、その、公子さまを怒らせてしまったら首が飛ぶと思いまして」

 私は正直に答える。

「ご不快でしたなら謝罪しますが、ルークさま、あの時、怒っていらっしゃいましたよね?」

 向けられた視線は冷たかった。

 確かに、何もないところで突然転んだら、怪しまれて当然だとは思うけれど、あの時は何もないはずのところで、私は何かに引っかかって、転んだのだ。

 思えばあれが初めて『強制力』のようなものを感じた瞬間だった。

「今思うと悪かった。学院に入ってから、あんな感じで偶然をよそおって近寄ろうとする奴があまりにも多くて」

「……わかる気もします」

 ルークは公子で、しかも美形。さらには優等生だ。学院で何とか親しくなりたいという令嬢は数多いだろう。

 そういえば、『公爵令嬢は月に憂う』のルークは、エリザベスを溺愛していて、それ以外の女性に見向きもしていなかった。後半、見せ場はグレイに全部持ってかれていたけれど、たぶん、孤立無援の彼女を支えていたに違いない。

 現実のルークもそこまで溺愛ではないにせよ、とてもエリザベスを大切にしている。

「私も、そうだったのかもしれませんよ?」

 原作のアリサなら、チャンスとばかりにルークに近づこうとしただろう。

「その後、俺から逃げまくっているのも計算なら、アリサは怖い女だな」

 ぷっとルークは噴き出した。

 私が逃げようとしていたのは気づいていて、逃がしてくれなかったのか。

 思わずため息が出る。

 今はともかく、私は怖い女になるかもしれないのですとは、さすがに言えない。

「お前は天性の人たらしだよ」

 ルークは笑って、私の頭に手をのせた。

「人たらしは、ルークさまの方ですよ」

 私は呟く。

 いつの間にか、私はルークの優しさに甘えてしまっている。

「さて、素振りをする。見ていくか?」

「はい」

 私は頷いて、ルークから距離を置いて備え付けの椅子に腰掛ける。

 月の光の中、白刃を振り下ろすルークは、絵のように美しかった。

 

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