港町 ヴァン 5

 食事をとったあと、港に出る。

 トーマスの知り合いの漁師のニックって人に頼んで、船に乗せてもらうことになったのだ。

 ニックは、トーマスよりちょっと上くらい。いかにも海の男というふうでガタイが大きくて、肌は日に焼けている。帝都からの貴族を船に乗せるということで少し緊張しているようだ。

 ルークもエリザベスも漁船は乗ったことはないらしい。帝都は内陸だし、それに、公爵家の人間が乗るなら客船、あったとしても商船だ。

 小さい船なので、私とマクゼガルド兄妹、デニス、それに船長のニックが乗ったら、定員いっぱいって感じ。

 甲板はとても狭いし、船室もない。でも、一応、帆だけじゃなくて、魔道櫓がついている高級な漁船(トーマス談)なのだ。

「波が穏やかでよかった」

 ニックは船を進めながら、水平線を眺める。張られた帆は緩やかな風をうけている。

 特に漁をするわけじゃなくて、ちょっと沖にみえる大岩まで行くだけなのだけど、大地を離れて船に乗るだけで、大冒険に行くような気分になってしまう。

 デニスは案外、船が苦手らしく甲板の真ん中に座り込んでいる。

 海に落ちちゃいそうで怖いらしい。

「アリサ。あれは何?」

 エリザベスが指を指したのは、港から少し離れた場所にある波の少ない場所にある筏だ。

「あれは牡蠣を育てているんです」

「牡蠣?」

 エリザベスは目を丸くした。

「ヴァンは、基本漁の町ですけれど、養殖もしているんですよ、お姫さま。神官長さまが、漁師の収入の安定のためにやった方がいいって、おススメしてくださってねえ」

 ニックが説明をする。

「貝を使った細工物を作る仕事もはじめてます。こちらは、おかでできますしね」

「細工物?」

「ちょっとしたおみやげ物ですよ」

 貝は内陸部では珍しいから、綺麗な貝殻はそれだけで人気だ。

 ちょっとしたアクセサリーや置物を内職代わりに作っている人は多い。

 自然の恵みに頼る産業というのは、安定しない。そうした副職は生活を支えてくれるのだ。

「それにしても、あの神官長は何者なんだ? そんなことまで気を配っているなんて」

 ルークが首を傾げる。

「そうね。本当ならそういうことは、行政官がやるべきだわ」

 エリザベスも頷く。

「神官長さまが、地域のためにいろいろお考えになるのは、普通のことではないのですか?」

 私は他の神殿のことをまったく知らないので、よくわからない。

 ただ、地域性って言うのもあるとは思う。

 たとえばニーハのレイシアの神殿は失礼だけれど信者さんはそれほど多くないから、影響力はマクゼガルド家がバックにいるにもかかわらず小さいと思う。

 ヴァンのオーフェの神殿は、貧しくて小さな神殿だけど、漁師をはじめとする港の人たちに信仰されているから、影響力も大きい。神官長の発言力というのは、自然と大きくなるものだ。

「もちろん神殿は地域の中心で、市民のために心を砕くのは当たり前だと思う」

 振り返ると、突き出した岬の高台にあるオーフェの神殿が見えた。

「ただ、それは普通、健康のことだったり、神にまつわる『力』のことだったりするわけだ。もちろん、学問を教えたりということはあると思う。だが、地域産業まではなかなか手が回らないものだ」

 私はニックと顔を見合わせる。

 私たちにとっては当たり前のことは、ひょっとしたら当たり前ではないのだろうか。

「神官長さまは、もともとは貴族だったとうかがっております。おそらく、行政のお仕事などもされたことがあるのかもしれません」

 正直言って、私は神官長のことは知っているようで何も知らない。

 かなり優秀な人だと思うけれど、こんな田舎町の神殿にやってきたのは、どんな経緯があったのかよくわからない。もちろんヴァンは田舎町とはいえ、皇帝の直轄領だし、オーフェの信者がとても多い土地柄なので、優秀な神官が配置されてもおかしくはないのだけれど。

「タナール神官長さまは、おそらく、ファルゴ伯爵家の弟ぎみではないかと思われます」

 ずっと黙っていたデニスが口を開いた。

「伯爵家の?」

「あくまで推測の範囲ですが、ファルゴ伯爵とよく似ていらっしゃいますし、年齢も同じくらいかと」

 デニスは記憶をたどるように頬に手を当てる。

「神官になって、ご実家と縁を切られたという噂がありましたし、多分間違いないかと」

 デニスの話によると、ファルゴ家ではちょっとしたお家騒動があったらしい。兄弟はとても仲が良かったけれど、長男より次男のが優秀だった。次男の方を跡継ぎにしたいという親の思惑を嫌って、次男は家を出て神官になってしまったらしい。もちろん、神官になったからと言って、普通は縁切りまではしないものだけれど。

「なるほど。ファルゴ家の人間なら、魔術はもちろん、学問などを収めていても少しも不思議はない」

 ルークは頷く。

 ファルゴ家っていうのは古い名門の家で、優れた文官の多い一族だそうだ。

 もちろん、魔術に関しても優秀で、今の伯爵の妹は、軍の魔術師を務めている。

「どういったいきさつか知らないが、きっと複雑な事情があるのだろうな」

 私はあらためて、オーフェの神殿をみつめる。

 もし、私を拾ってくれたのが神官長でなかったとしたら、私の人生は全く別のものだったに違いない。学院に入学できたのは、神官長が勉強を教えてくれたからだ。

 それに。

 神官長の話を思い出す。私は、ファナンでニギリアの教団に攫われたらしい。

 もし、そのあとニギリアの刻印が残ったままだったなら、私の人生は全く違うものになっただろう。たとえ、一時は助かったとしても、ここまで生きながらえていなかったかもしれない。

「私は、とても運がいいのかもしれないです」

 誰にともなく、私は呟く。

 国広理沙の記憶があることも含めて、自分で運を切り開くものをたくさんの人からもらえている。

「私もとても運がいいわよ。だって、アリサと会っていなかったら、こんな景色を見ることもできなかったから」

 エリザベスは私の手を握り、反対の手で広がる海原を指さす。

 青い空にどこまでも広がる水平線。やわらかな潮風が頬を撫でる。

 ああ、本当だ。見慣れていたはずの景色の素晴らしさも、ここを離れていたからこそわかる。

「そうだな」

 太陽の光が目に入ったのだろうか。ルークは少し眩しそうに目を伏せる。

「アリサには運を手繰りよせる力があると思う」

「……だと嬉しいです」

 運命を変えていく力が欲しい。自分だけでなく、周囲を不幸にしないそんな力が欲しいと思う。

 ルークは舳先に立ち、私たちに背を向けた。

「少なくとも、俺の人生は変わった」

 聞こえたその呟きは、強い海風の音による錯覚だろうか。

 もし、ルークが私と出会い人生が変わったと思っているなら──いい方に変わっていて欲しいと思った。

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