ニーハの別荘 3

 なんだろう。

 あの舟が怖い。

 人がのっているのはわかるけど、誰、とか判別がつくわけじゃない。

 それなのに、気配が怖い。

「どうした、アリサ?」

「アリサ、顔が真っ青よ?」

 二人が心配げに私の顔を覗き込む。

「な、何でもないです」

 私は慌てて首を振る。

 深呼吸をして、意識を舟から逸らそうとした。

 膝が震える。背中に冷たい汗が流れていく。

 自分でも何が何だかわからない。ただの舟。それもなんの変哲もない舟だ。

 恐怖を感じているのは、私だけ。つまりマクゼガルド兄妹にとっては、何でもない光景なのに、どうして私はこんなに怖いと思うのだろう。

「中へ入って休もう。歩けるか?」

「だ、大丈夫です」

 言いつつも、膝に力が入らない。

 冷たい何かが私を見ている。

 怖い。胸がギュッと痛くなってくる。

 ふわっと身体が浮いた。

「無理するな」

 温かい体温。

 ルークに抱き上げられたのだと気づく。

「お兄さま、こちらへ」

 エリザベスが扉を開いて、中に入るように促した。

 何も怖いことはないはずなのに、身体が震え、私はルークにしがみつく。

 神殿の中に入り、扉が閉まると、ぞくぞくとする感覚がやっとおさまる。

「もう……大丈夫です」

「いや、休めるところまで行こう」

「そうね。そのほうがいいわ」

 自分が思っているよりも、酷い状況なのかもしれない。

 エリザベスもルークも何も言わず、私はそのまま礼拝堂へと運ばれた。

「身体がとても冷えている。待っていろ。エリザベス、そばにいてやれ」

 ルークは礼拝堂の椅子に私を座らせると、グリックを呼びに行った。

「本当に冷たい。水でも浴びたみたいだわ」

 エリザベスが私を抱き寄せて私の背を撫でてくれた。

 エリザベスの手がとても温かい。

「すみません」

「謝らないで。落ち着く方が大事よ。震えはだいぶ止まったみたいだけれど」

「もう……平気です」

 私はゆっくり呼吸を整える。

 心臓はだいぶ落ち着いた。

 一人だったら、倒れてしまっていたかもしれないけれど。

 身体をゆっくり血が巡っていくのを感じる。

「今、温かいお茶を用意してもらってる」

 ルークが戻ってくると、私の身体に毛布を巻き付けた。

「ありがとうございます」

「ふむ。だいぶ顔色が良くなってきた」

「そうね。さっきは真っ青だったもの」

 エリザベスもホッとしたように微笑む。

「お茶をお入れしました」

 お盆にカップをのせて、グリックがやってきた。

「どうぞ、お飲みください」

「ありがとうございます」

 私はカップを受け取った。

 温かい。

 今は夏。寒い時期では全然ないのに、お茶の温かさが体に染みていく。

「ん?」

 グリックは私の顔を見て、怪訝な顔をした。

「おかしいですね」

「どうした?」

「呪いのようなものを僅かに感じます」

 グリックは私の額に手を置いて、神への祈りの言葉をつぶやく。

 すると、身体が急に楽になった。

「どうですか?」

「はい。だいぶ楽になりました」

「良かった。あなたなら、自力で浄化させることもできたでしょうけれど」

 グリックはほっとしたように微笑んだ。

「何があったの? グリックさん」

 エリザベスが首をかしげる。

「呪いって聞こえたが?」

「先ほどは感じなかったので、この短時間でのことでしょうが。体調不良は呪いのせいと思われます」

「でも、私たち、誰にも会っていないわ」

 そもそも普通、神殿の敷地なんかで呪われることはないものだ。

 グリックは首をひねる。

「あなたは誰かに呪われているのかもしれません」

「私がですか?」

 何のために、と思う。

 私が生きようが死のうが、それで誰かの人生が変わるものではない。

「同じ場所にいたルークさまたちに何もなく、かつ二人が気づかれなかったとなれば、それは魔術というより呪いでしょう」

「待って。どうしてアリサが呪われるの?」

 エリザベスが驚きの声をあげる。

「恨みつらみというより、刻印のようなものだと思います」

「そうだな。本当の呪いなら、こんな短時間で回復は難しいだろうな」

 少なくてもクリックが気づくまで、回復は難しかったのではないかとルークは指摘する。少なくともグリックが

「一つ考えられるとしたら、『邪神の刻印』です」

 グリックは重々しく告げた。

「邪神って、暗黒神ニギリアがアリサに何かしたの?」

「さすがに暗黒神そのものが動いたら、誰もが気づきますし、彼女の力でも抵抗はできないでしょう。おそらくは、その信者ではないかと思います」

「暗黒神ニギリア」

 私はその名を呟く。

 それは、原作の私が仕えた神。エリザベスを贄にして捧げようとした神の名だ。

「ひとつ考えられることは、彼女はオーフェのいとし子。つまりはオーフェの巫女です。暗黒神への贄に彼女ほどふさわしい人はいない」

「贄って、そんな」

「刻印を受けた人間は、いざという時、抵抗できなくなると聞いています。とりあえず、今は消えましたが、何度も受ければ次第に身体になじんでしまう」

「どうすればいい?」

 ルークがグリックに尋ねる。

「護りの印を神官がほどこすしかないでしょう。刻印を跳ね返せるように。ただ、彼女の場合は私では無理です」

「オーフェの神官でないと無理ということか」

「そういうことです」

 グリックは静かに頷いた。

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