2章 遭遇

 彼女から手紙が来たその日から、イシルの日課は1つ増えた。

 夜が明ける前に起き出して、沐浴をする。その後聖堂にて祈りを捧げる。最近は、自問自答に近くなっている。

 祈りの後、新たに神官長夫妻の部屋へ行くようになった。

 2人を起こし、窓の外に悠然と佇む手紙がないかを確かめる。それから、広大なハーヴェイ大聖堂の掃除へ取りかかる。

 新たに増えたこの日課は、万が一他の神官、修道女たちにそれが見つからぬため。だが、イシルの心の底からの声は言う。それは建前だろう? と。

 わかっていた。

 彼女の存在を独占したい。彼女の生存を誰にも知られたくない。

 自分が、そんな気持ちのためだけに同僚たちに黙っていることくらい。

 だが、その事は抱えておくにはあまりにも重かった。ふと気付けば聖堂に跪き、どうすればよいのかと答える者もなき問いをただひたすらに投げ掛けている。

 イシルたちが信ずる光の神は彼女に慈悲をもたらさず。

 彼女に手を差し伸べたのは光の対極にある、闇の女神。

 信じる者が救われぬ、その悲惨にイシルは度々苦しめられた。

 神をただ信じなければならない彼が、神を疑いそうになる。

 それでも彼は慈愛に溢れた笑顔の仮面を張り付け人々に説くのだ。

 光の神の、救済を。

 己を低く嘲笑ったところで、イシルは掃除の手を止めた。どうしてか呼ばれたような気がしたのだ。

 空耳だろうと掃除を再開した刹那。何か圧倒的な存在が、自分を「見ている」と感じた。

 訳もわからぬ後ろめたさを覚えたイシルが聖堂を立ち去ろうとしたとき。

 身体に熱が走った。

 イシルはこの感覚に覚えがあった。過去数度、経験したことがあるからだ。

 ぐらぐらと視界が揺れる。触れる手の感覚は頼りなく、身体に力は入らない。

 どうして今の私に新たな法術を授けるのですか、神よ。

 そんな不敬な思考を最後に、イシルはその場に崩れ落ちた。

 その後2日間、イシルは起き上がることが出来なかった。神より賜った法術が身体に馴染む過程の発熱で。

 ようやく起きられるようになったイシルは、まだだるさの抜けきれない身体に鞭打って筆を取った。

 送り主の名はエヒト・ハーヴェイ。イシルと同じ孤児院で育った、無二の親友であった。

 もはや癖のような几帳面さで便箋と封筒を選び、ペンを取って少し迷って書き付けたことは数少なく。

 時候の挨拶と、久し振りに会おうということ。

 ただ、それだけだった。

 いや。

 ただそれだけしか、書けなかった。

 下働きの男に手紙を託し、イシルは椅子に半ば崩れ落ちた。

 友への僅かばかりの罪悪感と、今だ戻らぬ体力を原因として。

「悪い、エヒト。おれは、1人で抱えられそうもない・・・。」

 返事が来たのはその日の夕方。

 次の休みの日程と待ち合わせ場所が彼特有の少し汚い字で刻まれていた。律儀なやつだとイシルは久し振りに、心の底からの笑みを浮かべた。

◇ ◆ ◇ ◆

 世界のどこかの、大図書館のような場所。

 その中央の大きなテーブルで、ジャッジメントはいつものように本を開いていた。

 くすんだ金縁の片眼鏡の奥にある鮮やかな赤い瞳は相変わらず、ここではないどこかに焦点を結んでいた。

 彼女の側には緩く香気と湯気とを揺らめかすティーカップがいつの間にか置いてあり、細やかな気遣いにほんのわずか、頬を弛めた。

 一口、口に含んで頁を繰る。

 だが、ジャッジメントはすぐに顔を上げた。

 ジャッジメントの焦点合わぬ瞳が向くその先。ふわりと現れたるは、周囲の光を喰らう闇色のひかり。

 手を差し伸べ、ジャッジメントは声無きソレの声に耳を傾けた。

「そう、ありがとう。」

 またしてもふわりと闇色のひかりは消え、それと同時にいつの間にか4つの人影が現れていた。

「ジャッジメントお姉様。」

「エンド、オーディアル、セイヴ、プリエール。気付いたのね。」

 無垢な小鳥のように、エンドは首を傾げて見せた。感情のない翡翠の瞳を、真っ直ぐ姉に向けたまま。

「何があったのですか? 私たちは闇の精霊がここに来たということしか。」

「歪みが生まれそうだと、伝えに来たのよ。」

 ぱたんと書物は閉じられて、深紅の瞳はようやく、この空間に焦点を結んだ。

「審判は下ったわ。」

 何てことない世間話を話すような唐突さにも関わらず、その声は神々しく厳かで。

「悪しき者たちに、悔い改めの、絶望を。」

 どこか、比べようもないほどの悲しみに満ちていた。

「プリエール。オーディアルに扉を開けてあげて。今回は、セイヴはいいわ。」

「かしこまりました。」

 非の打ち所なく美しいお辞儀で揺れた、プリエールの首にかかる革紐。その先にくくりつけられた物を、プリエールはぎゅっと握り締めた。

「『黒の仔』たちには私から伝えておくわ。」

「わかったわ、姉様。───いってきます。」

「いってらっしゃい、オーディアルお姉様。」

 人形の無表情で、それでも精一杯に心を込めてその手を振る妹に軽く手を振って。

 オーディアルは銀髪の後ろ姿についていく。

 背の高い書架をくぐり抜ければ突然にそこに姿を現す、大扉。

 プリエールの胸元から引っ張り出された鍵が、がちりと差し込まれ扉を開かせた。

「いってらっしゃいませ、オーディアル様。」

「それじゃあ少し、いってきます。」

 オーディアルは扉の向こうに口を開けていた無明の闇へと足を踏み入れ、それに紛れて、見えなくなった。

◇ ◆ ◇ ◆

 ハーヴェイ大聖堂もある、王都。

 そこは、さまざまな人、感情、陰謀、幸福が集うこの国最大の善と悪の坩堝。

 塵1つない表通りから1つ2つと道を外れてしまえばもうそこは鼠と悪とが支配するもう1つの都。

 そこに、1人の少女が歩いていた。

 胸辺りまで伸びた底無しの黒い髪。そして、この場所では滅多とお目にかかれぬきちんとした仕立ての、刺繍入りのワンピースを着ていた。

 道端の貧民たちは獲物が来たぞと幾人かが動こうとするも、微笑みさえ浮かぶその表情とは対照的に過ぎる昏い群青の瞳に映った瞬間に、すごすごと引き下がってしまう。

 そうして、奇妙な空白地帯を歩く少女の後ろには、いつの間にか、闇から滲み出したような人々が付いてきていた。

「こんにちは。」

 一切迷うこともなく、王都の汚物の都を歩く少女──オーディアルはある一角で足を止め、そこにいたモノと男たちにそう、声をかけた。

「ああん? 誰だてめぇ。」

「貴族のお嬢ちゃまじゃねーの?」

「おー、そうかそうか。おーしおしおしこっちおいで~。おじちゃんたちがイイコト教えてあげまちゅよ~。」

 下卑た笑いを浮かべ、女だったモノから興味をオーディアルに移したらしい男たちが彼女に歩み寄る。

 オーディアルは淡々と告げる。それが彼女の義務だったから。

「裁きは下された。」

 ゆらりゆらりと闇を引き摺るローブの人々が男たちの退路を塞ぐ。

「おい、こいつら、どうなって───」

「試練の使徒、オーディアルが下す。罪深き汝らに、悔い改めの、絶望を。」

 歌うような声と共に、風もないのに底無しの黒髪がふわ、と広がった。

 夜の帳を広げるかのようなその中心、白皙の面に存在ある2つの昏い青の瞳。

 男たちはそれを見て───

 悲鳴を上げて、倒れ伏した。

 蛆虫のように地面を這い、年甲斐もなく涙を流し、彼らは頭を抱え、悲鳴をさらに高く低く上げ続ける。

 それを、道に転がる塵芥を見る目と寸分違わぬ目で見ていたオーディアルに、音もなく進み出た闇のローブを纏った人物が声をかけた。

「オーディアル様。後は、わたくしどもにお任せを。」

「そう? じゃあ、お願いね。」

 オーディアルはあっさりと、異様なほどに淡白に身を翻し、世界のどこかの、妹や姉の待つ場所に帰っていった。

 平伏していた闇のローブを纏う人々は、大理石のように人間離れして白い冷たい手で泣き騒ぐ男たちを縛り、軽々と持ち上げた。

 彼らの言葉を交わすこと無き統率の取れた動きは、ヒトではない何か別のイキモノのようだった。

 人にはあり得ぬするするとした動きで黒いローブの人々は表通りに出る。

 人々が自分達の姿を見て慌てて道を開けることを幸いと、自律して蠢く影のような人々はこの都で2番目に壮麗な建物へと向かって行った。

 白亜のそれを、汚すかのように。

「咎人を引き渡しに来た。取り次ぎを。」

 『黒の仔』と呼ばれる彼らの訪れに、大聖堂がざわめいた。

◇ ◆ ◇ ◆

 イシルはため息を堪えつつ、廊下を足早に歩いていた。本音を言えばすぐさま部屋に戻って書物でも読み耽りたいところだがそういうわけにもいかない。ほぼ義務感だけで歩いている状態だった。

「あ、あのイシル様。」

「何だ。」

「彼らは、一体何者なのでしょうか・・・。」

 イシル自身も、彼らが本当にそう・・なのかについてはいささか怪しく思っているが。

「闇の女神を信仰する、『黒の仔』と呼ばれる人間たち・・・のはずだ。」

 話しているうちに、扉はもう目前。

 心の中で盛大に悪態を。顔は厳しく引き締めて。

 イシルは扉を押し開く。

 その先には、「闇」がいた。

 地面にずるりと引き摺る闇色のローブ。袖から覗く、奇妙に血の気のない大理石じみた手。それらは様々な体格をしながらも、どこか同化した1つの存在として見えた。

 扉が開く音に反応してか、それら・・・が顔を上げる。こちらを振り向く亡霊のような不吉にゆっくりとした動きで。

 ひっ、と後ろで小さく息を飲んだ声がちらほら聞こえた。

 それら・・・には、顔がなかった。

 正確にいえば仮面を被っているのだろう。だが、その下に各々別の顔を持っていることが信じられなかった。

 これを初めて見た者は必ず思うのだ。もしもあの仮面が外されたら。そこには、無限の奈落が広がっているのではないか──と。

 ぬるり、とかたまりの中から1つが分離する。

 鳥のような尖った嘴を持つ仮面をしている。その仮面は目元のみ。口元の、薄い唇が動く。

「待ちわびたぞ、光の者よ。」

 声からして、女だろうか。性別がわからない。

「我らが主の眷族がご降臨され、裁きを下された。もうこやつらに用はない。咎人どもは任せる。」

 「闇」に相対するイシルの耳に、今、初めてその声が聞こえた。

「あ、ひぃいやだいやだイヤだイやだいやダいやだいやだいやだイヤダいやだいやダイやだいヤだいやだイやだいやだいやだいやだいやだいやだ・・・・・」「あ、あは、は、ははははははははは、はははははははははははははははははははははははははは」「ごめんなさいゆるしてゆるして、ママ、もうしないからゆるして」「お前は、なんで、やめろ来るな来るなああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぉぁぁあ!!!!!」

 闇から吐き出されたその男たちの様を見て、イシルの心は耳を閉ざした。体は勝手に、動いていた。

「何を、した・・・!」

 胸倉を掴み上げられた「闇」は、確かにここに存在するものだったのだと、神官見習い、修道女たちは茫然と認識した。

「知れたこと。」

 『黒の仔』の1人であるそれは、薄く白い唇に陶然とした色を載せて、対極にある存在たるイシルに告げた。

「こやつらは、やってはならぬことをした。それを、あのお方が裁いた。ただ、それだけのこと。」

「人のことは人が裁く! それが世界に敷かれた法だろう!」

「この者どもは、人に裁けぬ。・・・案ずるな、光の者よ。」

 憐れみの気配すらも漂わせて、大理石の手がイシルの手に絡む。

「あのお方が、試練の使徒たるオーディアル様が下した罰は『悔い改めの絶望』・・・もしもこやつらに善の心があるならば、いずれ戻って来るだろう。」

 突然、大理石の手が強く強く、イシルの手首を握り締めた。

「っ!!」

「我らはこれからも従い続ける。闇より来る、あの方々を。」

 冷たい吐息がイシルの耳を撫でた。まさしくそれは、闇からの愛撫に等しくて。

「我らは黒の仔。闇に救済されし者。」

「おまえとおなじだ。光に救済されし者よ。」

 イシルの手から、力が抜けた。

 『黒の仔』たちは、来たときと全く同じ不吉さで去っていく。

 イシルの手首には、青黒く腐ったような、手のかたちをした痣だけが残された。

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