##28 アリシアちゃん
お散歩の時間は、何時間も経過したようにも、一瞬だったようにも感じる。今現在、私たちは森の中をあてもなくさまよっている。見たことない花と戯れたり、綺麗な蝶々を追いかけたりしているからそこまで苦ではない。
私の精神も幼児退行しているような……いやいや、気にしたら負けだ。
「見て見てミドリちゃん! クマさんだよ!」
「ほんとですねー」
クマはクマでも、ホッキョクグマっぽいクマだけど。おまけにこちらを見てヨダレを垂らしているけど。
「アリシアちゃんあぶ――」
「へ?」
「はむ」
クマがアリシアちゃんの頭をくちにくわえてしまった。今の私の動体視力では追い切れなかった。
「あわわわ……どど、どうすれば!?」
「むー、ぺっ」
「うぅ……べとべと…………」
アリシアちゃんの頭がクマの唾液でびちょびちょになっている。ただ口にくわえただけだったから怪我も無いようだ。それだけは本当に良かった。
ホッとしているのも束の間――
「はむ、ぺっ」
私も頭が唾液だらけになってしまった。
「――こなくそ! よくもやってくれましたね!」
「ぴー!」
クマは奇声を上げながらものすごいスピードで逃げた。
あいつ絶対許さない。次会ったら熊肉にしてBBQしてやる。
「あはははっ! 2人ともびちょびちょだよ!」
「ですね……」
とても楽しそうな笑顔。ガッツリ食べられかけたというのに、なかなかタフな子だ。
「あ! 見て見て、おうちがあるよ!」
「あれ? さっきまであんな所に家なんてありました?」
木々の隙間の奥に、小屋があった。
不自然に小綺麗なのを除けば渡りに船である。
「ミドリちゃん行くよー!」
「はいはーい。待ってくださーい」
アリシアちゃんは楽しそうに駆け出しながらも、私の方をチラチラ振り返って着いてきているか確認している。私はその様子をのんびり歩きながら眺める。
なんて平和な光景なのだろう。クマの唾液さえ無ければ完璧だった。
私たちが小屋に着くと、小屋はなぜか突然揺れ始めた。
何の警戒もしていないアリシアちゃんは正面のドアを開けようとしているが開かないみたいだ。私が試しに強行突破しようと考えていると、視界の端で何かが動いた。
「あれ、今――」
――扉の横の窓越しに、巨大な眼球が見えてしまった。
「ひゅっ!?」
「んぅ? どうしたの?」
「い、いいいいい今、ままま窓に目が! 目があって!」
「おめめ? 無いよ?」
「え?」
閉じていた目を開いてみると、窓はカーテンで中が見えなくなっていた。
「ッスー……アリシアちゃん、ちょっとこのお家はやめときません?」
「?」
「いや、たぶん何か怖い人がいるかもしれませんから」
「そうなの?」
「ワシの家に何かご用でございますか?」
「ヒィッ!? すみませんなんでもないです失礼しました!」
「あれー、ここってトムロックおじいちゃんのおうちなの?」
走って逃げようとする私の腕を掴んで引き止めるアリシアちゃんは、ここの住人に元気に挨拶をしている。私が弱体化されてるとはいえ、意外と力持ちだ。
「うぅ、アリシアちゃんのお知り合いで――ん?」
アリシアちゃんの背中から恐る恐る住人の姿を見る。私は声色からご年配の方だと想像していたが違った。
なんと、本なのだ。年季の入った、装丁の整った高級感のある本である。
「本が喋った!?」
……よく考えたら色々と今更かも。
夢でも見ているのだろうか?
うっ、何か幼女になっている影響か難しいことを長く考えられない。
「アリシア様。そちらの子はどちらの――ああ、失礼いたしました。ワシはトムロックと申します。アリシア様の執事でございます」
「ご丁寧にどうも。私はミドリです。えーっと、トムロックさんは何で本なんですか?」
「もー、何言ってるのミドリちゃん。トムロックおじいちゃんは本が好きなのよ。だから本なの!」
「左様でございます」
「は、い?」
アリシアちゃんは笑顔で私の方を見ている。何も変なことは言っていない様子で。
私は気味が悪くなってジリジリと後ずさる。
――いや待てよ?
トムロックさんが本を好きで本になっているのなら、私が幼女を好きで幼女になっているのも説明がつく。このフワフワ空間ではそれが普通なのかもしれない。
よかったよかった。ホラーなんてなかったんだ。あの巨大な目は……見間違いってことでいいや。もう考えるのも疲れる。やはり子どもの体は頭を使うと眠くなってしまうのだ。
「そうだ、トムロックおじいちゃん! お散歩で楽しいところを教えてくれない?」
「ええ、もちろんですとも。といってもやはり自然が多いので小さな町しかございませんが」
「おー、助かりますね」
「まち! 楽しみだねー!」
何にせよ、色々と探らないといけないことが多い上に着手の仕方が不明なのだ。手当り次第帰る手段を見つけないと。
たとえ何となく察したことがあっても、今ここでどうこうできる訳でもないのだ。中途半端が一番良くないからね。
◇ ◇ ◇ ◇
トムロックさんの案内のもと、私とアリシアちゃんは小さな町に到着した。
町の住人が色んな物であるのを無視すればごく普通の町。そこには心安らぐ喧騒があった。
「まち、初めて来た! 人いっぱいだね!」
「いっぱいですねー」
ルンルンと効果音が聞こえてきそうな足どりで町を歩く。
そして今気付いたのだけど、クマに食べられてついた唾液が綺麗さっぱり無くなっていた。乾いたというより、不要だから無かったことになったような感じだ。
「ミドリちゃん、あのおっきいのまで競走ね!」
「風車までですね。望むところです」
「よーいどん!」
「あ! ズルいですよ!」
小さな体で必死に足を動かして走る。体格差はないから運動神経で勝敗は決まるだろう。ならば負ける道理は無い。
――数分後。
「ひぃ……はぁぁ、負け、ました」
「やったー! わたしの勝ちー!」
純粋に私の体力が持たなかった。
普通に悔しい。
「ねえねえミドリちゃん、ふうしゃのてっぺん行けないの?」
「うーん……この風車は中に入れるやつでもないですし難しいと思いますよ」
「えー! やだっ、一緒にお空の近くに行きたい!」
「と言われましても…………まあやってみますか。アリシアちゃん、私の背中にしがみついてくれます?」
「おんぶ?」
「そうです。両手両足でしっかりつかまってくださいね」
アリシアちゃんが私の背中にガッシリとしがみついたのを確認し、私はタイミングを待った。
風車の羽が地面に近付いたところで、私はジャンプした。
アリシアちゃんと同じように、私は風車の羽にしがみついた。私たち幼女二人分では回転は止まらず、そのまま上へ向かっていく。
「あはははっ! すごいすごい!」
「うぎぎっ……それはよかった…………」
アリシアちゃんは楽しそうに遠くなっていく地上を眺めているようだ。私はしがみつくのが精一杯でそんな余裕は無い。フィジカルよわよわになっているのが本当に辛い。
「そいっと!」
「わぁー! あはは、楽しいねー!」
上に上がりきったタイミングで屋根に飛び移った。息を切らしながら私は空からの景色を目にして――
「……待ってください。なんで地上が海になってるんですか。こわ」
「キレイだね!」
「……ですねー」
「あははっ! 海も入りたいね!」
「そうですね。海は危ないけど楽しい所ですからね」
もうなんでもありだと割り切った方が楽そうだ。ここでは、目を離した隙に風車の真下が海になることだってあるのだろう。
「うん! 海入ろっ!」
「もう少しこの景色眺めてからにしません? まだ私の体力が回復してないんですよ」
「そっか……無理させてごめんね?」
「いえいえ、無理はしてませんよ。私も久しぶりに童心に戻れて楽しいです」
ここか最近真面目に頑張り過ぎていたから、これくらい脳死で楽しむのも悪くない。
しばらく風車の上から広大な水面を眺める。
ふと、アリシアちゃんが口を開いた。
「ミドリちゃんは高いところ好きなの?」
「はい。とっても」
「そっかー。わたしはあんまりかな」
「そうなんですか?」
「うん。だって高いとね、みんなが遠いの。楽しそうに笑っててもずーっと見てるだけだもん」
「たしかに……そうかもしれませんね」
彼女の言う「高い」はおそらく壁に覆われた窓越しの景色なのだろう。そして私の想像していたのは空高くのこと。きっと出てくるイメージには人生経験が混ざってくる。
つまり、アリシアちゃんはそういう景色を見てきて退屈を感じていたのかもしれない。
「ところで、アリシアちゃんは空を飛んだことありますか?」
「お空を飛ぶ? そんなことできないよー?」
「そうですね、人間には翼が無いですから。でも、似た感覚になれる方法があるんですよ」
「あるの!?」
「ありますよ。手を繋いでくれます?」
「うん!」
小さな手を繋いで、私は風車の上から飛び降りた。真下は海でも、この高さから落下しては間違いなくただじゃ済まないだろう。しかし、この不思議空間なら大丈夫だと確信していたのだ。
空を切って、全身に風を浴びる。
今この瞬間だけは重力しか干渉することはできない。際限のない自由な瞬間を二人で味わう。
「わーーー! あははははっ!」
「ふふっ!」
真っ逆さまに落下し、もふもふの何かに着地した。
「もふもふだぁ!」
「雲が助けてくれたみたいですね。なかなか気の利く雲じゃないですか」
滅多に乗れない雲の上で跳ねて遊び始めると、スッと雲は消えてしまった。バシャッと海に入ってしまう。
「ばほぼほぼぉおおお!? ごほっ、ぷはぁ……」
「あははばばっ! ふぅ、もー、びちょびちょだよ!」
アリシアちゃんが顔の水を払うようにブンブンと頭を振る。飛沫がこっちにかかってきたのでお返しに私もブンブンし返す。
「わあっ! やめてよー!」
「そっちこそ!」
やったなーとお互い水をかけ合う。
無邪気な水遊びがこんなに楽しいと思ったのはいつぶりだろう。いつまでも子どもでいたかったなー。
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