雷鳴に耳を澄ませて

 鈍色の視界の隅を、ちかりと光が閃いた。遠雷だ。雨が私の傘を叩く音、私が水溜りを踏む音、車が水溜りを滑る音。それらのほんの切れ間から、微かに雷鳴が私の鼓膜に届いた。

 サンビャクヨンジューカケルビョー。

 その言葉もふと思い起こされて、微かに私の鼓膜の内側に響いた。

「サンビャクヨンジューカケルビョー」

 私はそう呟くと、歩みを止めて、スマートフォンの電卓アプリを起動した。それから画面に『340』と『×』を打って、先ほど稲光りを見せた方を見て、次の光を待った。

 そんな私に反して、雷はなかなか姿を見せなかった。雨が私をざあざあ笑った。

 私はもう一度呟いた。サンビャクヨンジューカケルビョー。


 私の両親は共働きで、どちらも仕事が夜までかかるので、私は学童保育所に預けられた。小学校が終わると、私は仲の良い同級たちとぞろぞろ学童に行き、そのあと外で目一杯遊ぶのだ。そんな私達にとって、1番の敵は雨だった。

 ある日、私たちが学童の庭にドッジボールの為の線を引いている所を、ゲリラ豪雨が襲った。最初こそ雷に喜んでいた私たちだったが、すぐに飽きて、ドッジボールを台無しにされたことを思い出して意気消沈して、窓の外を眺めていた。私は未だ外を眺めた彼らから離れて、何となく本棚の本を漁った。普段本など読まない私が、たまたまその本の、最初に見開いたページを見つけたのは奇跡と言ってよかった。

 そこには雷光と雷鳴から雷までの距離を割り出す計算式が載っていた。光速と音速の速さの違いを利用した方法で、340に雷光が閃いてから雷鳴が届くまでの時間をかけると雷まで何メートルかわかった。

 私はその本を持って彼らの元に走り寄った。そして、筆箱と自由帳を持ってくると雷が光ってからの秒数を大きな声で数え始めた。

 いーち、にーい、さーん──

 子供たちは面白いことに貪欲だった。次第に私だけの掛け声はひとり、またひとりと増えていった。

 サンビャクヨンジューカケルビョー。

 ビョーというのは秒のことだ。カウントした数をこのビョーの前に補填することで式は完成する。私たちは、雷光を待つ間永遠にこの公式を唱え続けていた。まるで壊れたおもちゃか九官鳥のように。そうしていざ光を認めるとまた、いーち、にーい...と数え出す。

 当時私たちは桁の大きな掛け算は出来なかったが、電卓の使い方を学童の先生に教わったおかげでなんとかその数値を割り出すことができた。

 百以降、例えば千とか、とくに千と百の混合したようなのは、私たちは言い表せなかった。ただ、電卓の答えが多いか少ないかを桁数で判断して、口々に、

「これはちかいぞ」「これはとおいぞ」なんて適当に言ったのだった。

 そのうち誰かが学童の壁にあった地図を剥がしてきて、雷の落ちた場所をなんとなくで書き込んでいった。もちろん計算は都度おこなっていたが、方角は何となくわかっても大きい数か分からないので、遠近の二元論しか持たず、でたらめな場所にマークをつけていった。後にそれが学童の先生に見つかって大目玉をくらうのは言うまでもない。


 ぴかり、遠くの空を稲妻が裂いた。回想に耽っていた私ははっとして、カウントを始めた。

「いーち、にーい、さーん、しーい、ごーお、ろーく、な...あ、聞こえた」

 いつの間にか水滴のついたスマホの画面を服で拭って、『7』と『=』を打ち込むと、すかさず『2,380』と表示される。2380というのはメートルだから、だいたい2.4キロか。スマホの電卓にはカンマが付いているので、四捨五入して即座に求められた。しかし、千の桁がわからず、カンマもないアナログ式の電卓では、低学年生にはすこし難しい。初めからキロで表してやれば良いのだ。

 私は呟いて、ふふ、と笑って呟いた。

 レーテンサンヨンカケルビョー。

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