空は何で出来ているか

 搭乗口の前にできた人だかりが崩れ始めた。バーコードを機械が読み取ったことを知らせる電子音、誘導アナウンス、足音、キャリーバックを引きずる音。そんな喧騒の一つ一つから、旅の前の浮き足立つ感じがした。これから彼らは世界各地へ飛んでいくのだろう。その期待と、ほんの少しの緊張がその空間に立ち込めて、それらの所以たる飛行機に吸い込まれていく。女性の案内人たちはそれを気品と完成された姿勢を携えて、笑顔で見送る。

 ガラス張りの壁から見える外は、冗談みたいな快晴だった。雲ひとつない空はひたすらに純粋だった。飛行機というものは、そこに飛び立ち、その神聖さを少しも欠けさせることなく同化する。夜は瞬く星たちのひとつようであり、昼は白く太陽の光を反射する月のようでもある。

 そんなことを考えながら、私はぼうっと人のかたまりが小さくなっていくのを見ていたが、声をかけられ、その視界を遮られ、はっとした。目の前の男性客はサンドウィッチを私の前に放り投げて、財布の小銭入れをがちゃがちゃかき回して覗き込んだあと、千円札を取り出して百人一首でもするかのようにレジカウンターに置いた。私は機械を操作して、釣り銭の金額を伝える。その間に客はバッグに商品を詰めている。

 お釣りを数え、左の手のひらにそれを一枚ずつ置いていく。無心でそれをこなす。私はレジの機能の延長に化身したような無機質な錯覚に陥る。集まったレシートを右手で機械からちぎり取り、そのまま右の手のひらに乗せ、そこに左手から硬貨を移す。右手の上の硬貨たちがばらけないように空いた左手の指で硬貨を上から抑える。

 客はカバンのチャックを閉めると、そのままこちらを見ずに手だけを差し出した。私はそこにレシートごと釣りをあてがった。しかし客はそれらがきちんと乗りきらないまま手を引っ込めたので、硬貨達はレシートの上でバランスを崩して滑り、そこらに散らばった。

 私は横のドアから飛び出して、客と一緒に小銭を拾う。左手に受け皿を作って、右手の人差し指と親指で一枚一枚摘んでいく。なんとなく散らばった半分づつの面積を分担して受け持つが、客はぶつぶつ文句を言いながらも自分の分をきちんと回収した。私の担当のほうがより散らばりが大きかったので私の方が時間がかかった。客は私を押しのけて残りを拾い集めた。結局ほとんど客が拾うことになった。私が左手の硬貨を差し出すと、客は乱暴にそれを奪い取って舌打ちをした。私は呆然としていると、今度はまた別の客に声をかけられた。すぐに定位置に戻って、またレジの硬貨をレジから左手へ、左手から右手へ、右手から客の手へ──


 忙しい時間帯は過ぎ、私の休憩の時刻となった。売れ行きが悪くいつも残る商品の、賞味期限の順から拾って、店を後にした。同僚たちは仲間内で休憩室などを使うようだが、私はそこに馴染めないので、いつもの場所へ向かった。

 展望デッキの方向に、ベンチが設置されている。外になど出なくともベンチ横の大きなガラス窓から外が見えるのに、一切の人の気配がなかった。私はそこへ歩いた。私の靴が石のタイルを叩くほんの小さな足音だけが静寂を破った。ベンチの端まで行くとそこで腰を下ろした。定位置だった。ここからが一番眺めが良い。

 私はパンの包装をいつも通りに開けた。パンに付いたソースが手に付着するのを嫌っていつもその開け方をする。しかし気をつけていても、毎回ビニールの端や見えにくい部分から、指にソースが付いてしまうのだった。

 売れ行きの悪いパンは実際、あまり美味しくなかった。私は毎回、どうして客は食べてもないこのパンが美味しくないことを察知できるのだろうかと不思議に思うのだった。そして、毎回その答えは出なかった。私は考えるのを途中でやめて、窓の外を見た。これもいつものことだった。

 機械的に働く私の、唯一の執着は飛行機だった。幼少期に一度だけ乗った飛行機は、私の生涯忘れぬ経験になった。私は別にうんと貧しいわけではないので、何とか費用を貯めて飛行機に乗ることが出来なくもないが、そんなことをしても意味はなかった。旅行など何をすればいいかわからないし、帰ればいつでもまた地面に足をつけることになる。形だけ飛んでも仕方がないのだ。それに、いつしか崇拝の対象になった飛行機は、私の手が届くことのない世界に対して嫉妬すら許さない、崇高な乗り物だ。私がそれを侵すことはならなかった。きっと空からは矮小な存在を視認することすら出来ないのだろう。

 無機質にして無限の営み。起きること、用を足すこと、風呂に入ること、食事を取ること、歯を磨くこと、出勤すること、店に入ること、羨望すること、硬貨を受け渡すこと、余り物を消費すること、ビニールを破くこと、食事を取ること、離着陸を眺めること、トイレに行くこと、手の汚れを取ること、用を足すこと、また手を洗うこと、店に戻ること、硬貨を受け渡すこと、帰宅すること、テレビをつけること、食事を取ること、自慰をすること、眠ること、また起きること。気が狂いそうなほどの固定された輪廻の中を、寸分の狂いもなく、狂うこともできずただ漂っている。解脱を夢見て空を眺めても、地面としっかり癒着して足は離れない。空があんなにも広大な空なのは、私のような数える意味のない人間の、数えきれないほどの憧憬と嫉妬が充満しているからだろう。

 ぼうっとしながらも食事を済ませた私は、手についた油汚れによって意識を取り戻した。気がつくと、ガラスの外では、整備を終えた一機の飛行機が滑走路の端に着いた。離陸の体勢を整え、カーブを曲がり切った。それは羽を目一杯広げ、ジェットを雄々しく猛らせていた。その姿勢は、運動エネルギーだけではない何か別のエネルギーを確かに携えていた。輪廻から解脱する、そんな莫大なエネルギー。

 一定の速度で動いている他の飛行機から抜け駆けて、その飛行機はついに走り出した。ぐんぐん加速する機体は前方から空気を浴びている。翼の下を遅い気流が、翼の上を速い気流が通り、その圧力差が揚力になる。重い体を持ちあげて、機首は空をしっかり見据えている。前輪が浮いた。体がほんの少し縦になったので、空気の抵抗をしっかり受ける。それでも前進する。後輪は未だ地面に付いている。その時、私は確かに離陸を祈った。しかしどこかで、悲惨な事故をも願った。翼を後ろから引くような、機体を前から阻むような私の念は空気の粘りになった錯覚を覚えた。しかしそれを踏み台にして、後輪は無情にも地面から離れた。

 空港アナウンスが鳴り、我に返った。腕時計を見ると、そろそろ戻らでばならぬ時間だった。近くにあるゴミ箱の一番左にパンのビニールを捨てた。立ち上がり、ガラスを背にした。私は整備士ではないので、手を振る必要はない。私が見届けなくても、いつでも飛行機はあのまま真っ直ぐに飛んでいくのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る